Small Miracle
　　―サイト4周年記念SS―

２.

四限の授業が終わり、昼休みになった。何とか問題なくこなせた純は安堵の息をついて、うんっと伸びをした。と同時にお腹がくるくると鳴る。片瀬はくくっと笑って、

「忠実な腹の虫だな。薫、食堂に行くぞ」
「あ、あの……」
「ほら、急がねえと新メニューの煮込みハンバーグが売り切れちまうぞ。今日こそ絶対に食うんだろ？」

そう言って立ち上がり、純の腕を引く。純もつられて立ち上がったが、やはり気になるのは尭村の行動だった。今日はいつもの場所で、二人でのんびりお昼をする予定だったのだ。

片瀬に腕を引かれたまま、ちらと視線を移す。尭村は肩に上着を掛け、純の大好きなパン屋の袋を持ってこちらに近付いてきた。が―――

「ぁっ………」

尭村はそのまま純の脇を通り抜け、一瞥すら与えず教室から出て行ってしまった。

当然と言えば当然なのだが、こんな風に尭村に無視されたのは初めての経験で、しかも気付いてくれるかもという仄かな期待があっさり裏切られたこともあり、純はずぅんと落ち込んでしまった。

「……薫？　やっぱり具合が悪いんじゃないのか？」

ふと気付くと、片瀬が心配そうに額を曇らせて顔を覗き込んでいた。純は慌てて「大丈夫っ」と返すと、「お腹すいちゃったぁ」と言って笑顔を拵えたのだった。




目の前に置かれた煮込みハンバーグからは、ほかほかと美味しそうな湯気がたちのぼっている。純は「いただきますっ」と元気に言って食べ始めたものの、すぐに手は止まってしまった。

胸がいっぱいで喉を通らない。本当なら今ごろ、尭村と二人いつもの場所で心地よい風に当たりながら、パンを頬張っているはずなのに。

とはいえ、全て自分のせいなのだから誰を恨むわけにもいかない。自分が行き過ぎた願いを持ってしまったから、こんなことになってしまったのだ。

手にしていたフォークを置いて、ふぅっと大きく息を吐いた。するとテーブル上に大きな手が伸びてきて、純の手をふわりと優しく包み込んだ。

「あ、あの……」
「薫、一人で抱え込むなよ。俺で良ければいつでも話を聞くからな」

どうしたんだ、何かあったのかと無理に問い質すことはしない。相手の事情を尊重しつつ、ただ手を差し伸べる。そんな片瀬の振る舞いには、血の通った深い愛情が息づいていた。

純は戸惑いつつも手を握り返し、片瀬の顔を見つめた。普段は表情の変化に乏しい片瀬の顔。綺麗だけどどこか非人間的な冷たさを感じていたのだが、こうして真直ぐ向けられる眼差しには包み込むような温かさが感じられる。

ああ、この人は本当に薫さんのことを愛しているんだな―――そんな呟きを呑み込むと、胸の奥がぽぅっと熱を帯びてきた。

「ありがと……」

純は小さな声に想いを込めて捧げた。そしてにっこり微笑む。すると片瀬はふいと横を向いて、軽く咳払いした。顔が微かに赤らんでいるようにも見える。純はぱちぱちと瞬きして、

