未来へ続くクリスマス
― つぎはぎだらけのLove Song ―
＜4＞
「やだ……もう、出て。声を聞かせてよ……」
柚葉の懇願も虚しく、携帯電話からは無機質なアナウンスが聞こえるばかり。レコーディングスタジオは携帯電話禁止だと言っていたから仕方ないと分かってはいるのだが、今、優と話さないと取り返しのつかない何かが起きてしまいそうで、そんな不安と焦りから通話ボタンを押す手を止められなかったのだ。
しかし、虚しい発信を五回繰り返したところでさすがに諦めた。ひどい八つ当たりだと思いつつ携帯を放り投げ、ベッドにどさりと倒れ込む。そしてそっと目を閉じると、瞼裏のスクリーンに今日の出来事が次々と浮かんで柚葉の胸を高ぶらせた。
達哉のくしゃっとした笑顔、手のひらの温かさ、唇の柔らかさ、そして鼓膜を直接揺さぶる声。中でも声の持つ磁力は強烈だった。もしあの声に『柚、愛してるよ』などと言われたら……
「ふふっ、バッカみたい、僕……」
あるはずもないほとんど妄想めいた可能性についてあれこれ思い悩むなんて、愚かにもほどがある。達哉だって、これからお世話になるゼミの先輩に嫌われているのではという不安から、声を掛けてきたに過ぎないのだ。
あのキスだって、アルコールの勢いがちょっと暴走しただけのこと。だいいち、達哉の容姿なら女性もよりどりみどりのはずだ。年上の男なんかに興味を持つはずがない。
「今日のことは忘れよう。うん、だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
柚葉は呪文のように何度も繰り返し、今日一日を思い出の1ページに変えてしまう眠りという名の魔法が訪れるのを待った。
その夜、柚葉は夢を見た。龍逸と優が楽しげにふざけ合っている夢。三人で暮らしていた時も実際にその光景を目にしたことはないのだが、心の目が見ていたのだろう。二人はにっこり笑って柚葉に手を差し伸べ、ずっと一緒だよ、と言ってくれた。
朝、目を覚ました柚葉はひとしきり泣いた。泣いたら頭はすっきりしたけれど、心に哀しみは沈澱したままだった。
「あ、いたいた、大下。これ、昨日の飲み代。ごめんな、途中で抜け出して」
大教室を出たところで大下を掴まえ、達哉は笑顔で詫びた。いつもの大下だったら、「おお、わざわざ悪いな」などと言って気さくに応じてくれるはずだったが、なぜか今日は眉間に皺を寄せた難しい顔で、曖昧な返事を寄越した。達哉は首を傾げ、
「どうしたんだ？」
「ああ、いや。その……なあ、達哉。ちょっといいか？」
そう言って大下は達哉の腕を引っ張り、講義が終わった大教室に戻った。そして誰もいないのに声を潜め、
「あのさ、ゼミの美並先輩のことなんだけど。昨日、家に帰ったら久々に兄貴が帰っててさ、何となく美並先輩のこと訊いてみたんだ。まあ同期だったとはいえ学部も違うし、知ってるはずないとは思ったんだけど」
「それで？」
つい、先を促す声が低くなってしまう。大下の様子から、何となくあまりいい話ではないような気がしたからだ。そして、予想は当たっていた。
「あの人、当時はかなり有名だったみたいだぜ。あくまで噂だけど、その、男相手にウリやってたって」
「……で、お前はそのクソみたいな噂を信じたのか」
達哉の言葉に含まれる静かな怒りに気付けないほど、二人の付き合いは浅くなかった。大下は大きくかぶりを振って、
「お、俺が信じてるとかじゃなくて、ただそういう噂があったってことだよ」
「おおかた、先輩に振られた奴が腹いせでそんな噂流したんだろ。くだらねえ」
「まあな。でも、これから話すことは真実だ。先輩には一学年上の男の恋人がいたんだけど、その人は在学中に事故で亡くなっている。名前は一条龍逸。兄貴と同じ経済学部だったから顔見知りだったらしい。で、その人が……お前にそっくりなんだよ」
達哉は、耳の奥がぐわんと鳴るのを聞いた。その残響に翻弄されつつ、
「もしかしてその恋人……交通事故で死んだのか？」
「え？ あ、ああ、そうらしい。それも、美並先輩をかばって無免許の車にはねられた、っていう悲惨な事故だったって」
「そう……だったのか……」
これで全て辻褄が合う。なぜ自分を避けようとしたのか、二人きりになった時突然泣き出したのか。そして昨夜、車道を無理やり渡った時の過剰な反応。逝ってしまった恋人の面影に怯えていたのだ。
「たぶん、お前と目を合わせなかったのはそのせいじゃないかと……」
大下の指摘に「ああ」と曖昧な相槌を返し、達哉は自分に問い掛けた。真実を知った俺は、あの人と距離を置くのか？ と。そして、答えは呆れるほどすぐに出た。
「大下、ありがとな。俺、先輩に会いに行ってくる」
「会ってどうするんだよ」
訝る大下に、達哉は晴れやかな笑顔とともに答えた。
「僕は死にませ〜ん、ってもう一回言ってくるんだよ」
そして真直ぐ研究室棟に向かった。入り口で待っていればきっと会えるはずだ。果たして、待つまでもなかった。ちょうど建物から柚葉が出てくるところで、達哉は息を弾ませて近づき声を掛けた。
「美並先輩っ、あの、昨日は……」
しかし達哉の姿を認めた柚葉は、コミュニケーションを断ち切るようにふいと横を向いてしまった。
行き場をなくした言葉たちが、舌の上を彷徨う。達哉は困惑して口ごもったが、柚葉の目の縁が赤く腫れているのを見た途端、胸の奥から新たな言葉が湧いて溢れ出た。
