双逢鬼
第五話
―――これは……本当に芙蓉様なのか？
耀月は先刻からずっと、同じ自問を繰り返していた。
眼前の舞台で軽やかに舞っているのが芙蓉であるのは、疑いようがない。たとえ何十年の空白があろうとも、自分が芙蓉を見誤るはずがない。あの雪の日、狂亂の舞台を最後に離れ離れになって以来、耀月の脳裏から芙蓉の面影が消えることは一度たりともなかった。
いつか逢える、必ず逢えると自分に言い聞かせ、絶望に彩られた奈落の日々であっても、魂に刻まれた愛しい面影を追い続けることができたのだ。
しかし今、ようやく探し当てた芙蓉を前にして、耀月は答えのない問いに苦しめられている。いや、答えはすでに出ている。これは芙蓉だ、間違いない。
なのに心の奥深く、理性で制御できぬ柔らかな部分が、違う、違うとざわめいている。これは芙蓉であって芙蓉にあらず。異質の何かだと。
今宵の演目は＜桜挿頭の舞＞だった。嘗て芙蓉が襲名披露の晴れ舞台で演じた思い出深き演目。“僕、耀月のために舞うから”―――そう言って眩い笑顔を浮かべた芙蓉は、伝説の舞姫と舞台上で同化し、言葉通り耀月のために舞った。
あの舞台を観た時の震えるような感動はもちろん、芙蓉が見せた所作や眼差し、微笑のひとつひとつまで覚えている。あの時芙蓉は、芸における一つの頂点を究めたのだと耀月は今でも信じていた。
しかし今の芙蓉には、その見る影もない。所作や動きに迷いも乱れもなかったが、それが余計に演技を無味乾燥なものにしていた。
決められた動きをただなぞるだけ。まるで傀儡（くぐつ）だった。魂のない虚ろな抜け殻を誰かが操っている、そうとしか思えなかった。
その時、耀月の頭をある言葉が掠めた。
「虚ろ鬼……」
そうだ、まさにこれこそ虚ろ鬼。確か子供たちはこう言っていた。虚ろ鬼とは、心をなくしてしまった空っぽの、可哀想な鬼なのだと。
続けて耀月は子供たちが歌っていた戯れ歌を思い出し、身の毛立つような恐怖に襲われた。
虚ろ鬼 百人殺せば地獄堕ち 夜叉となりて鬼禍を招かん
「百人殺せば……」
身を切るような寒さにもかかわらず、冷たい汗が額ににじむ。耀月はたった今脳裏に浮かんでしまった恐るべき真相を払おうと、激しく首を振った。そんな馬鹿なことあるはずが―――
突然、空気の流れが変わった。耀月ははたと顔を上げ、舞台を見る。そこに芙蓉の姿はなく、がらんとした虚ろな空間に雪の結晶が儚く舞っている。どうやら今宵の演目が終わったようだ。
それでも観客らはまだ迦陵が舞っているかのように、舞台上に不動の視線を送り続けている。耀月は思わず吐き捨てた。何と薄気味悪い光景か、と。
「観客の皆様、どうぞこちらへ。間もなく宴の仕度が整います」
呼び掛けられてようやく、観客たちは舞台から目を離しのろのろと移動し始めた。呼びに来たのは屋敷の使用人だろうか、全身を衣被（きぬかずき）で覆っているため男か女かも判然としない。しかしたった一つ、確かなことがあった。
―――あれは死者だな
鬼とは違うが、同じ人外の領域に棲む者。耀月にはすぐに分かった。あのように死者を自在に操る術は、修行を積んだ験者でなければ到底無理だった。市井の術師には不可能。ということは、背後に法力を駆使する験者が存在しているということなのだろうか。
しかし芙蓉は鬼。それほど法力の強い験者が見抜けぬはずはない。ならば、芙蓉が鬼であると知りながら行動を共にしているというのか。
―――一体、この屋敷の中で何が起きているのだ……
耀月は鉛色の不安を抱えつつ、移動する観客らの殿（しんがり）についたのだった。
耀月ら観客が通されたのは、大広間だった。膳は大して豪華ではなかったが、酒はふんだんに用意されていた。
暫しの間、隣に座った者同士神妙に酌み交わしていた男たちも、酔いが回るにつれて口が滑らかになっていった。
もちろん話すことといえば、迦陵のことばかり。みな競い合うように迦陵の美しさ、嫋やかさ、舞の芸術性を讃えていたが、さらに酔うにつれて、会話が性的な色艶を帯び始めていった。
