未来へ続くクリスマス
― つぎはぎだらけのLoveSong ―
＜8＞
12月24日。クリスマスイブ。だからといって特別な何かが起きるわけもないと、人生経験を積んだ大人ならみな知っている。
日常の延長線上で、いつもよりちょっとお洒落なレストランで食事をしたり、ちょっと豪華なホテルでセックスしたり、プレゼントを交換したりする程度だ。
なのになぜかそわそわして落ち着かなくなってしまうのは、細胞の中に“クリスマス遺伝子”みたいなものが予め組み込まれているからだろうか。柚葉はそんな他愛もないことをつらつら考えながら、すっかり人気の絶えた大学の構内を歩いていた。
本当なら今日は、期間限定の別居も終わって優と一緒に過ごしているはずだった。だが予想通りと言うべきだろうか、優の新たな熱愛報道のせいでまだ身辺が騒がしいからと言われ、別居は強制続行。たぶん事務所は、このまま別れさせるつもりだろう。クリスマスを一緒に過ごすどころではない。
しかも柚葉は二日前、優に対し一方的な別れを叩き付けたのだ。あれ以来、優からの連絡はない。このまま自然消滅なのかなと思うと、目の眩むような喪失感とともに胃がずぅんと重くなって、嘔吐感が込み上げてくる。
確か龍逸を喪った後も、同じ症状に悩まされた記憶があった。柚葉は精神的なショックがそのまま、身体の変調として表れてしまうのだ。
そうして身体の芯に鉛を抱え込んだまま歩いていると、いつの間にか時計台に近づいていた。
嘗てはここでよく、龍逸と待ち合わせをした。先に着いた柚葉がベンチに座ってぼぅっと待っていると、眩しいほどの笑顔を浮かべた龍逸が手を振りながら真直ぐ駆け寄ってくる。時間に遅れたわけでもないのに、龍逸はいつも走ってきた。そして息を弾ませて『ゆず、お待たせ』と言うのだ。
「ふふ、懐かしい…………でも、」
でも、龍逸はもういない。そして、龍逸にも負けないほどの愛情を捧げてくれた優も、今遠くへ行こうとしている。
「誰も……いなくなっちゃった。誰も……」
いや、そんなことはないと、頭の隅で誰かが言っている。誰かとはすなわち、弱い自分。
『12月24日。夜6時に時計台の下で待ってます』
そう、今日の夜6時にここへ来れば、彼が腕を広げて迎えてくれる。龍逸に瓜二つの外見を持ち、まだ手探りながらも柚葉を懸命に愛そうとしてくれている達哉が。
彼に全てを委ねてしまえと、弱い自分が囁く。が、柚葉は頭を振って、鼓膜周辺に漂う囁きの残響を払った。
自分は決して、龍逸の代わりとして優を愛したわけではない。それは断言できる。しかし今、達哉を求めれば、それは失った龍逸と優の代わりに他ならない。
「誰も……誰かの代わりにはなれない」
分かり切ったことなのに、人は弱さから代わりを求めてしまう。そんな歪んだ関係が長続きするはずもないのに。虚しさと、より深い喪失感を味わうだけなのに。
「だったら、孤独を耐えた方がまだましだよね。たっちゃん……」
柚葉は、龍逸が現世に留まっていた時のようにごく自然に呼びかけると、時計台に背を向けた。そして大学構内を出て、真直ぐ駅に向かう。JRと私鉄を乗り継いで下り立った駅で花屋を見つけ、迷った挙げ句クリスマスブーケを買った。
「お墓には合わないし、違う宗教だけど許してね」
誰にともなく呟いて墓地へ行くバスに乗ろうとした時、一陣の突風が吹き抜けて柚葉の視界を遮った。風が収まって目を開けると、乗るはずだったバスはすでに出発していた。
「う、そ……もおっ」
次のバスは三十分後。じっと待ってるのも苦痛だったから、柚葉は墓地までのんびり歩くことにした。
東京に戻った優は途方に暮れていた。携帯電話を開けて柚葉の番号を表示し、暫し眺めて溜め息とともに携帯を閉じる。そんな動作を何度も繰り返していたのだ。
