Chained Angel
＜9＞
―――まさか……いや、考え過ぎだ。彼がそんなこと……
宗像はまだ思い煩っていた。貴志に絵のモデルを頼まれたと言って帰った純のことが気になって仕方ない。
そもそも、貴志はモデルを使った制作の経験はないはずだ。彼の作品は全て自己投影型。はらわたを抉り出すように己の内面を暴き、それを精緻に執拗にキャンバス上に描出する。そんな彼がいきなりモデルを、それも天使と見紛うばかりの光暉をまとった純を素材にするなんて考えられない。
そしてもう一つ、宗像の頭の中ではある光景が再現されていた。貴仁の個展のオープニングパーティー。いきなり貴志が現れ、会場内が騒然とした時だ。
純を巡って、いつものように尭村父子が言い争いを繰り広げている最中、貴志は口許には穏やかな笑みを浮かべていたが、瞳には紛れもない憎悪が揺らめいていた。
表情は繕えても、瞳の輝きを偽ることはできない。そして、彼の双眸が発する攻撃的かつ怜悧な輝きは、真直ぐ純に注がれていたのだ。
常識的に考えれば、貴志が純に憎悪を抱く理由などない。しかし、その常識的思考を打ち砕くだけの生々しい力が貴志の視線にはあった。
常識的思考が崩れ去った跡に残されたのは、貴志と純を二人きりにしてはいけないという警告。宗像はすぐさま貴仁の携帯に電話した。そして貴仁が出るまでの間に、言うべきことを整理する。
『おお、宗像、どうした？ 俺の声が恋しくなったのか？』
いつもなら冷ややかに無視する貴仁の悪ふざけだったが、なぜか妙にほっとした。それほど自分は緊張しているのだと、宗像はあらためて自覚した。
「先生、申し訳ありません。貴志君の燃やした絵の真相を、秋原さんに話してしまいました」
『はは、純に問い詰められたんだろ。あれは本当なのか、と。お前も純には甘いな。ま、構わねえよ。お前が答えなかったら、きっと俺に直接訊いてきたはずだ』
「そうでしょうね。ずいぶんと思い詰めてらしたので。それで、ひとつ気になることが。秋原さんが、貴志君に絵のモデルを頼まれたと。先ほどまでここで話をしていたのですが、貴志君からの呼び出しでお宅の方へ―――」
『モデル？ 純がか？』
貴仁の声がにわかに険しさを帯びた。その反応だけで、貴仁も宗像と同じ危惧を抱いていることが分かる。宗像は「はい」とだけ返して、貴仁の判断を待った。
『……嫌な感じがするな。成仁は今日、予備校の模試のはず。額賀も尭村本家の用事で不在。俺は暫く金沢だ』
貴仁の迷いは長く続かなかった。『よし、』と声を上げて、
『とにかく、何とかして成仁に連絡を取る。まあ、何もないとは思うけどな。純は美しいだけじゃない、もっと複雑な個性がある。それなりの感性を持つアーティストなら誰でも、興味を引かれるはずだ』
「そう…ですね……」
だといいのですが―――と喉の奥で続けて、宗像は電話を切った。
「いきなり呼び出してすみません。さ、どうぞこちらへ」
純が通されたのは、母屋にある広い客室だった。もちろん今は、貴志の部屋として使われている。
「は、はい……」
純はおどおどしつつ、用意された椅子にちょんと座った。初めて入る部屋のせいか、尭村の家なのに落ち着かない。しかも、誰もいないのか妙に静かだった。
そんな純の緊張を察したのか、貴志は手を動かしながらも優しく笑いかけ、
「秋原さん、リラックスしていてくださいね。今、準備していますから」
神妙に頷いた純の鼻孔に、何やら薬品のような刺激臭が這い入ってきた。絵具を溶かすオイルの匂いだろうか、それにしては貴仁のアトリエに染み付いた匂いとずいぶん違うなあなどとつらつら考えていると、貴志が再び口を開き、
