未来へ続くクリスマス
― つぎはぎだらけのLoveSong ―
＜9＞
突然現れた優に、佐々井はかなり驚いているようだった。無理もない。優だけならまだしも、その傍らには柚葉が、しかもしっかり手を繋いで控えているのだから。
「佐々井さん、約束の一カ月は過ぎましたから、別居は解消させてもらいます。いいですね？」
是非を伺うとか許可を求めるといった柔らかさは微塵もない、断定的な口調で確認を取る優に、佐々井は慌てた様子で、
「いや、それはまだ早い。もう少し慎重に行動すべきだ。例の二度目の熱愛報道のせいで、まだマスコミが周辺をうろついている可能性がある」
「二度目の？ ああ、あんなもの全くのでたらめですよ。事実なんて1ミリも含まれてないって、誰よりも佐々井さんが知ってるはずじゃないですか」
優のいつになく攻撃的な口調に、遠回しの宥めは通用しないと悟ったのか、佐々井はターゲットを柚葉に変えた。いかにも心外だと言わんばかりに眉根を寄せて、
「あなたは一体どういうおつもりですか？ こんな軽はずみな真似をして、後藤のアーティスト生命を潰したいのですか？」
約束を反故にしたことに対する非難が暗に込められていることは、柚葉にもすぐ分かった。
「僕は、あの……」
何か言い返さねばと口を開いたが、それを遮るように優が一歩前に出た。
「柚葉さんは悪くない。それどころか、俺のためを想って身を引こうとまでしてくれたんだ。自分と一緒にいたら、くだらないスキャンダルの餌食になってしまうと言って」
「そうか。ならば、そんな彼の気持ちを尊重すべきではないのか？ アーティストとして音楽活動に専念することで、身を引いてくれた彼への恩返しをすればいい」
「大事な人を犠牲にしておきながら、愛だの希望だの歌ったところで何の説得力もない。そんな上っ面なもの歌うぐらいなら、俺は―――」
その時、奥のドアが開いて鮮やかなブルーのスーツを颯爽と着こなした女性が現れた。派手な巻き髪といい、官能的な厚みのあるローズの唇といい、オフィスより夜の銀座が似合いそうな女性だ。しかし、彼女は―――
「しゃ、社長……」
佐々井はさっと表情を変えて、軽く一礼した。つられて優と柚葉も頭を下げる。デシベル・ミュージック社長、青柳聡子はゆっくり近づいて優を見据え、
「上っ面上等よ。あなたたちが歌っているものは作品ではなく商品なの。そんなことも分からず、この世界に入ってきたのかしら」
「はい。残念ながら、そんなことも分からず入ってきたみたいです」
平然と返す優に、聡子も「だったら今から学びなさい」と感情を交えず命じる。そしてさらに冴え冴えとした声で、
「あなたは後藤優というひとつの企業、ブランドなんです。商品を売るために、カラーやイメージを守る義務がある。切ないラブバラードを歌う王子様系美青年アーティストが、実はゲイでホモで男の恋人と同棲してるなんて世間が許さない。それでも我を通そうというのなら、我々としてはこれ以上サポートはできないわ。辞めてもらうしか―――」
「なら、辞めます」
社長の言葉に被せ気味で返した優は、「今までお世話になりました」と淡白な口調で続けて頭を下げた。
事務所サイドはもちろん、柚葉も仰天し、「ち、ちょっと優くんっ」と吃りながら肘をつついた。ただ一人、晴れ晴れとした表情の優は柚葉に笑いかけ、
「じゃ、帰ろうか」
そして自然な仕草で肩を抱き、出口へ向かった。ここを訪れた時よりずっと穏やかな優の顔を見た柚葉は、彼が売り言葉に買い言葉、ただ勢いだけで辞めると言ったのではないと悟った。
「待ちなさい。そんな簡単に大事なものを手放していいの？ あなたは自分がどれだけの成功を手に入れたか理解していない。売り上げや人気、応援してくれるたくさんのファン。デビューしたからといって、必ずしも成功するとは限らないのよ」