一度でいいからあの雪肌に触れてみたい、などというのはまだ可愛げのある方で、男なのか女なのかこの目でじっくり確かめてやる、だとか、俺の躰の上で舞う姿が見てみたい、など、ほとんど猥談と変わらぬ次元の言葉が飛び交うようになり、耀月は込み上げる不快感を抑えるのに難儀した。
「おお、あんた初めて見る顔だな。どうした、そんな辛気臭い面して。ほら、飲め飲め」
大きな甕を抱えた男が耀月の隣にどっかり腰を下ろし、どぷどぷと酒を注いだ。耀月は礼儀程度に口をつけて、
「私は旅の途中で迦陵様の噂を耳にしてやって来たのですが、皆さんは鬼無里村の方なのですか？」
「おお。あんたみたいな余所者もいないわけじゃねえが、ほとんどが鬼無里の人間だ」
「そうですか。噂によれば、迦陵様を崇拝する余り、この屋敷に住み着いてしまう者もいるとか」
すると別の男が割り込んできて、耀月の問いを無理やり引き取った。
「いんや、それはちっと違うなあ。この屋敷に残れるのは、迦陵様の閨務めの相手に選ばれた者だけなんだよ」
「選ばれた……者？」
「おう。そりゃあ、俺たちはみんな迦陵様の傍にずっといたいと思ってるぜ。でも、選ばれた者しか駄目なんだ。選ばれた者は迦陵様の閨に呼ばれ、それ以外は宴が終わったら鬼無里の家に帰る。そしてまたここに来て、選ばれるのを待つ。その繰り返しというわけさ」
頭のどこかで、早鐘が鳴っている。おかしい、何かがおかしいと知らせている。
「……その選ばれた人に、どなたかその後お会いになりましたか？」
努めて声の震えを抑えて、耀月は核心に迫る問いを発した。しかし男たちに問いの重大さが分かるはずもなく、相変わらず間の抜けた口調で、
「あんた、変なこと訊くなあ。ええっと……確か前回選ばれたのは修三だったなぁ。その前は辰彦か。おお、そういやあれきり姿を見かけねえなあ」
「あとは源次に友三郎、吾郎………最近会ってねえな」
「選ばれてから、ぱったり姿を見せなくなっちまった。閨務めの感想を聞こうと思ってたのによぉ」
「迦陵様のお相手で忙しいんじゃねえのかぁ？」
いつの間にか酒を片手に集まってきた男たちが、口々に話し始めた。その口調には、何の疑念も切迫感もない。しかし聞いていた耀月は、背中がざあっと音をたてて粟立つのを感じた。
「誰も……お会いになっていないのですね？」
耀月の念押しに、男たちは無邪気に頷いて、
「会ってねえなあ。そういや今夜は誰が選ばれるんだあ？ 大抵宴の最中にいつの間にか選ばれてるんだよな」
そう言ってぐるりと辺りを見回した。耀月も慌てて広間に視線を巡らせる。そして次の瞬間、膳をひっくり返す勢いで立ち上がった。
「いない……どこにもいないっ………」
会話に気を取られる余り、つい目を離してしまった。そして今、ようやく気付いた。惣太がどこにもいないのだ。
一緒に広間へ入ってきたことは確認している。比較的落ち着いた様子で酒に口を付けるのも見ている。しかし今、その姿は忽然と消えてしまっていた。このことが何を意味するのか、もはや考えるまでもない。
「しまった、迂闊だった………」
きょとんと見上げる男たちを掻き分けて広間を飛び出し、渡り廊下に出る。広い屋敷ではあるが、構造自体は大して複雑ではなかった。
大広間に面して中庭が広がっており、東、西、北に配された対屋（たいのや）が渡り廊下で繋がっている。そのいずれかに寝所があるはずだ。
耀月はひとつずつ確認するため、雪の吹き込む廊下を疾駆した。そして最初の西の対屋に辿り着いた時だった。ちょうど反対側から凄まじい鬼気の迸りを感じた。
耀月は迷う間もなく身を翻し、欄干に手を付いてひらりと庭に下りた。そして庭を突っ切って、真直ぐ東の対屋へ。息を切らせて室内に飛び込んだが、誰もいない。