「秋原さんは、絵のモデルは初めてですか？」
会話で純の緊張をほぐそうという意図なのだろう。純は首を振り、
「いえ、尭村先生のモデルを一度だけ―――」
途中で言葉を呑み込んでしまったのは、貴志の身体があからさまに強張るのを見たからだ。
「先生の……モデルを……？」
「あ、は…はい……」
「先生はモデルを使わないはずです。それに、そんな作品は見たことがない」
「あ、はい。先生も初めてだって仰ってました。そして作品は、プライベートコレクションにして公に発表するつもりはないと―――」
またしても、純は言葉を呑み込んだ。近づいていきなり肩を掴んできた貴志をこわごわ見上げる。
「貴志…さん……？」
「それは、どんな作品でしたか？」
「え…？」
「あなたをモデルにした作品です！ 構図は？ サイズは？ 色調は？ 水彩なのか油彩なのか。それともグアッシュなのか。教えてください。全て、細部に到るまで！」
「た、貴志さん……」
貴志の瞳から、いつもの凪は消え失せていた。その切羽詰まった表情から、貴志がある強迫観念に囚われていることは明らかだった。それが何であるか、純には手に取るように分かる。
「どうしてそんなことを気にするのですか？ 尭村先生がどんな絵を描いたのか、あなたには関係ないでしょう？ 貴志さんは貴志さんです。あなたの思うがままに描けばいい」
柔らかく深みのある声で諭す純を、貴志は苛立たしげに揺さぶって、
「うるさい！ 教えろと言っているんだ！ 同じモデルを使ったのに全く違う絵になったら―――」
「違う絵になったら、何だと言うのですか？ そんなの当たり前です。貴志さんは尭村先生のダミーじゃない！」
純は怯えつつも腹を据えた。言うなら今しかない。
「貴志さんの焼かれてしまった絵を見ました」
「なん…だって……？」
「宗像さんが、焼く前に写真を撮っていたのです。それを見せてもらいました。“本当の傑作”？ まさか。あんなの傑作でも何でもない。あなたは分かっているはずです。どんなに努力したって、作風を真似たって、尭村貴仁にはなれないと。尭村貴仁は唯一無二の存在だと」
純は漠然と理解していた。これは貴志にとって、当然でありながら残酷な現実なのだろうと。頭では分かっているからこそ、ドイツに渡ってからは自分なりの作風を模索して確立してきたのだ。
しかし、と同時にできることなら目を背けていたい。そのアンビバレントな感情が、自作を『駄作』と切り捨てて蔑むような不可解な言動の原因となっているに違いない。
ならば誰かが、現実を正面から突き付けてやらねばならない。あなたはあなたでしかない。逃げずに自分の道を極めるしかないのだと。
「は…は……そんなの分かってます、分かってますよ。僕のような凡人が、偉大な芸術家である父のようになれるはずもないことぐらい」
貴志は唇をついと吊り上げ、かすれた自嘲とともに苦い本音を吐き出した。純はすぐさま否定する。
「そうではなくてっ―――」
「なのにあいつが……先生のようになれと。あなたのお父さんは偉大な芸術家なのと執拗に繰り返し、僕を息子としてではなく“尭村貴仁の才能を受け継ぐ者”としてのみ愛した。全ての画集を取り寄せ、あなたもこういう絵を描きなさい、あなたなら描けるはずと焚き付ける言葉の裏には、描けない息子など要らないという暗黙の脅迫が渦巻いていた」
「貴志さん……」
貴志の心を根幹部分で縛めている枷の重さを、純は初めて思い知った。貴志は母親に捨てられないため、必死に貴仁を真似た絵を描き続けたのだ。
「貴志さん、もう大丈夫、もうそんな絵を描く必要はないんです。自分の思うがまま、自由に描いていい。何を描こうと、あなたを拒絶する人はいません。あなたの家族は―――」