「あの……片瀬先………け、圭祐？」
「そんな……顔して笑うな。どうしていいか分からなくなる」
「え、えと……」

純もつられて赤くなってしまい、傍から見るとまるで初デートで戸惑ううぶなカップルだった。

純は逆上せた頭を冷ますため、ぷるぷると首を振った。すると少し離れたところから紫色の瞳がこちらをじっと見詰めているのに気付いた。

「あれ？　秋原じゃないか」

片瀬も気付いたらしく、軽く手を上げて「どうしたんだ？　そんなところで」と声を掛けた。薫は「う、うん」と曖昧な返事をしつつ近付いてきた。

「尭村と一緒じゃないのか？」
「あ、う、うん。その……ちょっと気になって………」

片瀬と純がどうしているのか気になったということだろう。しかしもちろん片瀬に分かるはずもなく、不審げな顔付きで「何が気になったんだ？」と質す。

薫が返答に窮してもごもごしていると、いきなり背後からぐいと手を引かれてよろめいた。

「うわっ、な、なんだよ」

薫が慌てて後ろを振り向くと、そこには額に鉛色の影を落とした尭村が。

「お〜ま〜え〜、何やってんだこんなところでっ」
「な、何ってその……」
「すっぽかしか？　いい度胸してるじゃねえか。さっさと来い！」

腰を乱暴に抱えられ、そのままずるずると引きずられてゆく。そんな二人を純は切なげに眉をたわめて見送った。

「まったく、相変わらずだな、あの二人は」

片瀬のからかいを含んだ言葉に「うん…」と生返事を返し、苦い溜息をついたのだった。




「い、痛い、痛いって！」
「うるさい、黙れ」
「なっ………」

薫は声を張り上げて抗議しようとしたが、ぐっとこらえて呑み込んだ。今自分は純なのだ。純ならきっとここでぎゃあぎゃあ喚いたりせず、黙って素直に身体を預けるだろうから。

暫く歩くと、今は使われていない旧図書館の裏に出た。薫は初めて来る場所だったから、思わずきょろきょろ見回してしまう。

学校の敷地内とは思えないほど静かで、小鳥の囀りも聞こえる。柔らかな草に覆われた緩やかな傾斜に、大きな木の枝が影を作っている。尭村はそこに薫を座らせると、自分もその隣にどさりと腰を下ろした。

「ったく……昼休みに一人でうろうろするなといつも言ってるだろうが」

薫はむぅっと頬を膨らませたものの、呆れたような口調の中に本気で純の身を案じる気持ちが感じられたから、素直に謝った。

「ごめん……なさい………」

するとぬっと手が伸びてきて、頭をわしわしと撫でられた。“許してやる”の意思表示なのだろう。行動はぶっきらぼうだったが、頭に乗った手のひらは温かかった。

「ほら、食うだろ？」

そう言って薫に向かって差し出した袋からは、パンの香ばしい匂いがした。言われて急に空腹を覚えた薫は「うん！」と元気に頷いて、渡された袋の中をがさごそと探った。

「うわあああ、うまそ〜」

薫はバナナチョコマフィンを手にとると、がしがしと食べ始めた。そしてあっという間に一個平らげてから、はたと気付く。

「あ、あの……このパンて尭村……さんが買ってきたの？」
「んあ？　当たり前だろ。他に誰が買ってくるんだ」
「い、いや……それはそうだけど………」
「通学途中に買ってきたから焼き立てじゃねえけど、まあ食えるだろ？」
「も、もっちろん！　すごくうまいよ」

尭村は一瞬目を見開いて薫の顔を凝視したが、すぐに表情を緩めてふわりと笑った。

「それならよかった」
「う、うん……」


―――うわ……尭村もこんな優しい顔で笑うんだ。それに、純のためにわざわざパン屋に寄って買ってくるなんて………


「ほら、このサワークリームベーグルも好きだろ？　食えよ」

薫は渡されたベーグルにぱくりとかぶりついた。サワークリームのほどよい酸味とブルーベリーの甘さがよく合う。

「ん、んまっ」

頬をもくもくと動かして、口の中のハーモニーをひたすら味わう薫。しかし隣の尭村がパンに手を出そうとしないのに気付き、口の中のものを呑み込んで、

「尭村さんは食べないの？」
「もちろん食う。けど、お前が必死に食ってる姿を見るのが妙に楽しい」
「何だよそれ………動物園じゃないんだぞ………」
「ぶっ、くくくく………」

