Chained Angel
＜10＞
呼びかけたところで、人影が返事をするとは思っていなかった。貴志はあらためて向き直り、ベッドの端に腰かけ、
「予備校の模試はどうした。途中で抜け出してきたのか？」
この場を支配する緊張感にはそぐわぬ穏やかな声で質す。するとそれに応えるように人影がゆっくりと近づいてきた。貴志の生命体としての本能が『逃げろ』と命じたが、理性も感情もそれに従うことはなかった。
「残念だったなあ。あと少しだったのに。あと少しでお前や先生の大事なものを壊すことができたのに。四年前、先生が僕の絵を焼いたように」
その時、純は見た。涙でほの白く霞む視界のただ中で、こちらに真直ぐ向かう尭村の手が、傍らに置かれた大振りのパレットナイフを掴むのを。まだ新品らしきそれは、尭村の手元で鈍い銀色に閃いた。
“いけない、貴志さん逃げて！”―――純の懸命の叫びはくぐもった呻きにしかならず、そして次の瞬間―――
「ぎゃああああッ」
緊張は一気に飽和状態を迎え、貴志の絶叫とともに崩壊した。太股にパレットナイフを深々と突き立てられた貴志は、ぐるぐると喉を鳴らして激痛を訴える。
「ひぅっ……ぅ、ぅぅっ………」
純はガタガタ震えながらも、髪を乱し目を剥いて痛みに耐える貴志と、静かなる蛮行を遂げた尭村を交互に見つめた。
尭村は痛みにのたうつ貴志には目もくれず、黙って純に近づく。長い前髪が顔に掛かり、その表情を窺うことはできなかったが、首筋や手の甲に浮き上がった血管が怒りの度合いを知らしめていた。
尭村はぬっと手を伸ばし、純の口を縛めていた布を乱暴に取り去った。その仕草に優しさや労りは微塵もない。貴志に犯されそうになった時よりも、今の方がずっと恐怖を感じていることに純は気付いた。
「あ……あきむらさ………」
痺れる舌を動かして必死に呼びかけようとする純を、尭村はシーツで無雑作にくるんで抱え上げた。そして荒々しい歩みで部屋から出て、離れの自室に向かった。
「なる…ひと……だめだ……彼に非は……ない………」
自分に向けられたのと同量の、いやもしかしたらそれ以上の怒りが純に襲い掛かろうとしていることに気付いた貴志だったが、このままではどうすることもできない。太股から突き出たナイフの柄をぐっと握り、呼吸を止めてから一気に引き抜いた。
下肢全体が燃え上がるような痛みに昏倒しそうになったが何とかこらえ、手近の布で縛って止血した。しかし意識を保てたのはそこまでだった。貴志はがくりと膝をつき、その場で気を失った。
薬による人工的な快感の波が、断続的に押し寄せる。それを唇を噛み締めつつ耐えていると、いきなり身体を投げ出された。
柔らかなスプリングに受け止められほっと息をついたのも束の間、先刻の貴志の絶叫が耳の奥で蘇った。
「貴志…さん……けが……手当てしなく…ちゃ………」
すでに意志の統率を離れて久しい四肢を叱咤して、純は起き上がろうとした。すると威圧するように尭村が立ち塞がり、純の視界を遮った。純は湧き上がる恐怖をねじ伏せて顔を上げ、
「尭村さん、ごめんなさい……また……言うこと聞かなくて……でも僕っ―――」
「お前の言い訳は聞き飽きた。去年の夏、お前は俺の言うことに全く耳を貸さず、勝手な思い込みから一方的に別れを告げて沖秀とともに逃げた。そしてまた今回も、あいつの言うことを真に受けて勝手に絆され、沖秀に泣き付き、俺に背を向けた。その挙げ句がこのザマだ」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ。でも貴志さんは悪い人じゃないんです。ただ過去のことで―――」
謝罪に続く訴えは、まさに暴力的に断ち切られた。バシッという鈍い殴打音とともに、全身を巡っていた快感が、痛みと衝撃に駆逐される。
「ぎゃあぎゃあうるせえんだよ」
たった今純に暴力を振るったにもかかわらず、その声には昂揚も悔悟もない。ただ、支配する者の恐るべき冷徹があるばかり。
