Small Miracle
　　―サイト4周年記念SS―

１.

ある朝、目を覚ますと一匹の虫になっていた……わけではないが、それに匹敵するほどとんでもないことが起こっていた。

「あ…れ……？　ここどこ………？」

布団はふかふかで、微かに甘い香りがしてとても心地よい。でも天井の模様はいつもの自分の部屋とは違った。

ころんと横を向くと、さらに違和感は増した。床にゲームやサッカー雑誌が出しっ放しになっている。どれも自分の所有物ではない。

頭の中を“？”でいっぱいにしながらのっそり起き上がると、階下から朗らかな声が聞こえてきた。

「薫ちゃ〜〜ん、そろそろ起きなさぁい」
「か、かおる……？」

自分は“薫”ではないのだから返事はせず、ゆっくりベッドから下りた。そして部屋の中をうろうろ歩き回る。やはり自分の部屋ではない。自分の持ち物は何ひとつ見当たらない。ここに及んで、ようやくある可能性に思い当たった。

まさか、そんなことあるはずないと自分を宥めつつ、鏡を探す。しかし室内には見つけられず、足音を忍ばせて部屋から出る。そしてぺたぺたと廊下を歩くと、洗面所らしき場所を見つけた。

俯いて足下に視線を落としたまま洗面台の前まで歩き、声に出さずえいっと自分を奮い立たせて顔を上げた。

「ひぇっ……ひぇぇぇぇ〜〜〜〜〜」

純は文字通り腰を抜かしてその場に座り込んだ。鏡の中からこちらを見返してきたのは、紛れもなく薫。そう、藤崎薫の顔だったのだ。

「薫ちゃぁん？　どうしたの〜〜〜？」

階下から心配そうな声が届き、純は何とか声を張り上げて「何でもありませんっ」と答えた。

その声に聞き覚えはなかったが、自分で話している声と他人が聞く声は全く違うものだ。恐らくこれが、薫自身が聞いている薫の声なのだろう。つまり―――

「僕……薫さんになっちゃったの？！」

もちろんどこからも答えは聞こえず、純は何とか立ち上がってとぼとぼと“自分の”部屋へ戻っていった。




同じ頃―――

「純っ、じゅ〜ん！　いい加減に起きなさい、ほらっ」
「んん〜〜、もうちょっとぉ………」
「駄目よ！　今起きなきゃ遅刻するわよっ」

いきなり毛布を剥ぎ取られ、「ひぇっ」と情けない悲鳴を上げて飛び起きた。そして目をこしこしこすってから、眼前に立つ人をまじまじと凝視する。

「なっ………なななななんでここにいるんだぁ？」

環はハア、と溜息をついて、

「なんで、って、あんたが全然起きてこないからに決まってるじゃない。ほら、早く仕度して。ちゃんと朝ご飯食べないと頭が働かないわよ」

そう言って部屋を出ていく環の背中を、呆然と見送る。

「えと……これはまさか………」

顔をぺたぺた触ってみたが、それだけではよく分からない。ぴょんと勢いよく飛び起きて部屋を出ると、廊下に大きな姿見が嵌め込んであった。

そこに映ったものが自分であるとにわかに信じられず、手を上げたりあっかんべえをしてみたり、謎のダンスを踊ってみたりする。そしてようやく事態を呑み込んだ。

「俺っ、純になっちゃったぁ」

薫は誰にともなくそう言って、「はにゃ〜」と気の抜けた溜め息を漏らした。




薫になった純（以後、純）は、校門の前で純になった薫（以後、薫）を待っていた。

二人が入れ替わっているという確証は何もなかったが、ともかく確かめる必要はある。不安と焦燥を持て余しつつ待っていると、環と一緒にこちらへ来る自分の姿が見えた。

不思議な感覚。まるで世界から一人取り残されたような、自分とは無関係のもうひとつの世界が動いているような、淋しくて落ち着かない気持ちに襲われる。

「あっ、あの、えと………」

薫さんっ、と呼びかけそうになって、はたと口を噤む。純は仕方なく、大きく手を振って薫を呼んだ。

純の姿を認めた薫は、環に何か言うとこちらに向かって走ってきた。

「純っ」
「薫さんっ」

互いの名を叫んでぎゅぅっと抱き合う二人を、登校中の生徒たちは驚きを隠さずぽかんと見つめる。

仕方あるまい。蒼薇学園が誇る姫二人が、朝っぱらから校門前で熱い抱擁を交わしているのだから。

周囲の視線にようやく気付いた二人は、もそもそと抱擁を解いて気まずそうに俯いた。

「や、やっぱ俺が純で、純が俺になっちゃったんだ」

先に口を開いたのは薫だった。純はこくんと頷いて、「そうみたいです…」と消え入りそうな声で返す。薫は「はあ〜」と溜息をついて肩を落とし、

「何でだろなあ……。俺、昨日の夜とかヘンなもの食ったかなあ……」

首をひねって考える。対して純はかくんと首を折って、

「ごめんなさい、薫さん……」
「へ？　なんで純が謝るんだよ」

純は深く項垂れたまま、「実は…」と前置きして話し始めた。

「ゆうべ、恐い夢を見たんです」
「恐い……夢？」
「はい。僕が……日本に来る前、イギリスにいた頃の夢です」

純の肩が小刻みに震えていることに、薫は気付いた。また周囲から注目を浴びることを覚悟の上で、その肩を抱き締める。とはいえ、自分で自分の肩を抱いているのだから、何ともおかしな気分だった。

