柘榴氏の憂鬱
お前の吸血がまだ私には逸楽だろうか
お前は私の内部から鉱（あらがね）を掘り
私の内部の葡萄酒をすすり飲んだ
私はいまも喪失の悦びに戦くだろう
『影よ お前は夜も昼も』／シュテファン・ゲオルゲ
＜第一話＞
僕はしばしば憤然と自問するのだが、なぜ献血した人にはジュースが与えられるのだろう。そんなつもりじゃない、代償なんか要らない、ただ、ごくごく淡い満足感に浸ることができればそれで充分なのに。
目の前に並べられたどぎついパッケージのジュースの山。それは主催者からの純粋な謝意というよりむしろ、無償の奉仕をしたのだという提供者たちの甘い陶酔を粉砕する周到な策略なのだろう。
曰く、君らはこの美味しいジュースがもらえるのだから、我々主催者が君らの重い善意をしょいこむ必要はないのさ、と。
いずれにせよ、かすかな痛みと共に恭しく差し出した瑞々しい血液の代わりに人工甘味料たっぷりのジャンク・ドリンクを注ぐなんて、ぞっとしない話だ。我が精髄が薄められるぐらいなら、ぽっかり虚が空いてしまった方がずっといい。
いや、僕は虚に“なる”のだ。これから。僕は今日、自殺するつもりなのだから。
もうすぐこの血液は停滞し、重力の法則に従って痼り、皮膚に卑猥な斑ちをつくる。本質であったものが装飾へ成り下がってしまうのだ。
だからせめてその前に、閉店間際の出血大サービスというわけで、最後の献血に訪れたのだ。もう採れるだけ採ってください、との意気込みで。
なのに採血者の若い女はこわごわ僕を見上げて首を振り、これが限界です、これ以上は採れませんと言う。奉仕にさえ“ほどほど”を求める。全く、辛気臭い世の中だ。
件の献血センターは、サン・ロードという脳天気な名前の商店街にある、というか存在を許されている。
今生最後の奉仕を終え、もちろん美味しいジュースは無視して外に出ると、そこは夏休暇の商店街の繁盛で、若さで生臭い人いきれと、隣接するピザ屋が発する焦げたチーズの臭いに思わず咽んだ。
しかし、身体中を巡る嘔吐感を何とか律して体勢を繕った。両眼の焦点は未だ浮わついているけれど、歩行の障碍にはならないだろう。僕はゆっくり歩き始めた。
つい三十分ほど前までは、僕は彼の部屋で死ぬつもりだった。が、音もなく吸い上げられた僕の血、憎々しいほど紅く滑らかな液体を見た時、僕は彼に棄てられたから自殺するわけではないことに気付いた。
そう、僕は自分に見切りをつけたから死ぬのだ。ならば自分の部屋でやるのが筋というものだろう。だから僕は彼の部屋がある荻窪へは向かわずに、吉祥寺駅の股下をくぐり抜けて井の頭通りに出、我が家まで二十分の道程を歩くことにした。苦い回想を引き摺りつつ。
彼は大学のOBで、卒業してからもサークルの飲み会にしばしば顔を出した。男性からも女性からも人気が高く、彼の周囲にはいつも人の輪ができていた。
とはいえ僕はその輪の中に入ることはなく、遠巻きに眺めてはその華やかな空気を肴にビールを舐めるといった具合だったから、何度目かの飲み会の帰りにいきなり誘われた時は驚いた。
店の外に出て、二次会に参加しようかこのまま帰ろうか迷っていると、手をぐいぐい引かれていつの間にか二次会組からも帰宅組からもはぐれていたのだ。
その時彼は、何か弁解めいたことを言っただろうか。たぶん、言ったはずだ。でも僕が覚えているのは、腕を掴んだ彼の手の熱さと、有無を言わさず引っ張る力の強さだけ。
こういう強引さは嫌いではなかった、というよりむしろ変に気を使われるよりずっと好ましかったから、僕は何も言わず彼の誘導に従ったのだ。
その後、いかにも大人の隠れ処的なバーでどんな話をしたのか、やはりよく覚えていない。
ただ彼はいわゆるバイセクシャルで、男性も女性も同じように愛せること、そして初めて僕を見た時から『玻璃細工の三日月のような』危うい魅力に取り憑かれてしまったこと、そして僕を観察しているうちに、僕自身の性癖について確信を得るに到ったことなどを、訥々と語ったように思う。
結局その夜、僕は彼の部屋に泊まった。彼は当然のように僕を抱き、何度も抱き、腕を掴んだ時の手の熱さを凌ぐ熱流を僕の中に迸らせた。
こうして僕たちの関係は始まった。今から三カ月前のことだ。
付き合い始めてまだ間もない頃、彼の部屋を訪れた僕はおそるおそる食事をこしらえた。まだ彼の好物や味の好みを把握していなかったからだ。
