未来へ続くクリスマス
― つぎはぎだらけのLove Song ―
＜2＞
「ただいま……」
帰宅を伝える相手もいないと分かっていながら、つい口にしてしまう。しんしんと迫ってくる冷たい静寂に耐えながら、優はもそもそと靴を脱いで部屋に上がった。
そして、独りの淋しさを紛らわせるために、部屋じゅうの電気をつけて回る。もちろん、人工的に明るくしたところで、柚葉の温もりや息遣いがなければ意味がない。孤独は癒されるどころか、愛しい人の不在が余計に際立って虚しさが増すばかりだった。
優は仕事がら帰宅が遅かったから、柚葉はすでにベッドで就寝中、ということも多かった。しかし時間のすれ違いで会えない日が続くと、柚葉は眠い目をこすりつつ優の帰宅を待った。
たまに、リビングのソファでうたた寝していることもあり、優が顔を近づけて「ただいま」と囁くと、うにうにぐずりながら目を開けた。そして次の瞬間、ふわぁっと笑顔を咲かせて抱擁をねだるように両手を伸ばしてくる。
そんな時優はいつも、込み上げる愛しさに翻弄されて荒々しく抱き返してしまうのだ。寝起きの柚葉を驚かさないよう、周囲をたゆたう甘やかな空気ごとふんわり優しく抱き締めようと思っているのに。
「柚ちゃん……」
思い出したらたまらなくなって、優はソファの上にどさりと腰を落として頭を抱えた。
この別居を命じられた時、最初は柚葉のことが心配だった。基本的に淋しがりやでいつも不安に苛まれている柚葉が、期間限定とはいえ独りぼっちに耐えられるだろうかと。
しかし蓋を開けてみれば何てことはない。先に自分の方が音を上げそうだった。せめて声だけでもと思い携帯に手を伸ばしたが、時計を見てやめた。柚葉はまだ学生なのだ。自分のような2時3時の帰宅は当たり前、みたいな不規則人間とは違う。優は携帯を視界に入らない遠くへ放置すると、再びソファの上に座り込んだ。
「俺……何やってんだろ」
思わず自嘲めいた言葉がこぼれる。その声の予想外の弱々しさに、優はあらためて自分がひどく疲れているのだと悟った。
これまで、何の疑問も持たず突っ走ってきた。いや、疑問を封じ込めていたと言った方がいいだろう。目まぐるしく変化する周囲に、自分を見失うことなく付いていくには相応の努力と意志が必要で、立ち止まる余裕などなかったのだ。
その甲斐あってか、現在はそこそこの評価をもらえるようになった。新曲をリリースすればオリコン10位以内には入るし、テレビやラジオから出演のオファーもぽつぽつ来る。
それは凄いことなのだと頭では理解できているのだが、『で？ それがどうした』と肩を竦める冷めた自分がいることも否定できなかった。
自分が望んでいたのは本当に“これ”だったのだろうか。“音楽で食っていく”という些か漠然とした夢がめでたく実現した今の状況を、素直に喜ぶべきなのだろうか。抑え込んでいた疑問が、心の深層からじわりじわりと頭をもたげてくる。
メジャーデビューが決まった時は、確かに嬉しかった。しかし今思い起こしてみれば、これで東京に行って柚葉に逢えるとか、両親を安心させてあげられるといった派生的な喜びが半分以上を占めていたのは間違いない。
あれから二年が経とうとしているが、大勢の観客の前で歌える喜びや、テレビ番組でスポットライトを浴びる喜びは急速に薄れ、今やほとんどなくなりかけていた。
優は先日参加したライブイベントのステージ上で歌いながら、早くこの時間が終わらないかなと思っている自分に気付き、愕然とした。ただ口だけが機械的に歌詞をなぞり、指先は自働人形のようにギターをかき鳴らす。
これではいけないと焦り、声援を送ってくれる客席に意識を集中しようと努めたのだが、驚くべきことに観客の顔が見えなかった。網膜には映るのだが、そこから心に浸透していかない。
ライブの醍醐味は観客との一体感、そんな言葉が頭をかすめ、優は泣きたくなった。そのせいでライブの後半は歌も演奏も散々な出来だったが、バックバンド、スタッフ、共演者、誰も気付くことはなかった。
あらためてこれまでの道のりを振り返って感じるのは、重い疲労と虚無感、そして罪悪感だった。
自分は一体何をしているのか。一生大事にすると誓った柚葉に孤独を強いて、やっていることといえば抜け殻みたいな歌の垂れ流し。こんなことでは、自分を信じて全てを託してくれた彼に顔向けができないではないか。
