柘榴氏の憂鬱
＜第五話＞
「怖がらせてしまったようですね。でも安心してください。あなたを傷つけるようなことはしませんから」
彼の生き餌としての新たな生の始まりを恍惚と反芻していると、穏やかな声で現実に引き戻された。僕ははっと顔を上げて、茫洋と彷徨っていた目の焦点を彼に合わせた。
いつの間にか、彼にまとわり付いていた魔の陰翳は消えており、キャンドルがもたらす杏色の光の中で淡く微笑む彼は、たった今僕の血に対する飢えを露わにした人間とは思えぬほど紳士的で優美だった。
光と影、聖と魔、陽と陰―――言葉にするといささか陳腐に聞こえるけれど、そういった二面性が彼の魅力を抗い難いものにしていることは否定できない。
そして今も、闇に浮かぶ天使の微笑みにくらりとよろめき、僕はしばし胸に手を置いて呼吸を落ち着かせる必要があった。彼は心配そうに眉をたわめ、
「どうしました？ どこか具合でも……」
恥ずかしさがなかったわけではないが、僕は正直に答えた。
「あ、いえ……あなたの美貌にくらくらしてしまって……」
彼は「おやおや」とからかい混じりに返して、
「それは私の台詞ですよ。造形的な美しさだけではない、あなたの吐息や肌の匂い、体温、睫毛のふるえ……あなたという存在からたちのぼる芳しい香気すべてが、私をどうしようもなく高ぶらせる。
ああ、あなたに会う前に飢えを満たしておいて本当によかった。もし空腹時だったら……」
「だったら？」
勢い込んで続きをせがむ僕に、彼はちょっと咎めるような含蓄ある眼差しを向けた。私にその続きを言わせる気なのですか？ と言わんばかりに。
「僕はあなたの餌食になっていたのですね？」
代わりに僕が、浮かれた声で続きの言葉を口にすると、彼はゆったり首を振って、
「私が言うのもおかしいかもしれませんが、もう少し警戒心を持ってください。確かに私は吸血鬼ではありませんが、あなたの肌に咬み付いて血を吸いたいと願っている異常者に変わりはない。ちょっとしたきっかけで飢えを抑えきれなくなるかもしれない」
「安心しろと言ったのはあなたです」
「それは……確かにそうですが……」
濁した語末に、彼の苦悩が滲んでいた。血を求める欲望と、獣のようになりたくはないという自制の狭間で、非の打ちどころのない美貌がわずかに歪んだ。それを見た僕はそっと腰を引いて彼との距離を空け、
「すみませんでした。あなたをそんな風に苦しめるつもりはなかったんです。無防備な振る舞いは慎むようにします」
「ありがとう。そうしていただけると助かります」
彼は礼儀正しく一礼してから、いたずらっぽく笑った。その花が綻ぶような表情の変化に再びくらりとしたが、何とか平静を保って笑顔を返した。
「では、簡単な取り決めをいたしましょうか」
彼はそう言って、象牙のような指先でテーブルをコツ、と叩いた。
「まず、血の授受は原則週に一回」
僕は早速異議を挟んだ。
「少なすぎやしませんか？ 週にたった一回なんて」
「いえ、多すぎるぐらいですよ。あなた達だって、極上のディナーは記念日とか特別な時だけでしょう？」
「でも……」
週に一回、わずかな血を分け与えるだけでは、彼の命を支えていることにはならないのではないか。本当は毎日でも飲ませてあげたい。そのせいで僕の命が干涸びてしまっても構わない。
「あの、もう少し増やしてもらうわけにはいきませんか？」
僕の提案、というより懇願に対し、彼はつらそうに目を細めて首を振り、
「この程度にしておいた方が、私のためにもあなたのためにもいいのです。これ以上増やしてしまうと、私は自分の欲望を制御するのが難しくなってしまう。そしてあなたは、体調に支障をきたす恐れがある。現に今日だって、貧血を起こしかけたでしょう？」
何も言い返せずむすっと黙り込んだ僕の顔を、彼はそっと覗き込み、
「あなたのお気持ちはとても嬉しいです。私は一週間我慢しますから、その間じっくり醸成させたあなたの甘露で私を酔わせてください。ね？」
あやすような甘い声で宥められては、僕も頷かざるを得ない。僕は彼に会えない一週間の重みをすでに知っているかのように、苦い溜め息をついた。
彼は「では次に、」と言ってテーブルを叩き、
「場所ですが、井の頭公園の先ほど私たちが話したベンチはいかがでしょう」
これには、僕も異論はなかった。同意を伝えてから、
「その場で、ということでしょうか」
「そうですね、その場に人がいなければそこで。目撃される可能性があれば柔軟な対応をとる、という形がいいかと思います。ええと、それから……」
その時、僕の中に不審の念がふっと湧き上がった。彼の話の進め方が手慣れているのが気になったのだ。