純は切れた唇から滴る血を拭うのも忘れ、呆然と“嘗ての”恋人を見上げた。そう、そこにいるのは惜しみない愛情を注いでくれる恋人ではなく、生き餌を嬲り殺すため塒に連れ込んだ残酷な捕食者としての尭村成仁だった。
「あれだけあの男には近づくなと言ったのに、誰もいない家で二人きりか。あくまで俺の命令を無視するつもりだったんだな。面白え。俺をここまでバカにした奴はお前が初めてだよ」
「ち、ちがうんです……ぼくはっ………」
「去年の夏、俺は言ったはずだ。二度目はないと。もし同じことをしたらその時は、お前を殺してやると」
圧倒的な、あまりに圧倒的な恐怖の前に、まだ体内に残留しているはずの媚薬はもはや風前の灯火だった。純はカタカタ震えつつ、ゆっくりいたぶるように覆いかぶさってくる尭村をただ見返すばかり。
尭村は冷たい指先で純の口許をすっと拭い、指先に付着した紅い滴りを眺めた。やがて優雅にして冷酷な笑みを唇に乗せ、
「取り敢えず、“下”からも血を流してもらおうか」
その言葉が意味することを悟った純は、眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いて小刻みに首を振る。そして強張った声帯から「ゆるして、ゆるして……」とかすれた哀願を絞り出した。すると尭村は、哀願を繰り返す唇に残った血の痕にぬるりと舌を這わせ、
「もう遅いんだよ。お前は分かってるはずだ。俺がこうなったら、誰にも止められないと」
そしてその言葉通り、恐怖で萎縮する純の身体を無理やり開いた。
それから暫くの間、離れからは鼓膜も凍り付くほどの悲鳴や苦しげな嗚咽、赦しを乞う痛ましい叫びが響いた。
あなたのお父さんは偉大な芸術家なの、それが母の口癖だった。それは彼女にとって唯一無比、侵すべからざる神聖な事実だった。そして僕を、その才能を受け継ぐ者として愛した。
―――違うわ、何をやってるの！ 尭村貴仁はそんな色の重ね方はしない。そんな筆遣いはしない。まったく、何度言ったら分かるのかしら、この子は……
分かってる、分かってる。でも母さん、僕はこう描きたいんだ。これが僕のタッチなんだ。
―――そう、そうよ、それでいいの。これこそまさに、尭村貴仁が描く幻想とメランコリー。抽象と具象の境界。現実と非現実の二重奏。いい子ね、貴志。やっぱりあなたにはあの人の血が流れてる。ああ、素敵！ 彼の才能を受け継ぐ者が、私の息子だなんて！
ああ……母さんが喜んでいる。そうか、僕が間違っていた。これこそが“傑作”なんだ。他の誰が認めてくれなくてもいい。母さんが認めて、喜んでくれるのなら、僕はこれからもずっと傑作を生み出し続ける。それが僕に課せられた使命―――
―――貴志さん、かわいそうなひと……
何だと？ なぜそんなことを言うんだ。僕は……
―――あなたは分かっているはずです。どんなに努力したって、尭村貴仁にはなれないと
うるさい、黙れ
―――離れて暮らしていても家族なのに、同じ絵を描かなくても才能を受け継いでいるのは明らかなのに。あなたは真実を見ようとしない
やめてくれ。そんな慈愛と哀れみのこもった目で見ないでくれ。僕は君を傷つけようとした。なのになぜ、優しい表情ができるんだ。怒りも恐怖も蔑みも見せず、母性すら感じられる眼差しで、まるで僕を労るかのように……
―――傷つくのは僕だけじゃない。あなたも傷つくはず
ああ……そうか。君は本物の天使なんだ。紫水晶の瞳を持ち、淡い光のヴェールをまとった慈悲の天使。僕はずっと待っていたのかもしれない。君のような存在を。僕の苦しみをそのまま受け止めて、哀れんでくれる人を―――
「ん…………」
そろそろと瞼を開けた瞬間、視界で眩い白光が弾けた。しかし光はすぐにすーっと消え、世界は普段通りの輪郭を取り戻した。