五十嵐と話したお陰で、大事なもの、失ってはならないものが何なのかはっきり認識することができた。しかしそれを守るために何をすべきなのか、具体的な道筋がまだ見えてこない。
柚葉に君を失いたくないと切々と訴えたところで、ならどうするの？ と訊かれ口ごもってしまうようでは意味がない。
「たっちゃん、俺、どうしたらいいんだろ……」
もし今、彼がこの場にいたらどんな指針を示してくれただろう。いつだって彼は強く、そして正しかった。生きている人間よりずっと脆弱な存在でありながら、迷う優を時には励まし時には叱り、導いてくれたのだ。
「あ、見てっ、後藤優じゃない？」
「え、うそっ。あたしけっこうファンかも」
周囲がざわついてきた。優は俯いて五十嵐にもらったギターを担ぎ、慌ててその場を離れた。足は自然と、龍逸が眠っている場所へ向かう。
―――ほんと頼りないな、俺。まだたっちゃんにすがろうだなんて……
自分にダメ出ししつつも、優は引き寄せられるようにその場へ急いだ。
「来たよ、たっちゃん。ちょっとだけ久しぶり」
艶やかな灰色の墓碑に、親しい口調で語りかける。そして赤と緑のクリスマスカラーでアレンジされた花束と、お線香を備える。
「クリスマスケーキの方がよかったかなあ。たっちゃんは花より団子、だったもんね」
取り留めもない呟きとともに、柚葉は墓石を懸命に磨いた。そしてぴかぴかになったお墓の前でそっと手を合わせると、自然と涙が溢れてきた。
「んっ、ぅっ、ふ……」
クリスマスにお墓参りはさすがにトレンドから外れているようで、敷地内に人影はなかった。だから人目を憚ることなく、存分に涙を流すことができた。
柚葉は手を伸ばし、冷たい墓碑を繰り返し撫でながら、
「たっちゃ……たっちゃぁん……これで、よかったんだよね？」
柚葉の切実な問いは、無機質な御影石に吸い込まれていく。もちろん答えはない。
「だって、こうするしかなかったんだもん。夢を叶えた優くんの足を引っ張るわけには―――」
背後に人の気配を感じ、柚葉は続く言葉を呑み込んだ。そしておそるおそる振り返ると、
「優……くん……」
ギターを担ぎ、息を切らせた優が立っていた。柚葉は慌てて涙を拭い、感傷の痕跡を消し去って体裁を整える。
「優くんも、たっちゃんに逢いに来たの？」
声の震えは消せなかったけれど、ともかく冷静さは装えたようだ。素っ気ないような柚葉の言葉に、優は「うん…」とぎこちない返事を返す。柚葉は「そっか」と芝居がかった明るい声を出し、
「たっちゃんも喜んでるよ。それじゃ、僕はもうお参り終わったから。優くんはゆっくりしてってね」
「ま、待って、柚ちゃん。俺っ……」
引き留められても、ここで立ち止まってはいけないことは分かっていた。懸命にこしらえた明るさを維持したまま、さよならを告げて素早く背中を向けるべきだと。なのに足が動かない。
優は優で、呼び止めたはいいものの何を話してよいか分からないようだ。これ以上ないほど気まずい空気が、二人を雁字搦めにしていた。その時、
―――お前らほんとにしょうがねえなあ
「ぇっ？」
柚葉と優は同時に声を上げ、辺りを見回す。そして互いの顔を見合って、
「今の……聞こえた？」
「うん、聞こえた」
惚けた声で確認し合うと、物言わぬ墓標をじっと見つめた。
「たっちゃん……」
ほんの一瞬だったけれど、あの声の主を間違うはずがない。優しくてあったかくて、包み込むような大きな愛情の感じられる、懐かしい声―――
「ぅっ、ぁ、ぁぁ…………」
突然、優が呻きながら墓の前に膝をついた。そのまま額が地面に付きそうなほど深く頭を下げ、
「ごめんっ、たっちゃん、ごめんっ……」
喉の奥から絞り出すように、何度も何度も謝罪する。ごめん、本当にごめん、と。
「優くん……」
「約束、したのに俺っ……柚ちゃんを幸せにするって……たっちゃんの分まで大事にして、もう二度とつらい孤独を味わわせないって。なのにっ」