聡子の言葉も尤もだった。バイトや会社を辞めるのとはわけが違う。これまで獲得したもの全てを失うことに他ならないのだ。しかし優は動じる気配も見せず、笑みすら浮かべ、
「俺、気付いたんです。俺の大事なものはこの両手に収まるってことに」
そう言って聡子を真直ぐ見返した。その右手はギターを担ぎ、左手は柚葉の肩を抱いている。
「……分かったわ。もう行きなさい。優、メリークリスマス」
優はメリークリスマス、と真摯な声で返すと、後ろを振り返ることなく部屋を後にした。
デシベル・ミュージックの本社を出た優は、ビルを見上げて、
「もう、ここに来ることもないかな。いや、まだ色んな手続きとかしなくちゃならないのかなあ」
のんびりしたその声にはわずかな未練も後悔も含まれていなかったが、やはり柚葉は聞かずにはいられなかった。
「優くん、これでいいの？ 優くんにとって音楽は命、歌うことは生きることなんでしょう？ なのにこれじゃ―――」
「柚ちゃん、俺さ、昨日日帰りで故郷に行ってきたんだ」
唐突な優の言葉だったが、そこに重要な“答え”があることを察した柚葉は問い質すことなく続きを待った。
「話したことあったよね？ メジャーデビューする前お世話になったライブハウスがあるって。久しぶりにそこを訪ねて、オーナーと話しているうちに疑問が湧いてきたんだ。当時の俺と今の俺の違いって何だろうって。で、考えて出た答え。曲を作って歌って聴いてもらって……そう、根本は同じなんだ」
「優くん……」
「確かに、でかいステージに立ってたくさんの観客から歓声や拍手をもらうことは、これでもうなくなったのかもしれない。でもだからって、音楽と縁が切れたわけじゃない。ギター一本あれば、いつだってどこでだって歌うことはできるんだ。それを、最初に俺に教えてくれたのはたっちゃんなんだよ」
思い出す。まだ龍逸が現世に留まっていた頃、優のストリートライブを毎週のように見に行った。
「そ…だね。路上で歌う優くんはすごくかっこよかった。何度も聴いた曲なのに、聴くたびに新鮮で胸がふるえて……」
優は照れくさそうに頭を掻くと、急に真面目な顔付きになって柚葉に正面から向き直り、
「これからどうなるか分からない。スケジュールは一応来年の四月まで入ってるけど、契約も含めてその後は白紙だし。いずれ故郷に帰って実家の工場を手伝いながら音楽を続けるか、或いは例のライブハウスの運営を手伝うっていう選択肢もある。いずれにしても、その……柚ちゃん、付いてきてくれますか？」
柚葉は、さっきまで自分の肩を抱いていた左手をそっと握り、
「はい。付いていきます」
答えた途端、凛々しかった優の顔がふにゃ、と崩れた。
「よ、よかったぁぁ〜〜」
どうやら相当緊張していたようだ。うっすら涙まで浮かべている。柚葉は「もおっ」としかめっ面をこしらえ、
「断るはずないだろ。もっとどーんと構えてないと。俺に付いてこいっ、みたいな」
言いながらも、そういう自信満々な態度に出られないところが優の愛すべき稟質なのだと、柚葉は分かっていたのだが。
「で、でもさ、あの、大学の後輩とか、色々ライバルもいそうだし……」
口ごもりつつもぼそっと指摘され、柚葉は思わず項垂れた。
「そうだね、ごめん……」
「い、いやっ、別に怒ってるわけじゃ―――」
「たっちゃんにそっくりな人と一緒に部屋にいて、気にするなって方が無理だよね。僕が軽率でした。ごめんなさい」
優に謝りながら、柚葉は達哉にも声なき謝罪を送った。今この時間、時計台の下で自分を待っているだろう達哉に。
「それから、優くんとたっちゃんを比べるようなことを言ってしまったことも。優くんは優くんとして、100パーセントの愛情を捧げてくれているのに」
「いいんだよ。俺がまだまだ未熟で、たっちゃんに敵わないことは、俺自身が一番よく分かってるから。でもいずれは、その、追い越してみせるから。それまで気長に待っててもらえると……」