後になって貴志は、この時こそ自分が過去と訣別し新たな生を得た瞬間だったのだと確信したが、その時はまだ何がなんだか状況が分からず、白い天井をぼぅっと見つめた。すると、
「貴志様、お目覚めになられましたか」
声のした方にゆっくり顔を向けると、額賀が立っているのが見えた。普段と変わらずきっちりスーツを着ていたが、いつも丁寧に撫で付けている美しい白髪はぱらぱらとほつれていた。
「ここは……病院ですね。額賀さん、あなたが……」
「はい。私が自宅に戻ると、門扉や玄関の鍵が開け放しになっておりました。何か不測の事態が起きたのではと危惧し、ひとつひとつ部屋を見て回ったところ、貴志様が倒れているのを発見し、救急車を呼びました。十二針縫う大怪我でしたよ」
「どうやら、大変なご心配をお掛けしてしまったようですね。すみません」
殊勝な態度で謝罪する貴志に対し、額賀は苦しげに首を振り、
「貴志様が謝る必要はありません。その傷は……成仁様ですね？」
「いいえ、違います」
貴志は迷わず即答を返した。驚く額賀にもう一度「違います」と強調し、
「僕が、自分でやりました」
「そんな……」
「僕が自分の脚を刺したんです。額賀さん、お願いします……」
貴志の懇願の意味を察した額賀は、顔を苦悩に歪めた。やがてゆるゆると頷いて、
「分かりました……貴志様がそう仰るのでしたら……」
「ありがとうございます。お願いついでに、もうひとつ頼みたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
「すぐ家に帰って、成仁の様子を確認してください」
額賀はその理由について質すことはせず、かすれた声で「分かりました」とだけ答えて実行に移った。貴志の口調から、事態の緊急性を察したのだろう。貴志はほっと息をついて目を閉じ、
「成仁、彼を傷つけてはいけない。お前も同じくらい、いやそれ以上に傷つくことになる……」
純に言われた言葉そのままの忠告を呟くと、あとはひたすら純の無事を願った。
病院を出て家に戻った額賀は、真直ぐ離れへ向かった。もちろん、貴志に頼まれた通り、尭村の様子を窺うために。
二人の間に何が起こったのか分からないし、詮索する意志も権利もなかったが、大体の想像はついた。尭村がああいった蛮行に出るほど激怒したということは、純が絡んでいるのだろう。そして恐らく、貴志も純のことを心配しているに違いない。
「成仁様、いらっしゃいますか？」
部屋の扉をノックして呼び掛けたが、すぐに応答はなかった。暫しそのまま待っていると、やがて扉の向こうから足音が聞こえ、カチャリと鍵の開く音がした。額賀はふと眉をひそめる。彼が自室に鍵を掛けるのは珍しいことだった。
「何だ」
ドアの隙間から姿を現わした尭村の身体は、濃厚な雄の匂いを発していた。額賀は思わず質す。
「秋原様がいらっしゃっているのですか？」
しかし尭村は全く表情を変えず、
「いねえよ」
「左様でございますか。成仁様、実は貴志様が怪我をされまして。私はその付き添いで病院に行かねばなりませんので、家を空けることになるかと思いますが」
「ああ、別に構わねえよ。飯は自分で適当に何とかする」
「申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」
尭村は軽く頷くと、素早く扉を閉めてしまった。額賀はその場で暫し佇む。この短いやり取りの間、ずっと皮膚が粟立ったままだった。貴仁だったら、『あのガキ、相当ヤバい』と表現しただろう。
しかし、額賀にはどうすることもできない。額賀にとって尭村は、貴仁と同じ仕えるべき主人なのだ。閉ざされた扉の向こうにまで干渉することは許されない。
額賀にできるのは、すぐさま病院に戻って貴志に報告することだけだ。成仁様に、特に変わったご様子はありませんでしたよ、と。
額賀は自分の無力を噛み締めつつ、扉の前を離れたのだった。
BACK TOP 蒼薇学園INDEX NEXT