Chained Angel

＜6＞

こういう時の尭村には何を言っても無駄だと、経験から知っていた。ただ怒りの炎が鎮まるのを、執拗な制裁に耐えつつ待つしかないのだと。

しかし今回の純は、言いたいことがたくさんあった。なぜ言い付けに背いたのかと、一方的に詰られるのは我慢ならなかった。

「言い訳があるのなら言え。取り敢えず聞いてやる」

尭村の部屋に有無を言わせず引きずり込まれた純は、キッと眦を決して正面から見返した。もちろんそこには強がりも多分に含まれていて、本当は怖くて仕方なかったのだが。

それでも反論したいという欲求の方が勝り、純は奥の方へ引っ込みがちの舌を必死に動かして、

「べ、別に悪いことをしたわけじゃないのだから、言い訳というのはおかしいです。この街を案内してほしいと言われたから、簡単に案内してあげました。そして、そのお礼にお昼をご馳走になっただけです。貴志さんは最初から最後までとても優しくて、紳士的でした」

尭村はすっと目を細めて視線を尖らせ、

「あの男に気を許すなと言ったはずだ」
「許してません！　だから街を案内してお昼を食べただけだって―――」
「とても優しくて紳士的だと思ったんだろ？　それが気を許してると言うんだ。お前、これまで気を許して信じた相手に、どれだけ酷い目に遭わされてきたんだ。お前の頭は学習ってものをしねえのか」

尭村の顔が静かに、音もなく凍り付いてゆく。瞳は凍夜のごとく澄み渡り、額には蒼い翳が差す。それはまるで、冷酷非情な冬の化身のよう。夏のふやけた温気をはね付けて顕現した冷ややかな美に、純は一瞬だが今の立場も忘れてうっとりと見入った。が、すぐにぶるっと頭を振り、

「た、確かに僕は貴志さんを信じました。でも当然でしょう？　尭村さんのお兄さんなんですよ！　いくら一緒に過ごした期間が短いからって、そんな仇みたいに扱うことないでしょう？」

ほとんど悲鳴混じりの切実な訴えだったが、尭村から返ってきたのは尖った嗤笑だった。

「本当に人の話を聞いてねえな。あいつは俺や親父を恨んでいると言ったはずだ。顔に穏やかな笑みを張り付けていても、薄皮一枚剥いだ下にはどんな狂気めいた闇が―――」
「自分たちの方が被害者みたいに言うのやめてください！」

思いもかけぬ純からの厳しい言葉に、さすがの尭村も面喰らった。純は顔を真っ赤にして、激化する感情の勢いそのまま非難の言葉を吐き出す。

「加害者はそちらの方でしょう？！　貴志さんの大切なものを、生きる糧を暴力的に奪い取って。ひ、酷すぎます！　なのに貴志さんは恨みがましいことなど一切言わず、先生にも尭村さんにも笑顔で接してる。たとえそれが表面的なものであったとしても、それを詰る権利は尭村さんにはないはずです！」
「何を吹き込まれたのかは大体見当がつく。お前、俺や親父よりあいつの方を信じるのか？」

純はぐっと詰まった。確かに、全て貴志からの一方的な話なのだ。客観的な証拠や、第三者の証言などもない。しかし、

「あ、あの人が嘘をついているとは思えませんっ」

それは本心だった。絵は全て燃やされてしまったと打ち明けた時の静かな語り口、そして哀しい記憶を透かし見るような遠い眼差し。そこに、不自然な引き攣りや芝居がかった誇張は一切なかったと断言できる。

「僕だって……できるなら尭村さんや先生を信じたい。でも僕は、貴志さん側の人間なんです。愛され満たされた幼少期を送った尭村さんには理解できない闇が、心の中に厳然として存在している」

言いながら純は、顔をしかめた。なんて嫌な言葉だろう。こんな不幸自慢みたいなことをして何の意味があるのか。どうせあなたにこの痛みは分からない、そう言って突き放しているも同然ではないか。

尭村だって、幼い頃に母親を亡くしているのだ。進行性の癌に侵された母親を自宅に引き取って、最期を看取ったと言っていた。

病魔に侵され日に日に痩せてゆく母に対し、余計な心配をかけないよう笑顔を見せねばならないつらさは、自分には想像もつかない。尭村が、親に“捨てられた”苦しみを理解できないように。