もしかしたら、これまでも幾度かこういった取り決めを交わしたことがあるのかもしれない。この考えは僕の心に昏い影を落としたが、努めて目を背けた。仕方ないじゃないか。彼ほど魅力的な男性なら、生き餌の一人や二人いてもおかしくない。
「どうしました？ 何か―――」
気が付けば、彼が心配そうにこちらを見つめていた。僕は無理やり笑みをこしらえ、
「いえ、何でもありません。どうぞ、続けてください」
彼は一瞬目を細めて視線を尖らせたが、すぐに頷いて、
「時間ですが、夜八時でいかがでしょう」
「はい、結構です」
「では授受についてですが、あなたに何か不都合が生じた場合は、一方的に供給を中止することができます。でもその場合、なるべく前日までにその旨を連絡する。どうですか？」
僕が供給を中止することなんて絶対にないと断言できたけれど、あくまで取り決めなのだからと自分に言い聞かせて同意した。彼はコツ、とテーブルを叩き、
「連絡方法は、携帯電話のみで。お互い、自宅の住所も電話番号も教えないようにしましょう」
その理由は何となく分かるような気がしたが、一応彼に質してみることにした。
「何故ですか？」
彼はちらと意味ありげな一瞥をくれて、
「あなたが住んでいる場所を知っている、これが私にとってどれほど危険で誘惑に満ちた状態であるか、もうお分かりでしょう？」
「つまりあなたが、家にいる僕に襲いかかると？」
「そうですね……いや、もちろんそんなことはしません。そんなことをしたら、あなたを永遠に失ってしまうことになる。けれど、より深い葛藤に苦しむのは間違いありません。
あなたの家の前まで行って窓を見上げ、暴走する飢えを静めるため舌に染み込んだあなたの味を反芻し、欲望との格闘に疲れ果てた身体を引きずってとぼとぼと家路につく……そんな自分の姿が目に見えるようです」
彼の率直な言葉はとても好感が持てた。と同時に、彼がどれほど僕の血を欲しているか知り、悦びを超えた深い感銘を覚えた。だから僕も、自分の気持ちを素直に伝えるべきだと思った。
「欲望は、あなたの専売特許ではありません。確かに僕には、血に対する飢えはない。けれど……もっと別の欲望ならあります」
彼の眸がぬらりと光った……ような気がした。
「例えば？」
「例えば……肌の触れ合いとか、口づけとか、それから……身体と身体の繋がりとか」
彼は黙って、蝋燭の炎を見つめている。その神々しいまでに整った横顔からは、どんな反応も感情も窺えない。
「……すみません、変なこと言ってしまって。あなたが自分の欲望を正直に打ち明けてくださったので、僕も誠実さを見せるべきだと思ったのです。飢えているのはあなただけではないと伝えたかった」
「いえ、謝ることはありません。あなたのお気持ちはよく分かりました。ただそのことに関しては、少し時間をくれませんか？」
僕は一瞬ためらったが、払われるのを覚悟で彼の手に自分を手を重ねた。そして、
「はい、もちろんです。時間はたっぷりありますから……」
果たして、彼は僕の手を払うことなくそっと握り返してくれた。正直に言おう。この瞬間僕の下腹部はかぁっと燃え上がり、これまで感じたことのない疼きが腰の芯にたまってゆくのを自覚した。
僕はもともと、性に対しては淡白な方だった。こんな風に欲望を露わにすることはなかった。求められればもちろん悦んで応じたけれど、行為の最中は相手がどんな反応を望んでいるのか探る方に神経を使うあまり、自分の快楽が疎かになることがほとんどだった。
だから、この甘痒い疼きは新鮮だった。ああ、これが“感じる”ということなのかと感慨を噛み締めつつ、全身を巡る甘美な電流に惑溺した。
彼はおそらく、そんな僕の情態に気付いていただろう。血の流れや体温の上昇、肌が発散する匂いに敏感な彼のことだ。
けれどこの慎み深く紳士的な獣はそんな素振りも見せず、これまで通り淡々と言葉を続けた。
「最後に、大事なルールを決めましょう。あなたは、この授受関係をいつでも断ち切ることができます。ですから―――」
「そんな権利は必要ありません。言ったはずです。僕はあなたのために生きると。あなたとの関係が切れた時、僕の命も終わる」
僕の断固たる言葉に、彼は淋しげな微笑みを浮かべ、
「最初はね、みんなそう言うんですよ」
「……やっぱり、僕の他にも提供者がいるのですね。僕一人の血では足りないのですか？ それとも、最初から僕は間食のようなもので主食は別の人が―――」
「ま、待ってください。そういうことではありません。今はあなた一人です」
「今は？」
「はい。実は以前にも、このような関係を結んだ人がいました。けれどその人たちはみんな、私から離れていきました」
「だから僕も、いずれは離れていくに違いないと？」