すると彼は肉じゃが以外は全て平らげ、君って見かけによらず家庭的なんだな、前に付き合ってた女は飯の炊き方も知らない奴でさ、と言った。
僕は自分が家庭的なのか分からなかったし、ちょっと食事を作っただけで家庭的と言われるのはあまりに安易で本当に家庭的な人に対して申し訳ないと思ったのだが、彼が望むのなら家庭的になろうと思った。
一緒に住むことはなかったけれど、荻窪のマンションまで通って掃除洗濯は完璧にこなし、食事は全て手作りした。彼が会社へ持っていく弁当もできる限り用意した。
一度、全く手を付けないで持ち帰ったことがあったので何が気に入らなかったのか訊ねたら、前夜飲んで帰った日は胃が弱っているから重いものは食えないんだと答えた。
そこで僕は一計を考じ、茹でたそうめんをタッパーに詰めてつゆと刻みネギを添えて渡した。感想を求める僕に彼は笑って、ああ、流しそうめんにしたよ。これは比較的愉快な思い出だ。
付き合い始めて二カ月目、彼は訳もなく僕を殴るようになった。
自分を好きかと訊ね、好きだと答えると殴った。なぜ、訳もなく殴られても我慢できるのかと訊ね、好きだからと答えるとまた殴った。好きだから殴られても平気だと答えたことによって殴られるのは非道いと思わないのかと問い、そういう不条理も含めて好きなのだと答えたらまた殴った。
結局、彼はこの種の戯れが好きなのか、あるいは恋愛における必然の過程であると思っているのだろうとの穏当な結論に落ち着き、こちらからは特に理由を問うことなく黙って痛みに耐えた。
僕は感覚的な痛みを好む者ではない。しかし、何を言ってもどんな態度で接しても殴られるのだから逆に思い通りに振る舞えるという解放感と、殴られることによって彼に何らかの快感を与えているのだとの自負が痛みに積極的な価値を与えたことにより、僕は殴打の度に深い安堵を覚えるようになった。
三カ月目、彼はいかにも稚拙な、技巧的とさえ言える拙いやり方で浮気をした。
彼がどういった反応を僕に望んでいるのか探る時間が必要だったため、彼以上に技巧の限りを尽くして何も気付いていないふりをし続けた。
そしてその間に、僕にはあなたしかいないのにと泣き崩れるか、まあ仕方ないな男ってそういう生き物だからと鷹揚に受け入れるか、僕の元に戻ってくれるまでいつまでも待ち続けますと悲愴感を漂わせるか……とシミュレートに明け暮れ、もちろんそうしながらも弁当は作り続けた。
しかし延々と答えは出ず、こうして気付かないふりをしながら頭の中で試行錯誤を巡らせつつ弁当を作っているのが最善とは言わずとも次善の選択ではなかろうか、大体において最善の策より次善の策を採った方が上手く収まるものだと思い始めた矢先、彼は技巧的な拙さから技巧を取り払ってしまった。
ある晩、いつものように食材の詰まったビニール袋を抱えて玄関の扉を開けると、女性的な甘い馥りがふわっと鼻孔をかすめた。
僕はこの匂いを知っている。『プレジャーズ』という名の香水だ。男性の部屋を訪れる時にプレジャーズ、歓びという名の香水を選ぶ女性に僕は好感を持った。と同時に哀れみも抱いた。だから余計に二人の情事の現場に踏み込むのが躊躇われたのだ。
できることなら扉をそっと閉めてプレジャーズを閉じ込め、彼女が帰るのを待ちたかった。が、彼女はともかく彼の方は、僕の気配を既に敏感に察知しているはずだ。化かし合いは終わりだよ、との彼からのメッセージを黙殺するわけにはいかない。
僕は靴を脱いで、ラインストーンがちりばめられた華奢なサンダルの傍に揃えた。そして真直ぐ台所へ行き、夕食の仕度を始めた。
何人分作るか迷ったが、いつもより少し多めに作ることで結着した。なるべく音をたてぬよう細心の注意を払いつつお米を研ぎ、二度目の研ぎ汁を流した時、下着姿の彼が寝室から出てきた。
彼は怒ってもいない恥じてもいない開き直ってもいない、ただそこに立っているだけ。その表情から僕がとるべき言動の指針を導くことは不可能であると直観し、僕は自分の手元に視線を落として三合でいいかな？ と訊いた。すると彼は不可解な笑みを浮かべて、いや彼女はもうすぐ帰るからと答えた。
それから一時間後、彼は別れ話を持ち出した。僕はあなたが望むのなら仕方ない、でも理由を聞かせてほしいと応じた。
