Small Miracle
―サイト4周年記念SS―
４.
「お、お帰りなさいませ………」
何があっても動じることなく、にこやかな笑みで対処する執事の鑑みたいな額賀が、驚きも露わにぽかんと口を開けた。しかし尭村は知らん振りで説明も与えず、さっさと家の中に入る。
「おじゃまします」
純もいつものように丁寧に挨拶して、尭村の後に続いた。すると奥から貴仁が笑顔で出てきた。
「よっ。純も来たのか。どうだ、一緒に茶でも―――」
途中で言葉は立ち消え、代わりに驚きが支配する。しかしここでも尭村は知らん振りを決め込み、すたすたと通り過ぎていった。
「あ、尭村先生、こんにちは。お邪魔します」
純はぺこりと頭を下げて挨拶すると、ぱたぱたと足音も軽く尭村の後についていった。二人の背中を見送った貴仁は頭を抱え、
「あんのクソガキ〜〜。また純を泣かす気かっ」
額賀は同情しますと言わんばかりに頷く。
「ああ……どこで教育間違ったんだろうなあ……」
貴仁の呟きに、最初からですよ、とはとても言えない額賀だった。
離れにある尭村の部屋に入ると、純はほぅっと息を吐いた。朝から張り詰めっぱなしの神経がゆるりと弛緩して、ようやく人心地がつけた。荷物を置いてソファにぽすんと腰を下ろし、上着を脱いだ尭村の寛い背中に語り掛ける。
「あの……尭村先生驚いてたみたいですね」
「ん？ そりゃそうだろ。後でネチネチ言ってくるに違いねえ」
「……ごめんなさい」
「別に、無視すりゃいいだけだ」
尭村の宥めに純は小さく首を振り、
「いえ……今回のこともです。片瀬先輩と薫さんには謝ったけれど、尭村さんにはまだ謝っていませんでした。ほんとにごめんなさい………」
窓から射し込む赫い夕陽に融けて無くなってしまうのではないかと思えるほど、純は小さく小さくちぢこまって謝罪の言葉を繰り返した。
対して尭村は黙って近付き、純の隣にどさりと座った。そして暫しの沈黙ののち、ゆっくり口を開いた。
「純、お前の身体は誰のものだ？」
純はぴくんと肩を揺らして、そろそろと手を伸ばした。そして尭村のシャツをきゅっと掴み、
「尭村さん……尭村さんのものです」
「そうだ、俺のものだ。だから他の人間に生まれ変わりたいなんて、そんな勝手な願いを持つのは金輪際許さないからな。分かったな？」
純はシャツを掴んだまま、こくこくと頷いた。するとぬっと手が伸びて肩に回され、そのまま抱き寄せられた。
尭村の胸に触れているのは薫の頬だし、抱かれているのは薫の肩なのかもしれないが、与えられた温もりに悦びを感じているのは他ならぬ自分、秋原純なのだ。
ただ、尭村の胸中が複雑だろうなということは理解できる。いつもならここから甘く深い口づけに進むはずだが、一向にその素振りを見せようとしない。
もちろん、それは当然の自制だった。この身体は薫のもの。と同時に片瀬のものでもあるのだから。これが二人に許されるギリギリの行為だった。それでも純は十分幸せだった。
そうして暫く無為の時を愉しんでいたが、やがて尭村はそっと抱擁を解き、
「お前の過去について、特にイギリスにいる頃何があったのか俺の方から問い質すことはしない。俺は昔、そのことでお前を苦しめ、傷付けたからな。同じ過ちは繰り返さない。けれど一つだけ確かめさせてもらう」
神妙な口調でそう言って、顔を上げるよう促した。純は言われた通りゆるゆると顔を上げ、尭村の黒瞳を見つめる。斜めの赫光を受けて、いつもよりさらに研ぎ澄まされた輝きを湛えた双つの宝石を。
「夢の中で継母から言われた言葉、あれはお前が実際に言われたことなのか？」
この瞳に嘘をつくことなどできるはずがない。純はこくんと頷いて、嗚咽を閉じ込めるために唇を噛み締めた。
何て醜い子だろう、お前みたいな醜い子は見たことがない―――
「そうか……。でもな、純。俺はお前をとても綺麗だと思う。外見だけじゃないぞ。全てひっくるめて、誰よりも綺麗だ」
「尭村さん……」
「俺の言葉、信じられるか？」
