Small Miracle
―サイト4周年記念SS―
３.
純に追い付いた薫は、取り敢えず落ち着いて話せる場所を探した。校舎の裏手にある狭い庭。ぽつんと置かれたベンチに二人で腰を下ろした。
「……ごめんなさい、薫さん………」
背中を小さく丸めて謝る純。薫はその肩をぽんぽん叩いて、
「謝ることねえよ。大丈夫、まだあいつらにはバレてないと思うし」
「いえ、そのことじゃなくて……。あの、僕、さっき薫さんに……嫉妬してしまいました。薫さんは被害者なのに……」
薫は「そ…か…」と呟いてからははっと笑い、
「実は俺も……さっきお前に嫉妬しちゃったんだ」
「え？ 僕に？」
「うん。圭祐と二人で食堂にいただろ？ 二人でその……手を握り合って。なんか俺が割り込めない雰囲気で………」
純は涙を拭いてくすぐったそうに笑った。そして薫を正面からじっと見据えて、
「でもね、そのお陰で僕分かったんです。片瀬先輩の温かさとか深い思い遣りとか。あと、どれほど薫さんのことを大事に想っているか、とか」
「な、なにゆってんだよっ……」
「本当です。片瀬先輩ってあんまり感情を面てに出さない人だから、ちょっと冷たい印象を持っていたのですが、薫さんに向ける瞳には優しさがいっぱい詰まってました。本当に素敵な人ですね」
薫は照れ隠しなのか、赤い顔のままふいとそっぽを向いた。が、あさっての方向に視線を泳がせたまま、
「尭村もさ………その、まあ、いい奴じゃん。言葉も行動も乱暴だし、すぐ怒るし、イヤラシイこと言ったりするけど、でも………」
続く言葉を探しつつ、純の方に向き直る。そして明晰な声で、
「全ての行動や言葉の底に、純への愛情があるってことはよく分かったよ」
「薫さん……」
「べ、べつに見直したとか、そこまでは言わないけどなっ」
黙って薫の言葉を反芻する純。その双眸からつう、と涙がこぼれた。薫はあわあわしつつ顔を覗き込む。
「じゅ、純？！ どーしたんだ？ 俺、なんかヘンなこと言ったか？」
「いいえ……ただ、うれしくて……薫さんにそんな風に言ってもらえるなんて………」
そう言ってはらはらと涙をこぼす姿は、純そのものだった。姿形は薫だったが、透き通った涙やそれを拭う嫋やかな仕草は純だけのもの。
薫は、自分はこんな風に泣けないことを知っていた。見ているだけで胸が締め付けられる。薫は引き寄せられるように手を伸ばして、ぎゅっと抱き締めた。
「なあ、純。お前はほんとに愛されてるんだぜ。だからさ、生まれ変わって別の人間になりたいなんて、そんな……淋しいこと願うなよ。な？」
純は薫の胸にしがみ付いたまま、そろそろと顔を上げて“自分の”顔を見つめた。
母によく似た顔、紫色の瞳。どれほどこれを呪い、憎んだか分からない。でもあの人は、この瞳をとても綺麗だと言ってくれる。下を向くな、自信を持てと励ましてくれる―――
「薫さん、ありがと……。僕、もっと自分を大事にします。自分のことが好きになれるよう、がんばります」
薫はにっこり笑って頷き、抱き締める力を強めた。それに応えて純も、背中に腕を回してきゅっと力を入れた。その時、
「………お前ら何してんだっ」
険しい声と共に現れたのは、尭村と片瀬。二人共に眉を吊り上げて詰め寄ったが、それも無理はないだろう。人気のない裏庭のベンチで、各々の恋人同士が固く抱き合っていたのだから。
怒りの形相でどかどかと近付いて、抱き合う二人を引き離そうとした。が、それに先んじて、
「尭村さぁん！」
「圭祐ぇ！」
純と薫が甘えた声で叫んで抱き着いてきた。その身体を受け止めた尭村と片瀬は、驚きの余り硬直する。そして自分の胸に顔をうずめる人物を、ぽかんと口を開けて見下ろした。
「お、おい……藤崎………」
「どうしたんだ、秋原……」
抱き返していいものか分からず、二人とも両手を上げたまま立ち尽くしたのだった。
「………つまりお前たちの話を要約すると、二人の意識が入れ替わってしまったということなんだな？」
片瀬の冷静な問い掛けに、涙目で頷く純と薫。その横で、尭村はやってられないとばかりに頭を振る。