薫が与えてくれた温もりに力を得て、純は言葉を続けた。

「当時一緒に住んでいた継母から……お前は何て醜い子だろう、お前みたいな醜い子は見たことがないって―――」
「何だってぇ？！　純、お前そんな酷えこと言われてたのかよっ」

顔を真っ赤にして純粋な怒りを露わにする薫。純は慌てて首を振り、

「い、いえ、夢です、そう言われる夢を見たんです。僕、すごく恐くて悲しくて、それで……生まれ変わりたいって………生まれ変わって薫さんみたいになりたいって……」
「俺……？　俺みたいになりたい？」

ぽかんと口を開けて自分を指差す薫に、純は小さく頷きを返す。

「はい……。夢の中で、薫さんみたいに真っ白で穢れのない綺麗な人間になりたいって強く願ったんです。そうしたら………」

語末は掠れ、朝の喧騒に呑み込まれてしまった。純は両手で顔を覆い、何度も「ごめんなさい、僕のせいです」と謝る。薫は何と答えてよいか分からず、ただ震える背中をさすり続けた。

純は夢の中のことだと言っていたが、実際にそう言われたことがあったに違いない。それが心の中に沈澱してトラウマになり、夢にまで侵蝕して、生まれ変わりたいと願わずにはいられないほど苦しめるのだ。


―――何で……こんなに綺麗なのに………


誰もが振り返るほどの美貌を持ちながら、極限まで自己を否定せずにはいられない。何故、何が純をそこまで追い詰めているのか、薫には分からない。安易に推測すべきでもない。

けれど、すぐ目の前で肩をすぼめ、ひたすら謝罪を続ける純の姿に胸がきりきり痛むのは動かしようのない事実だった。

「なぁに謝ってんだよぉ。お前のせいだって決まったわけじゃないぞ。大丈夫、すぐに戻るさ」

薫の明るい声を受け、純はおそるおそる顔を上げた。薫は純の顔でにぱっと笑う。そう、それは確かに純の顔だったが、天真爛漫な笑顔は薫にしかできない、薫そのものの造形だった。

「神様からのちょっとした贈り物だと思ってさ、今日一日はお互いを楽しんじゃおうぜ。なっ？」
「薫さん……でも………」
「そんな深刻に考えんなよ。もっと気楽にさ。そう、いっつも脳天気な俺がそんな顔してたら、熱でもあるんじゃないかって思われるぜ。ほら笑って笑って」

そう言って純の頬に手を当て、ぐりぐりと揉む。薫だって不安なはずだ。でもその不安を押し殺して、自分を励ましてくれているのだ。純は笑顔を拵えて、「はいっ」と元気いっぱい応えた。

「よおし。んじゃそれぞれの教室に行こう。大人しくしてればバレないと思う」
「でも……授業とかどうしたら………」
「大丈夫っ。もし当てられたら、隣の席が圭祐だから助けを求めてもいいし、正直にわかりませ〜んって言っちゃってもいいから」
「わ、分かりました」

真剣な表情で頷く純の手を取ってぎゅっと握り、

「よし。行くぞっ」
「はい！」

二人は繋いだ手をぶんぶん振りながら、校舎の中に入っていったのだった。




教室の前で、純はすーはーと深呼吸した。そして自分に気合いを入れると、戸を引いて中に入った。

その途端、見慣れた横顔に釘付けになる。窓側の一番後ろ、お決まりの特等席に座って本を読んでいる端整な横顔。透明な朝日の中で、完璧な曲線を有した輪郭が暈然と輝いている。

純はくすぐったさを覚えて目を逸らす。こうして尭村のいる教室に堂々と足を踏み入れるなんて―――


―――なんか……ヘンな感じ……でもちょっとわくわくするかも


頬が赤らむのを感じつつ、教えられた通りの席にぽすんと座る。そして隣の片瀬にぺこりと頭を下げ、

「おはようございます」

片瀬はぎょっとした表情でまじまじと見詰め返す。


―――あ、あれ？　何かおかしなことしちゃったかな？


純は自問しつつ、もう一度片瀬に向かって「おはようございます」と言ってにっこり笑いかけた。すると今度は思い切り眉間に皺を寄せて、

「薫、大丈夫か？」
「えっ？」
「ちゃんと朝飯食ってきたか？」
「は、はい。食べてきました」

片瀬はぬっと手を伸ばして純の額に手を当て、

「………熱はないみたいだな。念のため保健室に行くか」
「えっ？　あ、あの、どこも悪くないです、ほんとに―――」

答えながら、ようやく純は気付いた。自分は今、薫なのだ。薫が片瀬に敬語を使うなんておかしいに決まってる。

「だ、だいじょうぶっ。心配いらないって」

ちょっと気がひけたけれど、直や秀に話すつもりで言ってみた。すると片瀬はまだ不審げに眉を寄せながらも、「分かった」と納得してくれた。純はほぅっと息を吐いて、自分に言い聞かせる。


―――いけないいけない、気を付けなくちゃ


そして顔を向けずに目だけ動かして、隅の席で読書を続ける尭村の横顔に視線を注ぐ。


―――もしかして……気付いてくれたりするかなあ……


そんなことあるはずないと分かってはいるが、つい期待してしまう。純は微かに高鳴る胸を押さえながら、テキストを取り出して授業の準備をしたのだった。

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