Christmas with Twins
＜2＞
お邪魔します、と誰もいない空間に向かって頭を下げ、靴を脱いで上がる。が、いつもなら奥からばたばたと走って歓迎してくれる彼の姿がない。
「あれ？ 直は？」
「ん、ああ。部屋にいる」
珍しいなと思いつつリビングの扉を開けると、茶色い物体が飛びかかってきた。
「ひゃああっ！」
悲鳴とともに後ろに飛びのくと、避けられると思っていなかったのか茶色い物体は目の前でべたん、と転んだ。
「なっ、なに？」
驚いて秀を見やると、呆れたと言わんばかりに額を押さえている。
「あいたた……なんで避けるんだよお」
ぶつけた膝をさすりながら起き上がったのは、なんとも形容しようのない奇怪な格好をした直だった。
「直？！ その格好……」
「トナカイだよトナカイ！ 見れば分かるだろっ」
茶色の全身タイツに頭には角。そして不自然に大きな赤い付け鼻。かなりデフォルメされているが、確かにトナカイだ。
「トナカイなのは分かったけど、なんで？」
「なんでって、決まってるだろ。クリスマスだよ、クリスマス！ 今日は12月24日。仏教徒も無神論者もジングルベルって浮かれる日だ」
「クリスマス……」
耳の奥で、さあっと音がした。血の気の引く音。純はくらりとよろめき、膝を折ってその場に座り込みそうになった。
しかし寸前で温かい腕に支えられる。全体重を預ける形になったが、その腕はびくともせず純の重みを受け止めた。
「秀……」
純は首をひねって、秀の顔を見上げた。その表情には憐れみとも同情とも異なる、純の苦しみにひたすら寄り添おうとする秀の想いが表れていた。
純は思わず息を呑む。もしかしたら彼は、全て知っているのかもしれない。クリスマスを忌避する理由を。この身体に染み付いた穢れを。
「純をびっくりさせようと思ってさ、今日まで黙ってたんだ。パーティーの準備はできてるよ。純が着る分の衣装もあるから、それに着替えて──」
「僕っ、僕は……」
何か言わねばと思い、その焦りが不必要に大きな声となって直の楽しげな言葉を遮った。しかし直は不審も不快も見せず、それどころかにっこり笑って「ほらっ」と赤いサンタ服を差し出す。
純は速まる鼓動を抑えるため、意識的に呼吸を深くした。するとそれに呼応するように、耳の奥から歌声が溢れてくる。純を絶望へ追いやる無垢なる天使の歌声。
「僕は……」
汝が運命を主の手に委ねよ
「クリスマスが……怖く、て……」
彼は汝を支え給わん───
「真っ赤なおっ鼻の〜〜、トナカイさんわ〜〜」
見事に音程の外れた歌が、半ば無理やり耳の中に入り込んできた。その破壊力は凄まじく、天使の歌声はあっという間に駆逐された。
「純、頼む。乗っかってやってくれ。でないとこの歌を延々聴かされるハメになる」
「う、うん……」
秀の懇願に戸惑いつつもサンタ服を受け取ると、直はにぱっと笑って、
「純、パーティーやろうぜ！ クリスマスパーティー」
「クリスマス……」
断るのは簡単だ。クリスマスには嫌な思い出があるから楽しめないと告げれば、二人は深く追及することなく納得してくれるだろう。でも、
──僕はここにいるって決めた。遠い地で味わった苦悩も幸せも、愛したことも愛されたことも忘れてここでもう一度やり直すって。だから
純は深呼吸をした。感覚が清澄になるが、深淵へ誘うあの声が再び聞こえる気配はない。いや、もし聞こえたとしてもきっと大丈夫。そんな確信が純の中に芽生え始めていた。
「あのね、直。僕、クリスマスには嫌な思い出しかないんだ。だから、100パーセント楽しめるか自信はないけど、でも……パーティーやろう！」
「おう！ 嫌な思い出なんてさ、パッパッと払っちゃえばいいんだよ。消しゴムのカスみたいにさ」
純は笑顔で頷いて、受け取ったサンタ服を広げてみた。が、
「な、なにこれっ、ミニスカート？！」
「うん。ミニスカサンタ。ちなみにそれ、秀の見立て」
「んなわけねえだろっ」
「いやいや、双子だから考えてることが通じるんだよ。言葉には出さなくても、わが弟は純にミニスカサンタの格好をしてほしいと思ってるはず。こいつ、そういうことに興味ない紳士な顔してるけど、実はムッツリスケ──」
「直ッ、お前は〜〜」
どたどたと追いかけっこする二人を、純は笑顔で眺めた。時折濡れた目尻を拭いながら。
「悪いな、遅くなっちまって」
「ううん、とっても楽しかったよ」
白い息を吐きながら答える純は、冬の怜悧な夜気に溶けてしまいそうなほど儚げで、秀は思わず繋いだ手に力を込めた。
