Sweetest Secret

２.

図書館を飛び出した純は、全力疾走で中庭を突っ切って、校舎内に続いている渡り廊下に飛び込もうとした。しかしちゃんと周囲を見ていなかったため、歩行者に思い切りぶつかった。

「うわっ」
「ひゃぁっ」

その拍子に持っていたメジャーを落としてしまった。するとぶつかった相手がそれを拾い、「はい、どうぞ」と笑って手渡してくれた。純は恐縮して受け取り、深々と頭を下げて謝った。

ぶつかった相手は先輩だろうが、余り見たことのない人だった。彼は「大丈夫だよ」と笑ったが、純の瞳が潤んでいるのを見とめると少し慌てて、

「君こそ大丈夫？　どこか怪我しなかった？」
「い、いえ、僕は大丈夫です。あの……」
「ああ、俺は吉井っていうんだ。尭村くんと同じクラスだけど、９月に編入してきたばかりだから」

純は納得した。それで余り見たことがないのだ。吉井は眩しそうに目を細めて、

「純くん、だよね。本当に大丈夫？　なんか……泣いてたみたいだけど」

邪気のないストレートな口調に、純もつい素直に反応してしまう。こくんと頷きつつ、「でももう平気です」と答える。吉井は敢えて突っ込まず、

「そっか。ならいいけど。それにしてもメジャーなんて、変わったもの持ち歩いているんだね」
「いっつもじゃないです。尭村さんの―――」

思わず言いそうになって、慌てて口を閉ざす純。吉井は不思議そうに大きく瞬きして、「尭村くんがどうしたんだい？」と訊ねる。

「いえ、なんでも………」

落ち込んだ表情で首を振る純を見過ごすことができず、吉井はつい詮索してしまう。二人の逢瀬を覗き見して以来（『吉井くんの災難』参照）、ちゃんとうまくいっているのか気になって仕方がないのだ。

「あ、あのさ、俺でよかったら相談に乗るよ。尭村くんには色々世話になってるし」

純は黙って彼を見つめた。単に面白がって言っているのではないことは、真剣な表情を見れば分かる。純は自分でも驚くほど素直に口を開いた。

「あの……笑わないでくださいね。バレンタインに、あの、セーターを……」

もじもじしつつも事情を打ち明けた純に、吉井はひとこと「分かった」と力強く返すと、

「じゃあ、俺が尭村くんの肩幅を測ってきてあげるよ」
「えっ？　どうやって？」
「適当に理由作ってさ。もちろん、君に頼まれたなんてことは絶対口にしない。どう？」
「い、いいんですか……？」

吉井は大きく頷いて、

「もっちろん。任せといてよ」

胸をばんばん叩いて、鷹揚に笑ってみせた。



「尭村くん、ちょっと肩幅を測らせてもらっていいかな」
「………はぁ？」

こんな間抜けづらを晒してもいい男だよなあ、そんなかなり微妙な感慨に耽りつつ、メジャーを掲げた吉井は屈託ない笑みを浮かべて尭村に近付いた。

しかし案の定というか何というか、尭村は苦々しい顔で「何のつもりだ」と睨み返す。その迫力に気圧された吉井は、うろたえつつも何とか笑顔を保って、

「い、いや、その、俺の姉ちゃんがさ、尭村くんと似た体格の彼氏に手編みのセーターを作るからって。それでその……肩幅のサイズを………」
「何だよそれ。ならそいつの肩幅を測りゃいいじゃねえか」
「彼氏には内緒で編んで、びっくりさせたいって言うんだよ。女心だねえ。はは……」

白々しく乾いた笑いで何とか空気を和らげようとするが、逆効果になってしまったようだ。尭村は視線を冷たく尖らせて「知るか、そんなの」と吐き捨て、席を立とうとする。

が、二人のやり取りに耳をそばだてていた女子３人がだだっと駆け寄り、

「まあまあまあ。いいじゃないの。肩幅くらい測らせてあげたら、ねっ？」
「そうだよぅ。別に減るもんじゃないし」
「ほらほら、吉井くん。今のうちに早くっ」

時に腐女子は恐いもの知らず。尭村の肩をぐいぐい押して椅子に座らせ、吉井からメジャーをひったくって素早く肩幅を測る。

加えてご丁寧に腕の長さや身頃幅まで測ると、周到に用意しておいたメモに書き付けて吉井に渡した。

「お前らぁ〜〜、ったく、訳わかんねえ」

ぶつぶつ文句を垂れる尭村を尻目に、３人は吉井を教室の隅に引っ張り、

「吉井くん、がんばってね」
「すごく丁寧で分かりやすい編み物の本持ってるから、今度貸してあげる」
「今から頑張れば、バレンタインにきっと間に合うよ」

もちろん吉井には何のことだかさっぱりだったが、彼女たちの迫力に圧倒されて取り敢えず頷く。すると３人は瞳を潤ませて、

「ぜったいに叶うことがないと分かっていながら、尚も想いを紡ぎ続ける………うう、超切ない。萌えますっ」
「うんうん。こういうシチュもいいよね〜」
「ハッピーエンド至上主義だけど、たまにはビターエンドも………」