「家族？ はは、僕に家族なんていませんよ。母はただ嘗て愛した男を想い、その母と二人で転々とした親戚の家にも、僕の居場所はなかった。どこでも邪魔なよそ者、ただ飯食らい。家人の機嫌を窺いながらびくびくしつつ暮らしてました。そして今も……」
貴志の表情が、ゆっくりと変容してゆく。純は思わず息を呑んだ。自分に向かって真直ぐ注がれる、純然たる憎しみを見たからだ。
「この家に、僕の居場所はない。そんなのは分かり切ったこと。あの人は、貴仁先生は嘗て僕を否定した。僕の絵を焼き、家から追い出して外国へ送った。僕が家族に相応しくないと思ったからだ。なのにあなたは、何の血縁もない、高が恋人の分際でまるで家族のように振る舞い、この家に受け入れられている」
「違うんです！ 尭村先生はあなたを否定したわけじゃない！ 絵を焼いたのも、海外へ行かせたのも、全てあなたの将来を心配し、あなたを想ってのことなんです」
必死に言い募りながらも、純は自分の言葉に虚しさを感じずにいられなかった。分かっていたのだ。自分なんかが何を言っても彼の心には届かない。余計に不信感を煽るばかりだと。そして、実際その通りだった。
「さすが、家族同然の秋原さんだ。僕なんかより、貴仁先生の心情をよく理解しているらしい。はははっ」
貴志は皮膚が粟立つような冷たい嗤いを漏らすと、いきなり純の身体を抱え上げた。そして寝台の上に乱暴に投げ落とし、上からのしかかって身体の自由を奪った。
「ねえ、秋原さん。僕がどんなに打ちのめされたか分かりますか？ 異国の地で一人、血を吐くような創作に没頭していた時、あなたのことを人づてに聞きました。成仁の恋人が貴仁先生にもひどく気に入られ、まるで家族のように大事にされている、と……。
僕は……信じられなかった。信じたくなかった。僕が孤独を強いられているのに、他人が家族として受け入れられるなんて、そんな不条理があってたまるかと。そして真偽を自分の目で確かめに来たのです」
貴志は不穏な熱が蠢く声で整然と話したが、やがて傍らに置かれた小瓶の中身を口の中に流し込み、そのまま純の口を塞いだ。
口移しで注がれた液体の匂いには覚えがあった。純はすぐに気付いた。さっき、貴志が用意していたのは絵具ではなくこれだったのだ。最初から、“そのつもり”で純を部屋に呼んだのだ。尭村のいない日を見計らって。
しかし、騙されたことが分かっても純の中に怒りは湧かなかった。ただ哀しみが、純然たる哀しみが飲まされた薬とともに全身に浸透してゆく。
「あなたは想像以上に美しく、優しく、清らかで、僕の濁った目には眩しすぎた。成仁はもちろん、貴仁先生からも、先生の顧客たちからも、宗像さんや額賀さんからも愛されていることはひと目で分かりました。
そして、貴仁先生ははっきりこう言った。こいつは家族みたいなもんだ、と。これで僕の敗北は決したも同然でした。しかし、しかし……」
眼鏡の奥で、黒い結晶が険しく澄んでゆく。ああ、これだ、この目だ。尭村家の男に特有の、激しさと冷ややかさを併せ持つ猛禽の目。この目に何度睨まれ、何度甘美な戦慄に襲われただろう。
尭村と似ていないだなんて、純は自分の眼識の甘さを嗤った。これこそが彼の本質に違いない。穏やかで理智的な仮面の下には、間違いなく尭村家の濃い血が流れているのだ。
「僕はどうしても赦せない。あなたが赦せない。まるで当然のように家族の食卓に収まって、専用の食器で食事をするあなたが。いや、あなただけじゃない。僕を排除しておきながら易々と他人を受け入れた先生も成仁も赦せない。だから僕は制裁を与える。もう二度と家族づらしてこの家に出入りできないよう、あなたをめちゃくちゃに汚してやる」