頼もしいんだか頼りないんだか分からないことを言って顔を赤らめる優を、柚葉は楽しげに眺めつつ、
「うん。気長〜〜に待ってるよ」
「達哉？ どうしたんだ。電話なんてめずらしーな」
『大下、俺……フラれたぁぁ……』
携帯から届いた達哉の声に、大下は眉をひそめる。彼とは高校からの付き合いだが、ここまで憔悴しきった情けない声を聞くのは初めてだった。
「今どこだよ」
『大学の時計台んとこ』
大下は「しょうがねえな」とぼやき、
「今から行くから待ってろ。ったく、なんでクリスマスイブを野郎の友だちと過ごさなきゃなんねえんだよ」
ぶつぶつ文句を垂れながらも、素早く上着に手を通して家を出た。
「なんか久しぶりで……ちょっと泣きそう」
ひと月ぶりの我が家は、出ていった時より若干散らかっていたけれど、ともかく柚葉を優しく迎え入れてくれた。
「だ、だいじょうぶ？ 柚ちゃん」
心配しておろおろしつつ顔を覗き込もうとする優にふいと背中を向けて、「冗談だよ、泣くわけないじゃん」と言いながら柚葉はこっそり目尻を拭った。
すると優は近づいて肩に手を置き、かすかな血色に潤んだ柚葉の耳に口を寄せた。柚葉はぴくんと身じろいで、聖夜に相応しい甘い台詞を待った。が、
「柚ちゃん、ごめんね。せっかくのクリスマスなのに、俺、プレゼントもツリーも飾り付けも、何にも用意できなかった」
愛の囁きかと思いきや、いきなり謝罪する優。微塵の甘さもないかすれた声から、心底申し訳ないという思いは十分伝わってくるのだが、やはりここは『やっと二人きりになれたね』とか、『クリスマスのご馳走は君だよ』的な含蓄ある誘い文句を囁くべきではないのか。
なんて思ってはみたものの、やはりこういう馬鹿が付くほどの真面目さにこそ優の優たる所以があるわけで、柚葉はそこに二割のもどかしさと八割の愛情を感じてしまうのだ。
「それはお互いさまでしょ？ 僕だって、プレゼントもクリスマスディナーも用意できてないし」
くるりと身体を反転させて向かい合い、諭すようにそう言うと、優は欲望の燻りを感じさせる艶笑をその端整な顔に浮かべて、
「クリスマスのご馳走は柚ちゃんだよ」
柚葉の妄想をなぞるような囁きは、しかし妄想よりずっとずっと甘く淫靡で、鼓膜をじかに撫でられたような錯覚すら喚起した。柚葉は腰の辺りがうずうずし始めるのを感じながら、咎めるような上目使いをこしらえて、
「僕は食べ物ではありません」
「え、でも俺さ、柚ちゃんを抱く前はいっつも心の中で手を合わせて、いただきます、って言ってるよ」
「優くん、なんかそれ……ヤラシイ」
「え、そ、そお？」
自覚せぬまま柚葉の官能に火をつけた優は、やはり無意識なのだろうか唇をちらと舐めた。
童話の王子様のように高貴な顔立ちにはそぐわぬ野性的な仕草に、柚葉の下腹部がずくんと疼く。まるで、早くこの奥を暴いて犯してと催促するかのように。
「ね、優くん。確かフローティングキャンドルがいくつかあったよね。あれに火を灯してお風呂に浮かべたら、クリスマスっぽくない？」
柚葉の提案に、優はぱっと顔を輝かせて、
「うん、いいねそれ。キャンドルの光って柔らかくて癒されるし」
「でしょ？ 照明を落としたお風呂にいっぱい浮かべて、僕たちのクリスマスにしよ？」
「え？ あ、あの……」
途端に、優の顔が赤らむ。優は一緒の入浴が恥ずかしいようで、いつも柚葉に『優くんてば乙女〜』とからかわれるのだ。しかし、
「ね、だめ？」
くるんと見開いた目と舌足らずな口調で甘えるようにおねだりされては、さすがの乙女な優も男らしさを見せるより他ない。頷くとともに耳元に唇を寄せて、
「でも俺、我慢できる自信ないよ。柚ちゃんの素肌見たら……」
そして耳の窪みに唇を押し付け、熱くざらついた声でいただきます、と囁いた。
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