そんなことを真剣な表情で言い合う。吉井は首をひねりつつも、渡されたメモ書きを純のもとへ届けるべく教室を出ていった。

その後、吉井に関する誤解がさらに深まったことは言うまでもない。




吉井の犠牲的行動により、めでたく尭村に勘付かれることなく採寸に成功した純は、さっそく早紀の教えを仰ぎつつ編み始めた。

最初は目を飛ばしてしまったり、逆に目を増やしてしまったりと失敗続きで、せっかく編んだ分をほどく羽目になったりと一進一退の態だったけれど、身頃の半分を編み終えた頃にはもう慣れてきたのか、失敗もなくスムーズに進んでいった。

がんばった分だけ目に見える結果が現れる編み物は、純の真面目な性格に合っていたのか、進めば進むほど楽しくて徐々にはまっていった。

それに何より、尭村が着る物を自分の手で作れるのだ。こんな幸せが、喜びがあるだろうか。この真っ白なセーターを着た尭村の姿を想うだけで、胸がきゅんと締め付けられる。思わず口許が綻び、編む手にも自然と力が入ってしまう。

学校にいる間も白いセーターがちらちら頭を掠め、終業と共に一目散に帰宅して続きを始める。乙女な幸せ満開の純だった。

しかし、そんな幸せが音をたてて崩壊することになろうとは、この時の純は知る由もなかった。



バレンタインの２日前、白いセーターは見事に完成した。処女作にしてはなかなかの出来栄えで、早紀からのお墨付きももらった。

純は嬉しくて嬉しくて、できたてほやほやのセーターをぎゅぅっと抱き締め、すりすり頬擦りする。尭村さんびっくりするかな、喜んでくれるかな。明後日が待ち遠しいな………

その夜、純は綺麗に畳んだセーターを枕元において眠った。興奮して寝付けないかと思われたが、明日はラッピングの材料を買いに行こうとか、そんなことを考えていたらだんだん瞼が重くなり、心地よい眠りに吸い込まれていった。

そして翌朝、意気揚々と登校したのだが、そこで尭村と森下のとんでもない会話を耳にしてしまったのだった。

「手編みのマフラー？」
「ああ。ロッカーに入ってた。ったく気持ち悪ぃ」

言葉以上に雄弁な表情で、不愉快そうに舌打ちをする。そんな尭村に森下は同情するように笑い、

「確かに手編みはキツいというか重いというか。ひと目ひと目に愛情込めてます、みたいな。でもセーターじゃなくて良かったじゃねえか。なあ？」
「どんな慰めだよ。どっちも同じだ。女ってのは、男は手作りのものなら何でも喜んで受け取ると思っているからな。そんなの、作ってるてめえが気持ちいいだけじゃねえか。こっちはいい迷惑だ」
「まあまあ。で、ブツはどうしたんだよ」

尭村はどうでもいいと言わんばかりに肩を竦めて、

「いちいち本人に返すのも面倒臭えから、落し物の箱ん中に突っ込んどいた。誰かの首に巻かれりゃ本望だろ」
「はは。ひでえ奴」

二人が去っていっても、純はその場に佇んでいた。身体が動かない。今耳にした会話が、尭村の「いい迷惑だ」という台詞がずっしりとのしかかって四肢を押さえ付ける。

「恥ずかしい……」

そう、純を襲った感情は悲しみではなく恥ずかしさだった。
“作っている自分が気持ちいいだけ”―――そう、その通り。浮かれる余り、尭村は絶対に喜んでくれるはずと勝手に決めつけていたのだ。彼の迷惑も考えずに。結局自分は―――