今まで僕を捨てていった男たちはみな、君の愛情は重すぎる自分には背負いきれないと言って、済まなそうに項垂れた。おそらく彼も例外ではないだろう。反応が分かっていながら敢えて問い質すのは、この行為自体に意味があるからだ。
これは儀式なのだ。ひとつの恋愛に終止符を打つための。この形式的な問答を終えることによって、僕は自分の気持ちに整理をつけ、また次の新たな恋愛に挑むことができる……はずだった。
しかし彼は、僕の揺るぎない予想と対極の言葉を口にした。曰く、お前は俺を愛してはいない、と。
想像だにしなかった反応に呆然とする僕に、彼は感情を挟まず整然と自分の考えを開陳した。
―――お前は俺を愛していない。お前は確かに、この数カ月の間不条理な暴力に耐えながら献身的に尽くしてくれた。けれどそれは俺を愛しているからではなく、自分は必要とされていると絶えず確認するためだ。そう、お前は誰かに求められることでしか、自分の存在価値を信じることができない。哀れだとは思うが、お前の自己確認の道具にされるのはご免だ
斯様な彼の容赦ない言葉に、僕は必死に反論した。誰だって、求められることで愛を確かめているのではないかと。すると彼は薄い笑みを浮かべ、僕の拙い反論を打ち砕いた。
―――お前はそれに依存しすぎている。アイデンティティや存在理由は自分の内に見つけるべきものなのに、お前の中には何もない。まるで、玻璃細工の三日月のように美しいだけの虚ろな飾り物。だから、自分が生きていていい理由を、他人に過剰に求めてしまう。そんな歪んだ関係が長続きするはずがない。
結局、お前が理想としているのは、自分がいなければ生きていけない男だ。しかし、よく覚えておくといい。そんな男は妄想の中にしか存在しない
そして彼は最後にこう言った。自分たちに都合のいい言葉ばかりを求める衆愚を戒める預言者のごとく重々しく、厳かに、
―――お前は純粋に人を愛することはできない。お前の愛は壊れている
その瞬間、堆く積み上がった『愛』の残骸が僕の前に現れた。それは腐りかけの果実みたいにどろりとして、茶色く濁った液体を滴らせている。
何ということだ。この汚物こそが僕の愛の軌跡なのだ。これから誰を愛しても、どんなに深く愛しても、ここに新たな残骸を積み上げるだけなのか。
僕は、壊れた『愛』の残骸をそっと抱き締めた。そして泣いた。惜別の涙。もしかしたら僕は、この時を待っていたのかもしれない。僕のなかにある空虚が引きずり出され、白日のもとに晒される時を。
僕は汚物と成り果てた『愛』に背を向けて、厳粛な決意とともに静かに彼の元を去った。そして――――――
苦い回想は、半ば暴力的に断ち切られた。突然、僕は烈しい眩暈に襲われて、傍らのガードレールに手を突いた。そのまま、手のひらを灼く熱気に耐えながら休息していると、耳の孔に綿でも詰め込まれたみたいに車の排気音が儚く遠のいていった。
それはそれで喜ばしいことではあるが、これが貧血の前兆である以上、暢気に静寂を愉しむわけにもいくまい。自宅はまだまだ先だった。
顳かみと腋の下を、ほぼ同時に冷たい汗が滑降した。悪魔の愛撫。視界には七色の星雲。まったく、貧血では死ねないじゃないか。弱々しい悪態を吐きながら、僕は悪寒に堪えきれず膝を突いた。
とその時、火照った頸筋を清々しい風がさらりと撫でていった。僕はのろのろと頭を持ち上げた。今の涼風を顔にも受けたいと思ったから。
僕の望みは叶えられ、今度は頬を撫でられた。が、それは風ではなかった。それは皙く嫋やかな指だった。
風による愛撫と指による愛撫を混同するなどあり得るのだろうか。あり得るかどうかは知らないが、僕が取り違えたことは事実だ。しかし斯様な混乱は心身の衰弱がためではなく、かの指の非人間的特質に因る。
それは冷ややかに乾いて、滑らか且つ優雅な動きにもかかわらず、黄土色に淀んだ温気を切り裂く鋭利なナイフにも見えた。
この裂け目から、一体何が湧出するのだろうか。それは温かいのか冷たいのか、甘いのか苦いのか、腐臭を放つのか芳香を湛えているのか。
僕は思うに、おそらく―――
「さ、もう立てますね？ 木蔭で休みましょう」
“彼”の言葉から、ローズマリーの幽馥が漂った。
※実際は、1年以内に男性同士で性的関係を持った人は献血できません。念のため……
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