「たっちゃん、ごめん……」
柚葉はもうお前のものだ、後は頼んだぞ、そう言って一人で天に昇った彼。あの時はただ哀しくて、圧倒的な喪失感に耐えるので精いっぱいだった。
あれからもうすぐ五年。魂に植え付けられた種が芽吹くように、彼が見せた無私の愛、その偉大さが今になってひしひしと感じられるようになった。
死してなお柚葉を守ろうとした彼。我欲を捨てひたすら柚葉の幸せのために奮闘し、それが叶うと笑顔で去っていったのだ。
「はは、やっぱたっちゃんは凄えよなあ……それに比べて俺は……」
一体何をやっているんだ、と最初の疑問に返っていく。柚葉のこと、そして仕事のこと。はっきりとした答えを出すべき時が近づいていることを、優は焦りとともに強く感じ始めていた。
「ええっと、洋風居酒屋『ラ・トラヴィアータ』……あ、ここだ」
居酒屋というよりカフェバーといった雰囲気の、お洒落な店だった。最近の学生はいかにも居酒屋然とした店ではなく、こういうしゃれた店で飲み会をやってるんだなあと隔世の感を噛み締めつつ、柚葉はそろそろと店内に入った。
中は薄暗く、案内してくれた店員さんに「足元お気を付けくださぁい」と言われた。店内では最新のヒット曲が大音量で流れている。店の名前や外観にはクラシック音楽が似合っているように思えるのだが、やはり若者向けの店なのだろう。
店内は思っていたよりずっと広く、暫く歩いてようやく一番奥の個室に辿り着いた。
来年から村上ゼミの一員となる大下という学生から、あらためて親睦会を開くのでぜひ参加してくださいと誘われたのは三日前。
本当は断りたかったけれど、断るための口実が咄嗟に思い付かず、それに一番最初だけ出席しておけば今後断っても面目が立つだろうと考え、誘いを受けたのだった。
「こ、こんばんは……」
個室内もやはり薄暗く、間接照明が親密な空気を演出している。すでに全員が揃っていたようで、柚葉が入室すると口々に歓迎の言葉が送られた。
「先輩、来てくれてありがとうございます。外はけっこう寒かったでしょう」
すかさず大下が立ち上がり、テーブルまで案内してくれた。そして、
「先輩はあの奥の席にどうぞ。上座ですから」
おどけた口調ながら、気を遣ってくれているのが分かる。しかし柚葉は、その気遣いを素直に受け入れることができなかった。大下が自分のために用意してくれた席は、達哉の隣だったのだ。柚葉はなるべく自然な笑顔をこしらえて、
「いいよお、そんな、上座なんて。あ、僕ここでいいよ。あの……そ、そう、お酒飲むとおトイレが近くなるからさ。出入り口付近の方がいいんだ」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、構うものかと開き直って扉に近い席に無理やり座った。大下はかなり戸惑っているようだったが、ともかく乾杯をして白けかけた場を仕切り直した。
「美並先輩って、サークルは何をやってたんですかぁ？」
隣に座った女の子が、ビールを注ぎながら訊いてきた。会話の糸口を探しているのは明らかだったが、柚葉にはこう答えるしかなかった。
「サークルには入ってなかったんだ」
「ええ〜？ じゃあ勉強ひと筋ですか？ すごーい」
柚葉は曖昧な笑顔とともに「そんなことないよ」と言って、グラスに口をつけた。これでもう、彼女と話すことはなくなってしまった。
飲み会の席でまで、研究内容とか論文の書き方について聞きたいと思っている学生はいまい。気が付けば、両脇の二人は完全に柚葉に背を向けて、各々隣の学生と話していた。
だからといって、今さら淋しいとは思わない。柚葉は目の前にあるサラダやら揚げ物やらをつまみ、時間の経過を待った。もちろん、達哉の方に顔を向けないよう留意しつつ。
そうするうちに、みなアルコールが回り始めたようで、外のテラス席に移動したりと好き勝手し始めた。この状態なら帰っても目立たないだろうと思い、柚葉が腰を上げかけた時だった。
「先輩、ワインいかがですか？」
柔らかな口調の芯にかすかな緊張が感じられる声で呼び掛けられた。達哉だった。誰もいなくなった柚葉の隣に腰を下ろし、空のグラスにワインを注ぐ。
「さ、どうぞ」
さすがに、ここで席を立って帰るわけにはいかなかった。柚葉はぎこちない動きでグラスを取り、かすれた声でお礼を言った。