純はぴくんと身じろいだが、すぐに握り返しふわっと笑う。その笑顔は美しかったが、やはり不安定な揺らぎがあった。
いや、不安定に揺らいでいるのは自分の感覚なのかもしれないと、秀は軽く頭を振って理性を呼び戻した。夜の魔趣に呑み込まれてはいけない。
「直のやつ、さんざん引き止めておいて、自分は食いすぎでダウンってどういうことだよ。ったく」
「まあまあ。直らしいといえばらしい」
ここで会話が途切れた。気まずさはないが、純が余計なことを考えないで済むよう何か楽しい話題を振ろうと頭を巡らせた。その時、純がぴたりと足を止めた。
「どうした？」
「ね、この先を曲がったところに、あの公園があるんじゃなかったっけ？」
「……あの公園？」
いかにも分からないという風に訊き返したが、もちろん秀は“あの公園”が意味することを理解していた。とぼけたのは100パーセント照れ隠しだ。
しかし純は、秀が忘れてしまったと思ったようで、ちょっと淋しそうに「覚えてないのか…」と呟いた。そして秀の手を引いて、自宅とは逆方向の公園に向かった。
「うわ、懐かしい。子供の頃は広い公園だと思ってたけど、案外小さいんだね」
冬の夜の公園に、人気があるはずもない。頼りない外灯が、ところどころ闇を淡く照らしているが、それが余計に寂寥を感じさせた。純は植え込みに近づくと、秀の方をくるりと振り向いて、
「ほら、思い出さない？ ここで秀が僕にキスしてくれたんだよ」
思い出すどころか、忘れたことなどない。幼い純の柔らかな唇。その甘さ。ぴったり重ねた時に、身体の奥から湧き上がった未知の危うい感情。でもそれを正直に告げるには、生硬な自意識が邪魔だった。
要は、ちょっとクールぶりたかっただけ。そんなの覚えてねえよと、カッコつけて軽くあしらいたかっただけ。
「ガキの頃の話だろ？ 覚えてねえよ、そんなの。くだらねえ」
純の瞳が、哀しげに曇る。それでも口元は、かろうじて笑みと呼べる緩やかな曲線を描いていた。
「そ…か。うん、そうだよね。ちょっとした悪戯。子供の気まぐれ。いちいち覚えてる方がおかしいのかもしれないけど……」
純の笑みが深まる──いや、違う。これは崩壊だ。笑み崩れるという言葉があるのか分からないが、秀が見たのはまさにそれだった。
しかし純は、自分がまだ笑っていると、笑えていると思っているのか、笑顔にふさわしい明るい声を出そうとする。
「でもね、心の底からよかったって思うんだ」
もういい、もう笑おうとしなくていい。明るさを装わなくてもいい。腹の底に必死に抑え込んでいる暗黒を、そのまま吐き出して楽になればいい！ 秀は喉の奥で声にならぬ叫びを響かせながら、「何がよかったんだよ」と暗い声で返した。
純はくしゃりと顔を歪め、
「秀が……ファーストキスの相手でよかった、って……」
これが微笑ましい告白などでないことを、秀は瞬時に理解した。あのキスがなかったら、純の唇を最初に奪ったのは恐らく、無抵抗の幼い純を欲望の糧（えさ）として弄んだ叔父、否、叔父の皮をかぶった鬼畜だったろう。
だからよかった、ファーストキスの思い出は美しいものでよかった、純はそう言っているのだ。
これを、下らぬ感傷だと切り捨てられるだろうか。初めての相手が誰であろうと、純が非道な陵辱を受け続けた事実は微塵も揺るがない。ささやかすぎる思い出など、腐臭を放ち怪物じみた存在感を放つ過去の前には無力だと、誰が笑えるだろうか！
「くっそ……ちくしょ……ぅぅ……っ、ちくしょう！」
考える余裕などなかった。衝動と本能を何より警戒し、行動の前に必ずその動機と理由を明確にするのが習い性だった秀が、ただ激情のまま純に手を伸ばし、その肩を掴んで引き寄せ、腕の中に拘束した。
口から迸る呪詛は行き場のないまま虚しく闇に吸い込まれる。そのままわずかに夜が流れ、気がつけば純は腕の中で、小さく震えていた。
「わ、悪い。寒いよな。早く帰ろう。環さんも心配して──」
「ね、秀。秀は知ってるんじゃないの？ 僕が……クリスマスを嫌う理由」
「な…に言ってんだ……俺はっ……」
「正直に答えてほしい。知ってるんだね？」
問いの形が変わった。秀の態度を見て、純が確信を強めた証拠だ。真っ直ぐ見上げる紫の瞳に、狼狽しきった自分の顔が映っている。秀は観念した。
「お前が……親父さんと話しているのを部屋の外で聞いてしまった。済まない」
「直にも、他の誰にも言ってないんだね」
「当たり前だ。俺の胸ん中に全て収めてある」
「そっか……ごめんね」
秀は目を剥いて声を荒げた。
「なんでお前が謝るんだ！」
