Chained Angel
＜12＞
「じゅ…ん……」
広い寝台の上に全裸の状態でぐったりと横たわった純。片方の手首には黒い金属製の枷が嵌められ、ベッドヘッドに鎖で繋がれていた。
全身に散る無数の陵辱痕や痣、咬み痕、血や体液の残滓が、純を襲った欲望の凄まじさを物語っていた。消耗しきって青ざめた顔は苦しげに歪み、力なく緩んだ口は浅い呼吸を繰り返していた。
俺の所有物だと言わんばかりの、性奴のような扱い。それを眼前にした秀は両手を強く握り締め、奥歯をギリギリと噛み締めた。そうしないと、毒と熱を含む呪詛の言葉を際限なくまき散らしてしまいそうで。
それより先にすべきことはたくさんある。秀は荒れ狂う内面を意志の力で抑え込んで、寝台に近づいた。
「純……純……」
最初は囁くように、そして徐々に声を大きくしつつ呼び掛けると、純のまぶたがかすかに震えた。やがてゆっくり開き、
「………しゅ…う？」
「ああ、俺だ。純、今助けてやるからな」
何があったんだ、どうしてこんなことされたんだ―――追及の言葉が喉元まで上がってきたが、やはり意志の力で押し戻した。
理由など聞いている場合ではない。とにかく一刻も早くこのふざけた檻から解放し、辱めの痕を洗い清め、人間としての尊厳を取り戻してやらねばならない。
「今、この鎖を叩き切る工具を借りてくる」
秀は素早く言い置いて背中を向けた。すると純は慌てた様子で手を伸ばし、引き止めた。
「ま、待って、秀―――」
「大丈夫、すぐに戻ってくるからな」
一人で置き去りにされるのが怖いのだろう。秀はそんな純を安心させるため、力強い言葉とともに頷いた。しかし純の口から返ってきたのは、驚くべき言葉だった。
「秀、僕はここにいる」
「なん…だって……？」
「僕のことは心配しないで、秀はこのまま帰って―――」
「そんなことできるわけねえだろ！」
これまで何とかコントロールしていた感情が、怒声とともに噴き上がる。純を縛める鎖を力任せに掴み上げてじゃらじゃら鳴らし、
「心配するな、このまま帰れだと？！ お前、自分の状況が分かってんのかっ。こんなの愛情でも何でもねえ。ただの暴力だ。純、目を覚ませ。もう……こんなことはやめろ」
そしてもう一度俺の元に来い―――続くはずの切実な訴えを腹の底に押し戻して、秀は純の身体を抱き上げようとした。しかし純はやんわりと押し返して首を振り、
「僕はここで、尭村さんの怒りが収まるのを待ちます。だから秀は帰って」
「純っ……」
「ごめんね。自分がどれだけ……残酷なこと言ってるか分かってる。でも、ここでまた秀の優しさに逃げちゃったら、去年の夏と同じになってしまう。たぶん尭村さんも……自分の感情をどうしていいか分からないんだと思う。だからその整理がつくまで、僕はここにいて全てを受け止めるよ」
秀を安心させるためだろう、純はそう言って、この監禁状態からは考えられないほど穏やかな笑みを見せた。思いもかけぬ純の“拒絶”に打ちのめされ、秀は呆然と呟く。
「な…んでだよ……泣き付いてこいよ。去年みたいに秀助けて、傍にいて、ってすがってこいよ……」
「秀……」
「それしか……俺が“ここ”にいる理由はないんだよ……」
秀ははっきり自覚した。今この瞬間、純は自分の保護領域から一歩外へ踏み出したのだと。
純を守るという存在理由を失った自分に残された道は、二つ。潔く諦めるか、それとも―――
「しゅ………ぅっ、ん、んっ…………」
突然の荒々しい口づけに戸惑う純に構わず、秀は深く舌を挿し込み執拗に口腔内を犯した。
それは、諦める以外のもうひとつの道を選ぶという自分への決意表明であると同時に、尭村への無言の宣告でもあった。そう易々とあんたには渡さない、覚えておけ―――
「お前の頼みだから、俺はいったん引き下がる。けれどこの状況が続くようなことがあったら、俺は力尽くでお前を連れ帰る。あの男を殴り倒してでも」
口づけの余韻を断ち切るように険しい声で言い置くと、秀は純に背を向けて寝室を出た。そして扉の陰で一部始終を見ていた貴仁に挨拶もせず、そのまま離れから去ろうとした。その時、