痛みや苦しみは人の数だけある。そしてそれに、質の上下はない。なのに恰も自分の苦悩だけが特別闇に祝福されているかのように恭しく扱って、挙げ句あなたには理解できないとヒステリックに喚いて―――

会話の合間、二度瞬きする程度のわずかな間に、純はこれだけのことを考えた。反省した。しかしすぐに別の思いが上書きする。だって、仕方ないんだ。どうしたって分かってもらえないのは事実なのだから。自分は尭村や貴志と違って、いつまでも過去にこだわり続ける弱い人間なのだから……

いつの間にか、双眸に涙が浮かんでいた。自分の過去を悼む涙なのか、自分の弱さを哀れむ涙なのか。純は涙を拭うことなく頭を下げ、

「だから、尭村さんの言い付けには従えません。ごめんなさい。心配してくれてるのは分かるけど、貴志さんが悪い人だとはどうしても思えない」

尭村は暫し沈黙したが、やがて表情を変えず静かに口を開いた。

「……分かった。好きにしろ。それでお前がどんな目に遭おうと俺の知ったことじゃない。責任はてめえで取れ」

突き放した言葉は、数日前風呂の中で言われた時よりずっと重く、現実味を帯びていた。純はその衝撃を今さらながら噛み締めたが、もう遅い。ぺこりと頭を下げると、黙って尭村の部屋を後にした。





「ったく、あのバカが……」

純を見送った尭村は、苛立ちと愛しさが綯い交ぜになった呟きをこぼした。

お前がどんな目に遭おうと俺の知ったことじゃない、そう言った瞬間、純は哀れなほど青ざめて小さくふるえていた。

それでも自分の考えを撤回する気はないようで、双眸に涙を浮かべ、今にも頽れそうな脆さを露呈しつつも背筋をしゃんと伸ばして出ていったのだ。

強いのか弱いのか、頑固なのか脆いのか分からない。いや、どちらでもあるしどちらでもないのだろう。そういった複雑さ、難しさも純の魅力なのだ。

「優しくて紳士的、か……。まあ、確かにな」

四年前の出来事を思うと、貴志の自分たちに対する態度は驚くほど穏やかだ。この四年間で、彼なりに心の整理をつけたのだろうか。

だとしたら、自分の不安は杞憂に過ぎないということになる。貴志はただ休みを利用して、久しぶりに家族の顔を見るために帰ってきた。こちらがありもしない意図を勘繰っているだけで。しかし、

「いや、違う。あいつは……」

なぜ断言できるのかと言えば、直感だとしか言いようがない。貴志は時折、尭村もぞっとするような凍った目をする。見るもの全てを無意味で無価値な物体に貶めてしまうような、狂える神の眼差し。

四年前一緒に暮らしていた時もそうだったし、再会してからも幾度か、彼が同じ目で周囲を冷ややかに見渡しているのを見た。そういう人間が、ただ何となく家族に逢いたいからなんて感傷的な理由で行動するとは思えない。

そして尭村も、嘗てはそんな目を周囲に向けていた。純と出逢うまでは。だから解るのだ。

答えの出ない思考のループに入り込みかけた時、突然部屋のドアが開いた。尭村は思い切り舌打ちして睨み付け、

「いきなり入ってくんじゃねえよ。ノックぐらいしろ」

息子の抗議を、貴仁は笑って受け流す。

「親に養ってもらってるガキにプライバシーなんてないんだよ。それよりなんだ、純が来てたんじゃねえのか？」
「帰った」
「はぁん、また泣かせたな？」

色々事情はあるもののその通りなので否定できず、「親父には関係ねえだろ」とだけ言い返して顔を背けた。が、すぐに向き直り、

「貴志が帰ってきた意図が分からないから、とにかくあいつには気を許すな、近づくなと強く言った。なのに純のやつ、すっかり絆されやがって。自分は貴志側の人間なんだ、親に愛されて育った尭村さんには解らない、だとよ。おまけに、加害者のくせに自分たちが被害者みたいに言うな、ときた」
「なるほど。貴志が純に何を話したか大体見当がつくな」
「ああ。何だか気になる。純の同情を買って、自分は無害な男だと信じさせて、それで何をしようと企んでいるのか……」