「そうか……。俄かには信じ難いが、薫はともかく秋原がこんな馬鹿げた悪戯に乗るとは思えないからな」
「どういう意味だよそれっ。まるで俺がガキみたいじゃねえか」
片瀬は肩を竦めて、「まるでガキじゃないみたいな言い方だな」と返す。そして腕を組んで「ふむ…」とうなり、
「ともかく入れ替わりは事実と認定しよう。しかし原因が分からない」
純はびくんと小さく震えて首を縮めた。夢で薫になりたいと願った話をしようとした時、薫が目配せを送ってきたのだ。その話はしなくていいぞ、と。結局、薫の思い遣りに甘える形で口を閉ざしたのだ。
そんな純の様子を、尭村はただじっと見つめている。結果、会話は片瀬と薫の二人のみで進められる形となった。
「思い当たる原因はないのか？ ぶつかった衝撃で、とか」
「古典SFかよ」
「うるせ。というかお前、ヘンなもの拾い食いしたんじゃねえのか？」
「な、なんだよ！ 誰がそんなことするかぁっ」
「この前、床に落ちたカールを拾って食ったじゃねえか」
「あれはいいんだよっ、３秒ルール以内だから！」
片瀬は「わかったわかった」と軽くいなし、
「拾い食いじゃないとしたらなんだ？ どうせお前がとんでもないことに首突っ込んで、秋原に迷惑掛けたんだろ？ まったく―――」
「あ、あのっ」
それまで黙って俯いていた純が、突然声を上げた。言わねばならないことはある、しかし何と言ってよいか分からない。そんな濃厚な戸惑いを背負って、無言のまま片瀬と薫の顔を見つめた。すると、
「純、原因はお前だろう？ ちゃんと説明するんだ」
尭村の声は厳しかったが、冷たくはなかった。胸の痞（つか）えが下りた純は、思わずほっと息を吐く。隠していても、やはり尭村には分かるのだ。そしてそれを、正面から指摘してくれる。
「はい。片瀬先輩、薫さん、ごめんなさい。原因は僕なんです」
そして純は、今朝薫に話したことをそのまま繰り返した。継母に詰られる恐ろしい夢を見たこと、その夢の中で生まれ変わりたいと、薫みたいになりたいと願ったこと―――
「薫さんは、それが原因だと決まったわけじゃないと言って宥めてくれました。でもやっぱり、原因はそれしかないと思うんです。ごめんなさい、僕が不相応な願いを持ってしまったから………」
「何言ってんだよ！ お前のせいじゃないって！」
声を張り上げて必死に庇ってくれる薫に、純は精一杯の笑顔で応えた。優しくて強い人。そして何より、真っ白で穢れのない心と身体を持っている。自分には決して手の届かない―――
「純、そんなに自分が嫌いか？」
尭村の真直ぐな問いは、純の心をきりきりと貫いた。
「ぼ……く………」
双眸に涙を溜めて、尭村の方にゆっくりと向き直る。そして首を振り、
「嫌い……じゃない……ほんとは………好きに…なりたい………でも、でもっ………」
純の揺れる言葉は、そのまま彼の苦悩を表わしていた。自分を大事にしたい、好きになりたい、でもそれを妨げるものの存在がまだ大きすぎるのだ。
しかし尭村はこの答えに満足したようだった。ふっと目を細めて純の前に膝をつき、
「辛い過去や心に負った傷を完全に克服するのは難しい。それは俺も分かる。だから純、少しずつ前に進もう。たまには逆戻りしたって構わねえ。そしてそれでも駄目だと、もうこれ以上は進めないという時が来たら、その時は一緒に死んでやるよ」
「な……にを………」
「俺が一緒に死んでやる。別に大したことじゃないさ。人間はいつか必ず死ぬんだからな」
「や、やだ………そんな、死ぬなんて簡単に言っちゃ………」
青ざめた顔で首を振る純に、尭村は肩を竦めて、
「簡単なことじゃねえか。死ぬより生きることの方がずっと大変だ。だからその時までもがいてもがいて、どうしても駄目だったら死ねばいい」
さらりとそう言って、純の前に手を差し出した。純はそれをきゅっと握り返し、
「ぜったい………死なないもん………」
「そうだな、お前は案外しぶとそうだ」
尭村は愉しげにそう言って、笑った。
放課後、帰り仕度を整えた尭村は席を立って、片瀬の隣にいる純の許へ。