「おい、あのガキはたぶん予備校だぜ。駅前の城東ゼミナール」
貴仁の言葉に、秀はぴたりと足を止めた。が、すぐに無言のまま出ていった。
「ふ…ん、なかなか手強そうな男だな。面白え」
貴仁は言葉通り愉快そうに呟くと、寝室の扉をそっと閉めた。
唇が熱い。熱くて今にもとろけそうだ。想いの全てを口づけに託して去っていった秀。この瞬間、秀との関係が新しい局面を迎えたことに純も気付いていた。
「秀……行っちゃった………」
去りゆく背中を見送って、不安や淋しさが湧かなかったと言えば嘘になる。尭村の怒りが収まるのを待つとは言ったものの、そもそも尭村はここに、自分のもとに帰ってきてくれるのだろうか。
昨夜は途中で意識を失い、現実なのか悪夢なのか判然としない（どちらも同じようなものなのだろうが）切れ切れの映像が脳裏をかすめるうちに、気が付けば朝になっていた。寝室に尭村の姿はなく、息を殺して隣室の様子を探ったがやはり尭村の気配はなかった。
その瞬間、純の心身を襲ったのは『捨てられた』というリアルな感覚。哀しくて怖くて思わず泣き出しそうになったが、そんな純を宥めてくれたのは、皮肉なことに手首の枷だった。
拘束はすなわち執着の証。大丈夫、僕はまだ捨てられてない。まだ必要とされている。そう言い聞かせて尭村の不在を耐えていたのだ。しかし、
「もし……帰ってこなかったらどうしよう……」
口にした途端、その可能性が現実味を帯びて迫ってきた。純は後悔したがもう遅い。ここは彼の部屋なのだから帰ってこないはずがないという理性の諭しも効果なく、捨てられたという可能性ばかりが肥大する。
「怖い……怖いよ秀……たすけて………」
ああ、まただ。また弱い自分が頭をもたげてくる。手を差し伸べてくれた秀に、ついさっき拒絶を叩き付けたばかりなのに。
「やだ……もう捨てられるのはやだよ………」
徐々に重みを増す負の想念から自分を守るように、純はベッドの上で小さく丸まった。
不愉快で不規則な空気のざわめきが、鼓膜に浸透する。それに導かれるように、尭村はのそりと顔を上げた。どうやら、講義は終わったらしい。
もちろん内容なんてかけらも頭に入っていないし、そもそも授業なんてどうでもよかった。自分が今、この精神状態で馬鹿正直に夏季講習を受けているのは、自分に対して日常を装うためだ。
そうすることで、恋人に暴力的な陵辱を与えたという非日常を遠ざける。自己欺瞞以外の何ものでもなかったが、平静を保つためにはそれしかないことを、尭村はよく分かっていた。
自分の中で渦巻く感情が怒りだけだったら、まだよかった。忠告を無視して自ら罠の中に飛び込んだ純に対し、まず湧き上がったのは猛烈な怒りと苛立ち。
なぜ分からない、他人を信じて傷つくのは、いつもお前の方じゃないか。穢されても裏切られてもなお、頑なに人間の善なるものを信じようとするお前を見ていると、苛々して全てめちゃくちゃにしてやりたくなる。
お前は俺のことだけ見て俺の言うことだけ聞いて、俺を信じてさえいればいいんだと心と身体に教え込んでやるため、力尽くで押さえ付けて徹底的に嬲り倒したのだ。
しかし、そうして怒りを発散した後に訪れたのは、深刻な怯えだった。考えるまでもない、去年の夏の経験が、尭村の脳裏に昏く重い影を落としていたのだ。
また純が秀に助けを求めるかもしれない。そして二人で逃げるかもしれない。だから、鎖で繋いだ。自分の元に縛り付けておくために。
「は、は……情けねえ………」
込み上げる苦い自嘲を噛み締めつつ、尭村は立ち上がって乱暴に椅子を蹴り入れ、教室を出ようとした。
「あ、あの……今日の講義はこれで終わり？ よかったら近くで食事でも―――」
蛮勇を振るって声を掛けてきた女性を、尭村は一瞥で黙らせた。そしてさっさと教室を出る。一階に下りて、説明会や模試の告知などが貼られている廊下に出たところで、尭村はぴたりと足を止めた。
「……誰か待ってんのか」
「そうです。待ってました、あなたを」