地面を削り取るようにがりがりと爪立てた手が、激しい悔恨の情を露呈していた。柚葉は思わず傍らに膝をついて、その手を上から押さえる。駄目だよ優くん、指を傷つけたらギターが弾けなくなっちゃう……
「あっ…」
触れた手を掴まれ、凄い力で引き寄せられた。気が付けば、柚葉の身体は優の腕の中。厚いコート越しでもその体温が伝わってくる。
「柚ちゃん、ごめ……俺、たっちゃんみたくちゃんと守ってあげられなくて……」
「やだ。そんなこと言わないで。優くんはたっちゃんの代わりじゃない。たっちゃんみたいにしようとか、思わないでいいから」
言いながら柚葉は、自分の偽善的な言葉に舌が灼けそうだった。龍逸と優を比べるようなことを言ったのは、他ならぬ自分なのだ。そのせいで優は、こうして自責の泥沼に沈んでいるのだから。
「柚ちゃん、さっきお墓の前で、『こうするしかなかった』って言ってたよね。『優くんの足を引っ張るわけにはいかない』とも」
抱擁を解いた優は、柚葉の肩を掴んだまま真正面から見据えてきた。涙の名残りが煌めく美しい貴石の瞳、その意外なほどの強さ雄々しさに、柚葉は甘い慄えに囚われる。
「……聞いてたの？」
「うん。あれはどういう意味？」
「別に……深い意味は……」
目を逸らし、言葉を濁す柚葉を優は立ち上がらせた。そして墓に向き合わせて、
「たっちゃんのお墓の前で、嘘がつける？」
柚葉はすとんと肩を落とし、小さく首を振った。
「事務所の……佐々井さんに頼まれたんだ。優くんと別れてくれって。もし男の恋人がいることがバレたら、この世界にいられなくなる。面白おかしく書き立てられて、格好のネタとして消費されてしまう。あなたはそれでいいのかって言われて……僕……」
優は何も言わない。ただ、肩を掴む手にぐっと力が入った。
「ほんとは分かってた。いつまでもこんなこと続けてられないって。ただ、優くんの優しさと誠意に甘えて現実から目を背けてた。でも、今回のことでやっと決心がついたんだ。
だから優くん、僕はもう大丈夫。優くんの大事な音楽の神様に恩返しするために、これからも素敵な歌を歌い続けて。いつだって、どこからだって、僕は優くんのこと想ってるよ」
柚葉の言葉を最後まで聞き届けた優は、黙って天を仰いだ。空を突き抜けてさらにその上まで届きそうな眼差しには、祈りにも似た敬虔な情熱がこもっていて、柚葉は感動すら覚えた。
ああ、優くんは今、たっちゃんと話してるんだ。僕にも割り込めない、魂と魂の会話―――
「え、えっ？ 優くん？」
いきなり腕を掴んで歩き出した優に、柚葉はよろめきつつ問いを投げかける。
「どこ行くの？」
しかし優は一緒に付いてきてと言うばかりで、彼には珍しい強引さで柚葉を連れ出した。
大通りに出るとタクシーを拾い、行き先を告げる。それを聞いた柚葉はぎょっとしたが、なぜか真意を問い質すのがためらわれて、黙ってシートに身体を預けた。
やがて車は目的地に到着した。『デシベル・ミュージック』の本社ビル。車を降りた優は柚葉の手を離さず、真直ぐ受付に向かった。
「所属アーティストの後藤優です。第二制作の佐々井さんいらっしゃいますか？ あ、社長でもいいです」
とんでもなく不遜なことを言っているのに、優だとカドが立たないから不思議だ。受付の女性も「少々お待ちください」と応じ、すぐに連絡してくれた。
「五階の小会議室へどうぞ」
分かりました、と告げてエレベーターに向かう優は、やはり柚葉の手を離そうとしない。
「ゆ、優くん、あのっ」
「大丈夫。柚ちゃんは何も心配しないでいいから。さあ、行こう」
かすかに汗ばんだ優の手が、号令とともにぎゅっと握り直してきた。柚葉はまだ困惑しつつも、この手に全てを委ねようと覚悟を決めた。
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