尭村の深刻な言葉に、貴仁は「うーん…」とうなって、

「考え過ぎじゃねえか？　そもそも、貴志は今回帰ってくるまで純のことを知らなかったんだぜ。少なくとも、純に悪さするために帰ってきたとは思えない。まあ、純に会って一目ボレしちまったってことは考えられるけど、弟の恋人を力尽くで奪おうってキャラじゃねえと思うけどな」
「それは確かにそうなんだけどな……」

貴仁の言うことも一理あった。やはり自分の考え過ぎなのだろうか―――

「旦那様、こちらにいらしたのですか。朱音様からお電話ですが……」
「ん、ああ。悪いな」

額賀から子機を受け取った貴仁は、「よお、相変わらず無駄に若作りしてるか？」と楽しげに呼びかけた。

『はいはい。相変わらず無駄な足掻きしてますわよ。ほんとに、兄さんがそんなだから成仁まで……。ま、いいわ。それより、貴志君は帰ってきた？』
「貴志か？　ああ、帰ってるぜ。って、何でお前が……」

貴仁は途中で言葉を呑み込んだ。目配せで電話を代わってくれと頼まれたからだ。

「ちょっと待て。成仁に代わる」
『え？　何でよ、ちょっと兄さ―――』

朱音の戸惑いも尤もだったが、貴仁は無視してさっさと子機を渡した。

「成仁だ。お前、最近貴志と話したのか？」
『叔母に向かって“お前”はないでしょ』
「うるせえ。“お前”が不満なら“てめえ”でどうだ」
『あーあ。貴志君の爪の垢を山盛り一杯飲ませてやりたいわ。ええ、ええ、話しましたとも。先月、彼のいるデュッセルドルフにたまたま行く機会があって。会って話したわ』
「その時、純のことを話したか？」

朱音は無邪気な笑い声を上げ、

『話したわよお。成仁の恋人、ものすごい美少年なのよ、って。あんただけでなく兄さんまでめろめろのへろへろで、目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりで、ほとんど家族同然だって言ったら貴志君驚いてたわ。父さんや成仁が、他人をそこまで受け入れるなんて信じられない、って……』

浮かれた口調は急速にしぼんでいった。尭村の沈黙に深刻なものを感じたからだろう。

『もしかして……話しちゃまずかった？』
「……いや、そういうわけじゃない。親父に代わる」

尭村は、たった今明らかになった事実について考えながら、貴仁に電話を渡した。

「あいつが純のことを知らなかったという前提は崩れたぜ、親父」

尭村は続けて、朱音の言葉をそのまま伝えた。貴仁の眉間に、彼には珍しく深い縦皺が刻まれる。

「朱音のやつ、そんなこと言ったのか……」
「こうなるとやっぱり、純が目当てで帰ってきたと考えるのが自然じゃねえか？　俺や親父が大事にしている人間を傷つけることで、四年前の復讐をしてやろうと」
「自分の“大事な作品”を燃やされたことへの復讐、か……」

貴仁の声は心なしかやつれていた。無理もあるまい。当時、あのことが貴仁をどれほど苦しめたか尭村は知っている。貴仁の心に、苦悩と葛藤の記憶として今なお重く沈澱していることも。

「……貴志がそんな卑怯な復讐を考えるとは思いたくねえが、一応気を付けておいた方がいい。俺も注意しとくと言いたいところだが、急用で二、三日家を空けることになった。だから成仁、お前が監視してろ。いいな？」
「ああ」

尭村は短く返すと、携帯電話をジーンズのポケットに突っ込み、

「純の家に行って、もう一度話してみる」
「ああ、それがいい。今度は泣かすなよ」

尭村は軽く手を振って応えると、素早く部屋を出た。

『ちょっとぉ、いつまで待たせるのよ！』

子機から朱音の声が響く。まだ電話は繋がったままだったのだ。

「おお、悪い悪い」
『もお。親子でコソコソ何話してたのよ』

貴仁は陰気な笑みを浮かべ、

「華麗なる復讐についてだよ」

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