純は両目にいっぱい涙を溜めて、尭村の胸に抱き着いた。そしてぎゅっとしがみ付いたまま顔を上げ、
「信じます。ありがと……。尭村さん、だいすき……」
尭村はフッと目を細めると、そのまま顔を近付けた。二つの唇が今にも触れ合おうという瞬間、純は「ひゃっ」と声を上げて身体をのけぞらせ、ぷるぷると首を振る。
「だ、だめですっ。“これ”は片瀬さんのものです！」
「あ、ああ。そうだな。悪い。ついいつもの感覚に戻ってた」
尭村は苦笑混じりにそう言って肩を竦め、
「外見は違っても、やっぱり純は純なんだな」
ややこしいごたごたを避けるため、夕食は尭村の部屋でとった。そしてもちろん、入浴は別々。純が風呂から戻ってくると、尭村はソファに枕と毛布を出して寝床を整えていた。
ああそうか、今夜は一緒に眠れないんだと改めてこの状況の異常さに思い当たり、純はかくんと項垂れた。この部屋に泊まって別々に寝るなんて、初めてのことだった。
「あ、ありがとうございます……」
純は力ない声で礼を述べ、尭村が拵えてくれた俄か作りの寝台にちょんと腰を下ろした。が、尭村は寝室の方へ顎をしゃくって、
「お前はあっちだ。ここには俺が寝る」
「え？ そんな……。大丈夫、僕がここに寝ます」
尭村をこんな狭いところに寝かせて、自分は悠々ベッドを使うなんてできるはずもなかった。しかし尭村はさっさと身体を潜り込ませて、
「いいからあっちに寝ろ。お前、自分じゃ気付いてないかもしれねえけど、案外寝相悪いんだぜ。こんな所に寝たら、間違いなく途中で転げ落ちる」
「そ、そんなことないもん……」
「俺が言うんだから間違いない。その身体は藤崎と片瀬のものだ。傷は付けられねえからな。大人しく言う通りにしろ」
純はまだもぞもぞしていたが、観念したのか不貞腐れた顔で頷いて立ち上がった。そして未練がましく尭村の方を振り返り、はあと溜息をついた。寝る場所云々よりも、もう少し一緒にいたいというのが本音だった。
「おやすみなさい……」
純は肩を落としてそう言うと、尭村に背中を向けて寝室へ行こうとした。すると、
「純、もし恐い夢を見たらいつでも起こして構わないからな」
純は慌てて振り向いて、尭村の顔をじっと見つめた。やがて嬉しそうに笑うと、大きく頷いて寝室に入っていった。
その夜、ふと目を覚ました尭村は少し迷った挙句起き上がった。そして足音を忍ばせて寝室へ。カーテンの隙間から注ぎ込む月明かりのお陰で、室内は薄墨色の揺蕩いに満たされていた。
広い寝台に近付き、上からそっと覗き込む。隅っこで身体を小さく丸めてあどけない寝息をたてるその姿に、クラスメートの面影はない。柔らかにうねる髪も、丸い頬も、微かに膨らんだ小鼻も、間違いなく愛する恋人のものだった。
尭村は夜の凪を乱さぬようそおっと布団をめくり、身体を滑り込ませた。そして純の腰に腕を回して抱き寄せると、眠ったままくすぐったそうにふふっと笑って顔をすり寄せてきた。
純の体温と甘い香りと綿毛のような寝息を感じながら、尭村は静かに目を閉じたのだった。
「んん………」
温かな指先が優しく頬を撫でる。ほんの僅かな触れ合いなのに、嬉しくて幸せで泣き出しそうになってしまう。このまま永遠に目が覚めなくてもいいとすら思ってしまう。
―――純……そろそろ起きるぞ………
ああ……あれは大好きな人の声。いつもよりちょっと掠れた甘いテノール。目が覚めなくてもいいと思ったけれど、やっぱり起きよう。だってこのままじゃ、大好きなあの人の顔が見れないもの。
「起き……るぅ………」
純はうにうに呟いて目をこすりながら起きた。そしていつもの癖で、目の前にある逞しい胸に顔をぎゅっと押し付ける。
「あきむらさぁん……おはよ…ございますぅ………」
寝惚けた声で挨拶をすると、頭の上から「お早う」と返ってきた。その声につられるように上を向くと、双つの黒い貴石に迎えられた。