―――僕は尭村さんのことなんて何も分かっていないんだ………


痛い認識を反芻しつつ、がっくり項垂れる。そして、あんな会話を聞いてしまっても尚、セーターを受け取って欲しいと思ってしまう自分の身勝手さ、貪欲さに呆れ返る。

もうあんなものはあげられない、そう分かってはいるのだけど、行き場のない真っ白なセーターが可哀想で、愛しくて、涙がこぼれそうになる。

でもそれは勝手な感傷だと自分を叱咤して、とぼとぼと教室に戻ろうとした。その時、

「おおーい、純っ。こんなとこでしょぼんとしてどしたんだ？」

のろのろと振り向くと、薫が笑顔全開で手を振りつつ駆け寄ってきた。純もつられて微笑んだが、薫の眩いばかりの笑顔とは比べものにならない。

何かあったなと察知した薫は、わざと軽い口調で「どうしたんだぁ？　おにーさんに話してごらん」と言ってぽんぽん肩を叩く。純はそっと首を振って、

「何でも……ないんです」
「うそだぁ。俺の目はごまかせないぞっ。あ、また尭村にひどいこと言われたんだなっ。あいつ〜〜」

俺がきっちり諭してやるっ、と拳を振り上げる薫を、純は必死で宥める。

「ち、ちがうんです。僕が勝手にセーターを………」
「セーター？」

純ははっと口を押さえたが、かくんと首を折って、

「バレンタインに……セーターを編んだの。でも迷惑だって―――」
「なにぃっ？　迷惑だって言ったのか、あいつッ」
「いえ、はっきり言われたわけじゃ……。でもきっと、手編みなんて重いもの、あの人は………」

薫は胸の奥で溜め息をつく。純が編んだものをあいつが喜ばないわけないじゃん、という諭しが喉元まで出かかったが、今それを言っても無駄だろうと思った。
それより、純には荒療治が必要だ。薫は声を低めて、

「せっかく編んだセーター、受け取って欲しいんだろ？　だったらさ、おまけを付けて渡せばいいんだよ」
「……おまけ？」
「そう。純が裸にプレゼントのセーターを着てさ、そんで首にリボンでも巻いて僕ごともらって、みたいな」

その場面を想像してみたのか、純は湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしてぶんぶん首を振る。しかし薫は純の肩をわしっと掴んで、

「いいじゃねーか。たまにはさ、純の方から誘ってみろよ。あいつもうでろでろに喜んで、セーターだって受け取ってくれるぜ」
「………薫さんも、片瀬さんにそゆことするんですか？」

今度は薫が茹だる番。顔を真っ赤にして「俺はいいんだよ！」と喚く。そして赤い顔のまま純を見据え、

「一生懸命編んだんだろ？　だったらそのくらいのことしてみろよ。なっ？」

純は迷いつつも、薫の熱い説得に圧されて取り敢えず頷いたのだった。




翌日。バレンタインデー当日ということもあり、学内はどこかそわそわ浮き足立っていた。

もちろん純もその一人。一応ラッピングしたセーターを鞄の中に忍ばせてはきたが、予想通り渡すタイミングが掴めず、いたずらに時間が流れていった。


―――どうしよう、どうしよう………


今朝家を出る時、「間に合ってよかったわね」と笑顔で送り出してくれた早紀のことを想う。もし受け取ってもらえなかったなんて知ったら、きっと悲しむに違いない。

「よしっ」

純は覚悟を決めた。今日の最後の授業が始まる前に、直に「早退するね」と耳打ちして荷物をまとめ、学校を出る。そして真っ直ぐ尭村の家に向かったのだった。



「え？　早退した？」

一緒に帰ろうと純の教室に迎えに来た尭村は、直の答えに驚いて聞き返す。

「どこか具合でも悪かったのか？」
「いえ、そういうわけでもなさそうで……。でも、朝から何か様子が変ではありましたけど」

確かにこのひと月くらい、純の様子はおかしかった。自分の後を付け回したり。放課後も、さっさと一人で帰ってしまうし。


―――まさか、他に好きな男ができた…？　それを俺に言えずに………


そんなはずはない、そう言い聞かせてはみたものの、自分の顔が徐々に凶悪化してゆくのを抑えることはできなかった。直はごくりと唾を飲み込んで、

「尭村さん………大魔神みたいだ」
「うるせえッ」

ぶわしッ、と凄い勢いで戸を締めて、教室に背を向けた。



応対に出た早紀の「純はまだ帰ってないのよ」という答えに、尭村は動揺を隠せない。疾うに学校を出ているはずなのに………

「ね、ね。純からもらったでしょ？　どうだった？」
「は？　何を―――」

早紀はちょっと眉根を寄せ、

「もしかして、まだもらってないの？　うわ、先走っちゃったぁ。ごめんね、今のは忘れて」

しかし尭村はずいと接近して声を低め、

「何をです？」
「ひぇぇ〜、どうしよ。あのね、今日はバレンタインでしょ？　純はあなたにとびきりのプレゼントを用意してるの。私の口からはここまでしか言えないわぁ」

さすがにこれ以上早紀を問い詰めることはできず、尭村は半信半疑のまま純の家を後にする。

「もしかして、俺の家に………」

慌てて車に乗り込み、自宅へ急いだ。

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