その時、奥の間から恐怖で引き攣った悲鳴が響いた。すぐさま奥に進んで仕切り襖を開けると、白い几帳がふわりふわりと揺れていた。その向こうに見えた光景に、耀月の躰は凍り付く。
「たっ、助けてくれぇっ………ひぃぃぃぃぃぃ……っ………」
布団の上に尻をついて座り込み、悲鳴混じりの命乞いをする惣太。その眼前に立つのは、初夜を思わせる白無垢の寝着をまとった―――鬼。
「ちが…う………」
生臭い闇を孕んだ声で呟くと、床にまで届く黒髪がざわり、ざわり、と蠢く。
「おまえは……ちがう………」
尚も呟きながら、鬼はゆっくりと右手を上げた。着物の袖がずり下がり、節々が醜く膨れ上がった手が露わになる。長く鋭い鉤爪が燈台の火影を反射して、ぬるりと赤く光った。まるで血の化粧を予告するかのように。
「おまえ…はっ―――」
恐怖の余り口から泡を吹く惣太の頭上へ、鋼色の鉤爪が今まさに振り下ろされんとしたその瞬間。耀月が放った一言が鬼の動きを止めた。
「いけません、芙蓉様」
憐れな鬼は背中を向けたまま硬直する。振り上げた手にはまだ殺気が漲っていたが、耀月は臆することなく一歩、二歩と近づき、
「あなたが殺すべき者は、彼ではありません」
「ぅ……ぅぅ………」
「お忘れですか？ あなたの名は芙蓉。そしてあなたが殺したい相手は―――」
鬼の躰が激しく震え出した。虚ろ鬼と化していた芙蓉という器の中で、人としての記憶や感情が急激に蘇り始めているのだろう。脆い器ならば砕けてしまうかもしれない。しかし耀月は言葉を続けた。
「―――あなたを愛し、あなたを裏切ったこの耀月一人のはずです」
「よ……う……げ……………つ…………」
「思い出すのです。自分が何者であるのか。まだ人であった頃、誰を愛し誰に愛されていたのか。あなたは決して“虚ろ”ではない。孤独ではない」
こんなこと言えた義理ではないとは分かっている。芙蓉をここまで追い詰めたのは自分なのだ。
しかし空っぽの心に憎悪と怨嗟ばかり滾らせて、誰彼構わず襲い掛かる芙蓉は余りに憐れ。耀月には、他に捧げるべき言葉が見つからなかったのだ。
「芙蓉様、目の前にいるのは何の関係もない男です。どうかその手を下ろしてください。そして……こちらを見てください」
耀月の諭しは雪のごとくしんしんと、芙蓉の心に積もっていった。芙蓉は言われた通り手を下ろし、おそるおそる振り向こうとした。
その時、部屋の隅にある大きな姿見に、世にも醜い化け物が映し出されているのを見た。化け物は捻れた二本の角を持ち、耳まで裂けた口からは鋭い犬歯を覗かせ、血管の浮いた眼球をギロリと剥いてこちらを睨んでいる。
しかも滑稽なことに、その化け物は白無垢の着物を着て―――
「ぃ、ぃ、ゃ……ぁ、ぁぁぁぁぁ…………」
芙蓉は姿見から目を離し、自分の両手を見た。錆びた鉄の色をした皮膚、ごつごつ飛び出した節、鋭く伸びた鉤爪を。
「芙蓉様っ」
芙蓉の恐慌を察した耀月は、名前を呼びながら駆け寄ろうとした。しかしそれが裏目に出てしまったのか、芙蓉は絹を裂くような悲鳴を上げて顔を覆い、その場から逃げ出した。
「迦陵っ？ どうした、何があった？！」
脇の襖が開いて、坊主頭の男が現れた。室内を一瞥すると表情を険しく尖らせ耀月を睨んだが、すぐに為すべきことに優先順位を付けた。
「迦陵、待ちなさい！」
男は耀月には構わず、芙蓉の後を追った。耀月も追おうとしたが、腰を抜かして泡を吹いている惣太を放っておくわけにはいかないと思い直した。鈴音との約束がある。ともかく彼を村まで帰さなくては。
「惣太さん、立てますか？」
惚けた表情で首を振る惣太の腕を掴んでぐいと引っ張り上げ、
「立てるじゃありませんか。さ、早くここを出ましょう。でないとまた、鬼が戻ってくるかもしれませんよ」
耀月の言葉は予想以上の効果をもたらした。惣太は喉の奥で悲鳴を転がすと、足をもつれさせつつ部屋を飛び出したのだった。
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