ああ、なんてきれいなんだろう。純はその輝きに導かれるまま手を伸ばし、目の縁をそっと撫でた。すると尭村はその手を取って指先に口づけ、さらに顔を近付けて唇に―――
「ゃっ………だ、だめ、だめです！」
ようやく寝惚けた頭にスイッチが入った純は、両手を突っぱねてあわあわと首を振った。対して尭村は眉根を寄せ、
「あ？ なんでだよ」
「なんでって………片瀬さんに悪いから………」
馬鹿正直に答える純に苦笑を漏らし、尭村は手を伸ばしてカーテンを引いた。光の洪水を浴びて、純は眩しそうに目を細める。しかし尭村は窓を指して「ほら」と言い、
「見てみろよ」
純はこわごわといった風に目を開けて、窓に映る自分の顔を凝視した。大きく目を見開いたまま、両手でぺたぺたと顔を触り、
「戻ってる………」
「俺の言った通りだろ？」
純はゆっくり瞬きしてから、尭村の胸に飛び付いた。
「尭村さんっ、戻ってる、戻ってる………」
尭村はあやすように背中を撫でながら、「良かったな」と言って笑った。そして、
「どうだ？ やっぱり自分の顔が一番しっくりいくだろ？ これからは大事にするんだぞ」
純は胸にしがみ付いたまま、何度も頷いた。尭村は背中に腕を回したままベッドに倒れ込み、一日ぶりに戻ってきた唇を存分に味わった。清冽な光に満たされた朝には不似合いな、粘着質で淫猥な音が室内に響く。
「ん……も……だめ………」
これ以上尭村の好きにさせていたらいけないということを、純は経験から知っていた。しかし時として、知っていることは何の役にも立たないことがある。ちょうど、今のように。
「や……だぁ………」
すでにパジャマの下穿きは脱がされ、貪欲な触手と化した尭村の手は次の標的である下着をしっかり掴んだ。もちろんそのままずり下ろし、あっという間に下半身は生まれたままの姿に。脱ぎたてほやほやの温かい下着を無雑作に投げ捨てて、
「今日の授業は３限からな」
有無を言わせぬ口調で言い置くと、ちらと唇を舐めて本格的な征服に取り掛かった。
「……おい、成仁。ちょっと来い。話がある」
「何だよ。これから学校なんだ。後にしてくれ」
「学校って、今何時だと思ってるんだ！ つうか、今まで部屋でナニしてたんだよ」
珍しく真剣な表情で追及してくる貴仁に、尭村はちらと余裕の一瞥をくれて、
「ナニって、親父が想像してる通りのことだよ」
「てめえ……どういうつもりだ。昨日連れ込んだのはどこのどいつ―――」
「あ、尭村せんせい。おはようございまーす」
開いた口が塞がらないとは、もしかしたらこういう表情を言うのかもしれない。貴仁はぽかんと口を開けて、離れから出てきた純を呆然と眺めた。
「純……なのか？」
「純以外の誰に見える？ ったく、頼むぜ。まだ親の介護はしたくない」
尭村はそう言って肩を竦めると、純に向かって「行くぞ」と声を掛けた。が、純の歩みがふらついているのを見て、そっと腰に腕を回す。
「大丈夫か？ 朝からちょっとキツめだったな」
「へ、平気です……」
貴仁の前ということで恥ずかしさを隠しきれず、頬を染めて俯く。そんな純にフッと笑いかけ、
「無理するな」
ひょいと抱き上げると、まだ驚いている貴仁の前を通って行った。一人残された貴仁はぶるぶると頭を振り、
「ヤバイな……仕事のし過ぎか。最近遊んでなかったからな……」
実に都合のいい理屈を拵えて、自分を宥めたのだった。
純を教室まで送った尭村は、自分の教室に入った。真っ先に目に飛び込んできたのは、机の上に突っ伏してぐったりグロッキーな薫の姿。その隣では片瀬が、いつもと変わらぬ無表情で本を読んでいる。
尭村はすたすたと近付いて、
「お前ら、いつ来た？」
「ついさっき」
「ふ…ん。やっぱりな。藤崎、朝からお疲れさん」
片瀬はじろりと見上げて、
「人のこと言えるのか？」
「お互い様、ってことだな」
尭村はさらりと答えて、不敵な笑みを浮かべたのだった。
（Fin）
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