貴志は厳然たる宣告とともに、純の衣服を剥いでいった。布地の下から現れた陶器のごとき雪肌は、貴志の嗜虐欲を一気に高ぶらせた。その時、
「貴志……さん……かわいそうな、ひと……」
薬の効果で思うように動かない純の口から、純粋な哀れみの言葉がこぼれる。
「かわいそうなひと……」
貴志の心に届かないことは分かっていた。おそらく自分はこれから、暴力的で執拗な陵辱を受けるのだろう。貴志の昏く険しい表情が、秘められた凶暴性を物語っていた。
それでも口をついて出てくるのは赦しを求める懇願や哀訴ではなく、貴志を思い遣る言葉だった。生まれたままの姿をさらした純は、貴志のねぶるような視線に耐えつつも訥々と言葉を紡ぐ。
「離れて暮らしていても家族なのに………同じ絵を描かなくても才能を受け継いでいるのは明らかなのに……あなたは……真実を見ようとしない………」
お願い、やめて、助けて―――そんな必死の懇願と抵抗を予想していた貴志は、不快げに眉をしかめ、
「無駄ですよ。何を言っても僕の心は揺らぎません。あなたはここで僕に犯され、心も身体もぼろぼろに傷つき―――」
「傷つくのは僕だけじゃない……あなたも傷つくはず……」
純は鉛のごとき倦怠感を意志の力でねじ伏せて、右手を持ち上げた。そして痛ましいほどの震えを見せる指先で貴志の頬を優しく撫で、
「かわいそうなひと………」
「……うるさい、黙れ」
貴志はぎらぎら輝く瞳孔を純に据えて、忌々しげに吐き捨てた。しかし純は、今にも遠のきそうな意識を必死に繋ぎ留め、
「ぼくは……ここの家族じゃない……家族みたいに見えるだけで……。どうしてわからないの……あなたは……あなたはまぎれもない家族なのにっ……」
わななきつつも切実な言葉を紡ぐ純の口を、貴志は素早く布で覆って縛めた。それでも純の“言葉”は止められなかった。哀しみに揺れる紫の瞳が、雄弁に語りかける。可哀想な人、と。
「……黙れ……黙れ……………黙れっ」
貴志は引き攣った叫びを絞り出し、純の脚を大きく開かせた。そして先刻無理やり口移しで飲ませた催淫薬を濃縮したゼリー状のものを指先にたっぷり塗り付け、薄桃色の陰翳を見せる蕾にぐちゅぐちゅと押し込んだ。
「んぅーーーっ、ん、ぅ、ぅっ」
突然の刺激に悶えのけぞる純を、貴志は冷笑とともに見下ろし、
「やっと黙ったな」
その言葉通り、純の瞳は厚い涙膜に覆われ、さっきまでの雄弁さは消えていた。
「男にはあまり興味がないので、本当は自慰でもしているところを撮影してネットに流そうかと思っていたのですが。正直、こんなに美しく妖艶だとは。さすがは成仁の抱き人形だ。これなら十分楽しめる」
貴志は楽しげに語りかけながら、純の中に埋め込んだ指を大きく揺り動かし、みっしり詰まった肉襞の間に薬を浸透させた。
「すごい、指が灼き切られそうだ。確かにこの味を知ってしまったら、その辺の女じゃ満足できないだろうな」
貴志は心底感じ入ったように呟き、蜜壺を掻き回していた長い指をずるりと引き抜いた。そして、指に吸着してめくれ返った秘弁に、ざらりと舌を這わせた。熟れ具合を確かめるように。
「んんッ、ん、ぅっ」
鼻から抜ける呻きに甘い響きが混じり、腰が悩ましげに揺れた。それを見た貴志は「頃合だな」と呟き、眼鏡を外して上にのしかかる。そして自身の前を解放しようとした時だった。背後の扉が轟音とともに弾け飛び、
「……成仁か」
現れた人影に、貴志は無機質な声で呼びかけた。
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