「帰るぞ」
「はいっ」
純はぴょんと立ち上がり、尭村の後について教室を出ていった。途端に、教室内がしんと静まり返る。誰もが片瀬と目を合わせないよう気を付けつつ、一体何があったんだと言わんばかりの視線を森下に送る。当然の反応だろう。森下は仕方なく片瀬に近付き、
「よ、よう。尭村と藤崎が、その、一緒に帰ったけど、いいのか？」
もっと巧い聞き方があるだろっ、とクラスメートの心の声。もちろん、この馬鹿が付くほどの素直さが森下の最大の長所であることは、誰もが認めるところなのだが。
不躾な問いにも片瀬は眉をひそめることなく、淡々と頷く。
「ああ。構わない。俺は―――」
言葉の途中で教室の戸が勢いよく開けられた。そして、
「圭祐っ、帰ろぉ」
クラス中の注目を集めるその人物をくいっと指差して、
「あいつと一緒に帰るから」
さらりと答えて立ち上がると、そのまま薫を伴って帰っていった。
一瞬の静寂の後、
「ええええーーーーっ？！ どういうこと？！」
「尭村が藤崎で片瀬が秋原で………うわぁぁぁ、どうなってるんだっ」
「待て、もしかしたらそういうプレイかもしれないぞ」
「どんなプレイだよっ。訳分かんねえ」
騒ぎは暫く収まりそうになかった。
学校を出て暫く歩いたところで、薫はためらいがちに手を伸ばした。互いの手が触れ合うと同時に、片瀬は薫の手をぎゅっと握ってくれた。薫は嬉しさを隠せず、へへっと笑って片瀬にぴったり寄り添った。
あれから四人で話し合った結果、ともかく一日様子を見ようということになった。明日になっても戻らなかったら対処はその時考えればいい。
しかし四人とも、きっと明日には戻っているだろうと楽観的に考えていた。確たる根拠はないのだが、何故かそう信じられた。ならば、家に帰ったら何かと気苦労が多いだろうということで、今日は各々の恋人の家に泊まることにしたのだった。
「………なあ、圭祐。俺思ったんだけど、尭村ってなんか……その……すごいな」
もっと適切な言葉がありそうだったが、他に見つからなかった。しかし片瀬も「ああ」と返し、
「俺もそう思った。一緒に死んでやる、はなかなか言えねえよ」
「うん……。死ぬって言葉を安易に使うのは嫌いだけどさ、でも純の気持ちを前向きにさせるには必要だったのかもしれないな」
「一緒に死んでやる、は一緒にとことん生きてやる、の裏返しだからな」
薫はこくんと頷いて、力を込めて手を握り返した。そんな言葉をもらえた純が、ほんの少し羨ましいと思ってしまう。すると、片瀬が意外なことを言い出した。
「そういや昔、同じようなことを言われたな」
「えっ、圭祐が？ 誰に？」
片瀬は呆れたと言わんばかりに眉をひそめて、
「誰って、お前に決まってるだろ。忘れたのか？ 俺が一生圭祐の傍にいて、一生監視して、一生愛し続けます、そう言ったんだ」
「あっ……」
薫も思い出した。高校一年になったばかりの頃。片瀬の父親の元恋人で、片瀬とも関係を持っていた星野みどりという女性を前にして言った言葉だ。
「お、思い出した………」
薫は顔を真っ赤にして呟く。他人を前にして、よくもまあそんな歯の浮くような台詞を言えたものだと、今さらながら感心してしまう。しかし片瀬は懐かしそうに顔を綻ばせ、
「あの頃の俺は、秋原と同じものを抱えていたのかもしれないな。過去の自分を憎み、過去のせいで嫌われるのではないかと怯え……。あの言葉で本当に救われた。だから秋原もきっと大丈夫だ。俺が今……こんなに幸せなんだからな」
「な、なんだよ……道の真ん中でヘラヘラすんじゃねえよ」
嬉しいのに、照れ隠しでつい可愛げのないことを言ってしまう。すると案の定片瀬の手が伸びて、頬をぶにっとつねられた。
「痛っ。圭祐！ これは純の身体なんだぞ。大事に扱えっ」
「ああそうだな。忘れてた。ついいつもの感覚に戻ってた」
片瀬は悪びれることなくそう言って、ふわりと笑った。
「外見が違っても、やっぱり薫は薫なんだな」
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