「だって、すごく嫌な話だったでしょ？ しかも、誰かに話して気持ちを軽くすることもできない。秀一人が抱え込むことになってしまう。それに」
純は涙の菲膜をきらめかせて、淡く笑った。
「ありがとう。あんな話を聞いた後でも、僕と友だちでいてくれて。僕みたいな──」
「やめてくれ！ ごめんとかありがとうとか、そんなこと言わないでくれ、頼むからっ……」
秀は再び、純の身体を全身で包み込むように抱き締めた。ぴったり重なった身体から伝播する温もりが、さっきまでのぎこちなさをゆっくり融かしてくれた。
「あれは……嘘だ。覚えてないっていうのは」
「秀？」
「覚えてる。よく覚えてるよ。この植え込みの陰でお前とキスした。アイスか何かを食べた後で、お前の唇がとても甘かったのを覚えてる。いや、甘いだけじゃない、柔らかくて、ふっくらして、とても……気持ちよかった」
「うん、僕も……。すごく幸せな気持ちになったよ」
「ああ。最高の思い出だ」
秀はわずかに抱擁を緩め、純の顔を上から覗き込んだ。泣いてはいない。しかしどこか虚ろな表情。その理由はすぐに分かった。
「なんだか久しぶりだ……ここまで人の温もりを密に感じるのって」
純の言葉を聞くと同時に、秀は口を開いていた。
「純、本当にいいのか。彼に会いに行かなくて」
紫色の虹彩がみるみるうちに縮む。痛ましさすら覚えるほどの驚き。しかし秀は続けた。
「今も……彼のことを思い出していたんだろう？」
「ぼく……」
「会いたくて会いたくてたまらないんだろう？」
「ぼくは……」
「会って誤解を解いて、そしてまた……愛し合えばいい。まだ十分間に合う」
言葉を重ねるたびに、純の顔に苦悩が広がる。自分は残酷なことを言っているのではないか。そんな疑念に囚われた瞬間。
「駄目なんだ！ 僕と一緒にいちゃ駄目なんだよ！ 優しくて繊細で愛情深い人だから、一緒にいたらまた僕のせいで苦しみ、汚いことに巻き込まれてしまう。あの人の人生をめちゃくちゃにするくらいなら、僕は喜んで裏切り者になる。憎まれて、蔑まれて、挙げ句忘れられても構わない。ううん、忘れられた方がいいんだ。その方が……幸せなん、だ……」
秀の胸に爪立てて、叩き付けるように訴えた純。やがて力尽きたように、秀の胸にぐったりもたれかかった。
「……そうか。お前はお前なりのやり方で、彼への愛情を貫いたんだな。よく分かった」
「しゅう……」
「だったらお前も、彼のことは早く忘れろ。酷なことを言ってるのは承知してる。でも、お前にだって幸せになる権利はある。そのためには早く忘れて、いい恋人見つけろよ。まあそれまでは……俺が守ってやるから」
最後のひと言は余計だったかもしれない。秀が苦い反省をくゆらせていると、純がきゅっと抱き着いてきた。
「ありがと、秀。でも、恋人は当分いいや」
「怖いのか？」
「そう、だね。正直怖いよ。また、僕のせいで相手が傷つくようなことになったらと思うと……」
秀はふっと口元を緩めて、純の髪を優しく梳いた。
「そうだな。なら今度は、優しくて繊細な人間じゃなく、もっと図太くて強引で無神経で、純を振り回すぐらいの人間がいいんじゃないか？ 障害が立ち塞がっても、腕力でガンガン叩きのめすような」
「ええ〜？ そんな自己中心的な乱暴者ヤだなあ。なんかデリカシーなさすぎ」
「そうか？ ま、確かにな。そんな猛獣みたいなヤツ、純には似合わないな」
そして二人は再び手を繋ぎ、公園を後にしたのだった───
「……ぶえっくしょん！」
「ああ？ なんだよ成仁。風邪かあ？ ひ弱なお父様にうつすんじゃねえぞ」
「誰がひ弱だよ。単に年とって体力が落ちてきただけだろ」
「てめえ、親に向かってその口の利き方はなんだ。つうか、なんでクリスマスイブに家にいるんだよ。今日は堂々と女とヤれる日だぞ」
「お前……それが親の言うことかよ。今日会ったら恋人公認になったと思い込んで、これから彼女づらして付きまとわれるだろ。うぜえ。ったくなんで女って、バカのひとつ覚えみたいに記念日記念日って……」
「おーおー、それはそれは。モテる男はつらいねえ。ま、お前にもいつか、そういう記念日を一緒に過ごしたいって思える相手が現れるぜ、きっと」
「なんだよ唐突に。気持ち悪ぃ。いらねえよ、そんな相手。めんどくせえ」
「なら風俗でも行くか？ 後腐れなくていいぞ」
「風俗で処理するような大人にはなりたくねえな」
「なんだとッ、親に向かってその口の──」
Merry Christmas！
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