壁に背を預けて俯き、不動を保っていた秀は、ゆっくり顔を上げて尭村を見返した。対して尭村は鼻先で嗤い、
「何の用だか知らねえが、お前とお喋りしてるヒマはない」
ぴしゃりと言い置いて、秀の脇を通り抜けようとした。すると、
「安心してください。あなたと話すつもりなんてありませんから」
抑揚に乏しい、ぞっとするほど平坦な声が耳元をかすめ、次の瞬間、硬いものが頬にめり込んだ。と同時に身体が斜め前に吹っ飛ぶ。
もちろん、一撃程度で尭村が倒れるはずもない。口内に溢れる血を吐き出して素早く飛び掛かり、秀の二度目の攻撃をかわして鳩尾に拳を入れた。
秀ががくりと身体を折ったタイミングを捉え、両手を硬く組んで振り上げ頚椎に叩き付けた。秀はさらに体勢を崩したが倒れることはなく、くるりと身体を反転させて腰を落としたまま尭村に突進する。二人はそのままもつれ合って床に倒れ込み、問答無用の殴り合いが始まった。
「ちょ、ちょっと……やめなさい、あなたたち……」
スタッフらしき女性が遠くから呼びかけたが、もちろん二人の耳に入るはずもない。間に割って止めに入ろうとする者はおろか、近づこうとする者も皆無。
初めて目にする本気の殴り合い、その不気味なまでの静寂に圧倒され、ただ遠巻きに眺めるだけだった。
永遠に続くかと思われた格闘だったが、唐突に終わりが来た。尭村はごろんと仰向けに転がり、
「ああ〜、くそ、馬鹿馬鹿しい。なんでてめえと殴り合わなきゃなんねえんだよ」
そう言って、血塗れの口許をぐいと拭った。すると秀もその傍らに膝をついて、
「それは、あんたがよく分かってるはずだ」
「自分の胸に聞いてみろ、って？ はは、つまんねえ……」
尭村は唇を歪めて嗤笑をこしらえ、
「お前、俺の部屋に入ったんだな」
「入りました」
「あいつに会ったんだな」
「会いました」
尭村は昏く淀んだ笑みを漏らした。ということは、純はもうあそこにはいないのだ。秀に救い出され、今ごろは―――
「おい、お前もう帰れ。あいつが一人で不安がってるだろ」
尭村の言葉に、秀はなぜか顔を強張らせた。しかし尭村は構わず、
「あんなものただの遊び、監禁ごっこだ。俺だって、ずっと続けようなんて思っちゃいねえよ。けどまあ、王子様が現れちまったんだから仕方ねえ。今回は負けにしといてやる」
いや、純を鎖で繋いだ時点で、自分の負けは確定していたのだ。それを認めたくなかっただけで。
「だからさっさと帰って、あいつを慰めてやれ」
しかし秀は立ち上がろうとせず、
「純はまだ、あんたの部屋にいる。監禁されたままの状態で」
秀の言っていることが頭に浸透するまで時間がかかった。尭村はがばと起き上がり、
「どういうことだ、それは」
「どういうも何もない。純はあのままの状態で、あんたの帰りを待っている」
「お前……助けたんじゃないのか？」
おかしな話だが、尭村は驚きと同時に怒りすら覚えた。あの辱められた状態の純を、よくも放っておけたものだと。しかし、
「もちろん助けようとした。あのふざけた鎖を叩き切って解放し、忌々しい部屋から連れ出そうとした。けれど純に拒絶された。自分はここにいると」
「なっ……んだって？！」
「ここにいてあんたの怒りが収まるのを待つから、秀はこのまま帰ってくれと言われた」
「ったく……あいつはっ………」
濃厚な想いに撓んだ声で、尭村は呟いた。純の言動の底に、去年の夏と同じ過ちは繰り返さないという悲壮な決意を感じたからだ。
「あんたにとってはただの遊び、監禁ごっこでも、あいつは違う。あいつはいつだって真剣なんだ。あんたの言葉、行動、感情全てを真剣に受け止めている」
尭村は素早く立ち上がり、まだ座り込んでいる秀に視線を落とした。それに気付いた秀はのろのろと顔を上げ、
「行けよ。あんたの勝ちだ。あの鎖を解くのは……あんたの役目だ」
尭村は小さく頷くと、集まる野次馬を掻き分けて駆け出した。が、秀の言葉とは裏腹に、喉奥から込み上げるのは敗北の苦味だった。
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