彼は無言のまま、僕を見つめ返しただけだった。それはどんな言葉より強力な肯定のしるし。彼の疑念を覆すにはある程度の時間が必要だということは、僕にも分かる。血の提供を続けて彼の信頼を得るしかないのだと。
それより僕が気になったのは、本当に今現在の提供者は僕一人なのだろうかということだった。いやむしろ、複数の提供者を確保していると考える方が自然ではないだろうか。
僕はあらためて彼を見た。僕との『契約』が成立した安心感からだろうか、あるいは暗がりに身を置いているからだろうか、おそらくその両方だろうが、来た時よりも寛いで雰囲気が柔らかくなったように見受けられる。
それでも彼の周囲では闇が戦慄し、濃密な魔の瘴気が、甘く錆び付いた血の粒子が漂っている。僕はようやく気付き始めていた。彼の美しさ、それは捕食者の美しさなのだ。
鮮やかな花弁で虫を誘う食虫植物のように、その魔性で餌である人間を惹き付ける。たぶん、無意識のうちに。
ならば彼の“罠”にはまったのが僕一人であるはずがない。彼の柘榴の眸に魅入られた者ならば例外なく、嬉々として首筋を差し出すに違いない。
「……どう、しました？」
いきなり黙り込んだ僕の真意を探ろうと、彼が顔を覗き込んできた。僕は心臓とは別の場所でどくどくと鼓動する赤黒い塊を意識しつつも、何とか笑みをこしらえ、
「いえ、あなたの提案を考えていたのです。分かりました。ともかくそれはルールとして受け入れます。あくまでルールとして」
彼はほっとした様子で目を細め、
「ありがとうございます。それで、謝礼の件なのですが……」
「要りません。そんな言葉、二度と口にしないでください」
きつすぎる僕の口調にも彼は笑みを崩さず、「たぶんそう仰るだろうと思ってました」と言って肩を竦めた。僕は恨めしげに睨み付け、
「分かってるなら言わないでください。泣きそうになりました」
「これは失礼。ああ、でもあなたの涙、見てみたかった気もします」
僕が膨れたままふいと横を向くと、冷たく乾いた指で頬を撫でられた。
「そんな幼い表情もするのですね。私が見ていたあなたはいつも思い詰めた顔をしていたから、何だか新鮮です」
彼はそう言って、喉の奥でくくっと笑った。燭影がざわりと揺れる。
「ああ、そうだ。もうひとつ大事なことがありました」
「まだ何かルールがあるのですか？」
いささかうんざりしたような僕の言葉に、彼は真面目に首を振って、
「あなたのお名前を伺ってませんでした」
「名前……」
現実的な指摘に拍子抜けしたけれど、僕はすぐに答えを返した。
「あなたが付けてください。僕は一度死んで、生まれ変わったのですから」
「なるほど、確かにそうですね。でもなかなか難しい……私にはそういうセンスが皆無なので。そうだ、まず私に名前を付けてくれませんか？」
唐突な申し出だったが、すぐに思い付いた。
「では、これからあなたを柘榴氏とお呼びします」
「柘榴？ ……ああ、これですね？」
弓なりに反り返った親指が、投げ遺りな調子で目許を突いた。俗っぽい仕草だったが、彼がやると優雅に見えてしまうから不思議だ。
「柘榴は再生する神ディオニュソスの血から生えた植物、永遠の生命の象徴です。あなたにぴったりでしょう？」
僕の揶揄めいた口調に、彼はにやりと笑って、
「確かに。私が本物の吸血鬼だったらもっとぴったりだったのに。では、あなたはペリカンですね」
「ペリカン……ですか？」
「ええ。ペリカンは自らの胸を裂いてその血で雛を養うと言われています。よって、犠牲、聖なる愛の象徴なのです」
僕は思わず眉をひそめた。
「やめてください。僕はそんなつもりではありません。聖なる愛だなんて……」
「はは、また怒られそうですが、そう言うと思ってました。もちろんペリカンなんて名前を付けるつもりはありませんよ。そうだな……」
彼は顎に手を添えて、ふと目を伏せた。思索に耽るその姿は、あの有名な彫像よりずっと芸術的で深い静寂を湛えている。やがて彼は目だけ動かして僕を捕え、
「では、私も同じく眸からの連想で。かすかに青みを帯びたあなたの黒瞳はまるで、月明かりが辛うじて届いた深い水底のよう。ですから、月深（つきみ）さんでいかがでしょう」
「素晴らしいです。まるで、もうずっと前からその名で呼ばれていたかのような、幸せな錯覚に溺れてしまいます」
彼、柘榴氏は満足げに頷いて僕の方にそっと身を乗り出した。吐息が顔にかかり、思わずよろめきそうになってしまう。
「では、月深さん。私とあなたの契約成就を祝して……」
彼は囁くようにそう言って僕の頬に口づけ、共犯者の笑みを漏らした。
その瞬間、裂けた唇の隙間からちらと見えた白い犬歯に、僕は戦慄と同量の喜悦を覚え、それに貫かれる時の痛みを想像し静かに震えた。
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