「先輩、俺の名前分かります？」
「分かるよもちろん。皆川達哉君、だよね？」
赤いワインが揺れるグラスを見つめながら答える柚葉に、達哉はあからさまにほっとした声で、
「よかった。俺、先輩に嫌われてると思ってたから」
「な、なに言ってるの？ 嫌ってるはずないよ」
「でも、俺と全く目を合わせてくれないし。研究室に挨拶に行った時も、今も」
柚葉は膝の上できゅっと拳を握り締めた。ああ、どうしよう、どうしたらいいんだろう。
「……先輩、ワインばっか見てないでこっち向いてくれませんか？」
達哉の訴えには、切実なものが混じっていた。それを悟られないよう軽い口調を装っているのがありありと伝わって、柚葉は泣きたくなった。これじゃあ無視できないではないか。
そして、ついに顔を上げて達哉を見た。すると達哉は、端整な顔に人なつこい笑みを咲かせて、
「ああ、やっと目を合わせてくれた」
心底嬉しそうな弾んだ声で、素直な感情を表わす。その作為のない真直ぐな反応こそ、柚葉が愛した一条龍逸の美しい稟質だった。
自分にできることはただ一途に愛を捧げることだと知っていた龍逸は、それを愚直なまでに貫いた。死んでもなお、柚葉を守るため此岸に留まったのだ。
でも今ここにいる彼は違う、龍逸ではないと分かっている。分かってはいるけれど、それを心が受け入れるには、彼は龍逸に似すぎていた。細部の造形から、全体の雰囲気まで。
その口から今にも『柚、愛してるよ』という甘い言葉がこぼれるのではないかと思い、柚葉はそんな自分に深い嫌悪を覚えた。
「……美並先輩、そんなに凝視しなくてもいいんですよ」
まるでこれまで目を逸らしていた分を挽回するかのように切実な視線を向ける柚葉に、達哉はおどけた調子でそう言って笑った。柚葉は真っ赤になってあわあわした挙げ句、
「ご、ごめんね、なんか。僕、こういう場がちょっと苦手で……。隣に座ってた子にも退屈な思いさせちゃった」
「謝ることないですよ。院生で忙しいのに、来てくれただけで嬉しいです。さっき、俺の隣に座るの拒絶された時は本気で泣きそうになりましたけどね。ていうか少し泣きました」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないですって。ほら、ハンカチが濡れてるでしょう？」
そう言って、ポケットから取り出したハンカチを真剣な表情でひらひらさせる達哉が可笑しくて、柚葉は思わずくすっと笑った。すると達哉は「うわ…」と声を上げ、
「先輩が笑うの初めて見た。めちゃくちゃ可愛い」
目を細め、顔をくしゃっとさせて笑った。そう、確か龍逸も、柚葉の他愛のないひと言やわずかな表情の変化に敏感だった。龍逸のくだらないギャグにぷっと吹き出すと、ゆずが笑った笑ったと言ってはしゃいで、端整な顔をくしゃくしゃにして喜んで……
「たっ…ちゃん……」
幸せな記憶に導かれるようにして、柚葉はぽつりと呟いた。すると達哉は驚きを隠さず、
「先輩がその呼び方してくれるなんて、すげえ嬉しい。仲のいい奴らはみんな、俺のこと『たっちゃん』て呼んでくれるんですよ」
浮かれた声でそう言って、照れくさそうに鼻の頭を掻き、
「だから先輩も、『たっちゃん』て呼んでくださいね」
もうだめだ。これ以上は抗えない。そう、目の前にいるのは『たっちゃん』なんだ。もう一度、自分のところに帰ってきてくれたんだ。逢いたかった。逢いたかったよ、たっちゃん。もう二度と離さないで―――
僕の声は届いているだろうか
離れるたび不安になる
まぶたの裏に棲む君の笑顔が
今にも消えてしまいそうで
それでも僕は歌うよ 心をこめて
このつぎはぎだらけのラヴ・ソングを
「あ……ああ………」
瞬間的にすっと澄み渡った意識に、甘く切ない歌声が沁み込んでゆく。それはあっという間に熱を帯びて、柚葉の身体を内側からじりじり灼いた。
「わ、これって後藤優だよね。あたしけっこう好き」
「うん、いいよね〜。曲も歌い方もせつなくて」
女の子たちの会話を頭の隅で聞きながら、柚葉はゆらりと立ち上がった。
「先輩？ 急にどうしたんですか？」
心配そうに訊ねる達哉に何でもないよと首を振ると、柚葉はそのまま覚束ない歩みで部屋を出ていった。
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