俯いて肩を震わせながら笑う尭村を、薫はじろりと睨み付ける。が、ベーグルに視線を戻すと再びわしわしと食べ始めた。

すると尭村が突然顔を近付けてきた。そして何事かと構える間もなく、薫の口端をぺろと舐めた。

「うわっ！　な、なななななにを………」
「クリームが付いてた」

真っ赤な顔であわあわする薫に対し、尭村はさらりと答えた。そしてにやりと笑い、

「なんだ？　これだけでそんなに興奮したのか」
「こ、興奮て！　何言っ―――」

抗議の言葉を言い終えるより早く、尭村の身体がのしかかってきた。そのまま芝生の上に押し倒され、指先で頬を愛撫される。

「ちょっ………やめ………」
「サワークリーム旨そうだったな。少し味見させてもらうとするか」

尭村はそう言い置くと、薫のパニックになど構わずゆっくり顔を近付けた―――




―――薫さん、大丈夫かな……。尭村さんてば怒ってるみたいだったし………


すっかり冷めてしまった煮込みハンバーグをつつきながら、純は溜息をついた。

片瀬にこれ以上心配かけないよう、普段の薫らしく元気に振る舞わねばならないと分かっているのだが、いつもの場所にいるであろう二人のことを考えると、つい溜息がこぼれてしまう。


―――まさか尭村さん、薫さんにお仕置き、なんて……


とんでもない可能性に思い当たった純は、頭を振ってその馬鹿げた考えを追い払おうとした。

しかし一度頭に棲み付いてしまったお化けは滅えるどころか余計にリアルさを増し、純をいよいよ追い詰めていった。そして―――

「やっぱり気になるっ」

心を決めた時にはすでに立ち上がっていた。驚いた様子で見上げる片瀬にぺこりと頭を下げ、

「ごめんなさい。ちょっと用事を思い出したのでっ」

そのまま食堂を飛び出していった。

「薫、待てっ」

片瀬が放っておくはずもなく、すぐに立ち上がって後を追った。対して純は脇目もふらず、真直ぐ旧図書館の裏、二人だけの場所に向かう。

もちろん声を掛けたり割り込んだりするつもりはなかった。今、自分は薫なのだから、草むらからこっそり二人の様子を覗いてみるだけに留めなければならないのは分かっている。しかし―――

「あ……あ………」

それを見た瞬間、全ての思考が吹っ飛んだ。柔らかな芝生の上に押し倒され、今にも濃厚な口づけをされんとしているのは、自分であって自分でない者。秋原純の外見を持った秋原純でない者。

いや、外見なんてどうでもいい。尭村を愛し、尭村から愛されている秋原純はたった一人。今ここにいる自分であることは間違いないのだ。なのに、なのに………

「尭村さんのバカーーーーーッ」

唇が触れ合う寸前だったが、さすがの尭村もぎょっとしてぴたりと顔を止めた。そして声のした方に顔を向けると、そこには両目に涙を溜めてこちらを睨むクラスメートが。

「藤…崎……？　どうしたんだお前………」
「なんで………っく………なんでキスなんてっ………」

純は涙ながらに抗議したが、もちろん尭村には薫が泣いているようにしか見えない。余りの意外さに怒鳴ることも問い質すこともできず、ただぽかんと見上げる。するとそこに片瀬が駆け付けた。

「薫っ？！　お前何やってんだ。尭村？　これはどういうことだ」
「知るか。こっちが聞きてえ」

ようやく平静を取り戻した尭村は、視線を険しく尖らせて純を睨んだ。

「おい、藤崎。いい加減にしろよ。どういうつもりでこんな―――」

尭村の冷たい態度は当然とはいえ、純をさらに落ち込ませた。キッと睨み返し、

「もういいっ。尭村さんなんか知らない！」

くるりと背中を向けると走り去った。

「あっ、純！　待てよ！」

薫はすぐさま立ち上がり、その後を追う。残された尭村と片瀬は、ぽかんと口を開いたまま遠ざかる二つの背中を見送った。

「……なんだ、新しい遊びか？」
「さあ。遊びにしちゃ真に迫ってたよな」

二人は惚けた表情のまま視線を交わすと、首をひねりつつ後を追ったのだった。

BACK　　　　　　TOP　　　　　　INDEX　　　　　　NEXT