「先輩……泣いたんですか？ 俺のせいですね？」
柚葉は横を向いたまま「泣いてないよ。勝手に決め付けないで」と返したが、赤くなった頬や耳たぶは正直だった。
必死に自分を律しようとしている姿には凛とした強さがあったが、それはちょっとした動揺で簡単に崩れる脆さを内包した悲壮な強さにも見えた。
もし自分が支えてあげられたら、どんなにか幸せだろう。たとえそれが誰かの代わりであっても構わない。そう思った瞬間、達哉は何の前置きもなく本心を口にしていた。
「俺じゃ駄目ですか？ 死んでしまった恋人の代わりにはなれませんか？」
柚葉の全身が強張るのが分かった。驚きに見開いた目が宙を見据えたまま、
「な……にを言ってるの……？」
「大下の兄貴が先輩と同期で、それで聞いたんです。先輩は在学中―――」
達哉は思わず言葉を呑み込んだ。こちらを向いた柚葉が、冷ややかに笑ったからだ。そして露悪的な口調で、
「そう。僕のこと聞いたんだ。だったらたっちゃんのことだけじゃなくて、男と寝てお金もらってたことも聞いたでしょ？」
その媚毒めいた響きにあてられて、達哉はすぐに答えられなかった。のろのろと首を振った挙げ句、
「それは……その、ただの下衆な噂で………」
「ううん、真実だよ。ごめんね、こんな先輩で。僕みたいなのがいるゼミが嫌だったら、今からでも変更できるよう教授に頼んであげるよ。似たような研究分野を扱っているゼミは他にもあるし、そっちの方が―――」
脳が命ずるより早く、達哉は声を上げていた。
「俺はっ、俺は自分の見たもの感じたことを信じます。誰が何と言おうと、あなた自身が何と言おうと、あなたはとても綺麗な人だ！」
「……やめて」
「俺はあなたを守り命を落とした恋人と、外見だけでなく中身も重なるようになりたい」
「やめてぇ……」
「だから先輩、いや柚葉さん。どうか傍にいさせてください。俺を……たっちゃんと呼んでください」
「もうやめて！」
柚葉の切実な叫びが、達哉の横面を張った。自分の想いや言葉にのみ没頭し、相手がそれをどう受け止めているか思い遣ることを忘れていたのだ。柚葉の顔が苦悩に歪んでいるのを見た達哉は、己の未熟さに思わず歯噛みした。
「すみません……でした。でも俺は、あなたのことを……」
静かに首を振って立ち去る柚葉を、達哉は追い掛けたい衝動と必死に闘いながら見送った。今は何を言っても、彼を苦しめることになってしまう。少し落ち着いてからもう一度気持ちを伝えよう、そう自分に言い聞かせて。
「代わりなんていない。誰も代わりになんてなれないっ……」
柚葉は引きつった唇の隙間から呟きを漏らし、大きく息をついた。
そう、どんなに似てたってどんなに努力したって、誰も誰かの代わりにはなれない。そんなこと分かりきっていたのに、俺じゃ代わりになれませんか？ と問われてようやく気付くなんて。
「ほんとバカだ、僕……」
しかし優は違った。優はそれをちゃんと分かっていたのだ。だからこれまで一度だって、俺がたっちゃんの代わりに傍にいるよとか、たっちゃんの代わりに君を守るよとは言わなかった。
龍逸が天に昇った後も、ぽっかり空いた龍逸の場所にそのまま自分が居続けるのは違うと言って、敢えて柚葉から離れたのだ。自分は自分として傍にいられる自信がついたら戻ってくると言い残して。
「優くんがいたから僕は、前を向いて歩いてこれたんだ」
そう、優がいたからこそ、死んでしまった恋人の代わりを探すという虚しいことをせずに済んだ。
柚葉は、自分の弱さを嫌というほど知っている。もし優がいてくれなかったら、きっと自分は龍逸の面影を求めて男を漁り歩いていただろう。あの人たっちゃんと話し方が似てる、あの人は笑った時の目が、名前を呼ぶ時の声が、キスの仕方が、ベッドでの行為が―――
柚葉は思わずぞっとした。そうなっていたかもしれない己の姿に、破滅へと向かう狂気を感じて。それは裏返せば、今の自分がどれほど幸せかということだ。
自分は優に守られている。たとえ傍にいなくても、優の存在があればこそ過去に足を取られず前進することができる。
「優くん―――」
ありがとう、と敬意と愛情込めた感謝の言葉を口にしようとした時、柚葉の携帯が鳴った。もしかして優からかも、と期待に胸ときめかせつつ確かめた柚葉だったが、その顔はすぐに曇った。
電話の相手は、優の所属事務所の社員で、別居の話し合いや柚葉が住む仮住居の手配などをしてくれた男性だった。どうやら、所属アーティストのスキャンダル対策や事後処理などを専門に行っているスタッフらしい。
なぜ自分に直接電話してきたのだろう。柚葉は嫌な胸騒ぎを意志の力で抑え込み、努めて冷静な声で応対した。
「はい、美並ですが」
『あ、ごぶさたしております、デシベル・ミュージックの佐々井です。今よろしかったでしょうか』
「ええ、大丈夫ですが……」
あからさまに訝る柚葉に、佐々井ははきはきとしたビジネス口調を崩さず、これから直接会って話がしたいと告げてきた。
不審は募るばかりだったが、断るわけにもいかない。それに、どんな話なのか気にならないと言えば嘘になる。
「分かりました。では一時間後に」
約束を交わして電話を切った柚葉は、無意識のうちに両腕で自分の身体を抱き締めていた。見えない何かから防御するかのように。
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