双逢鬼
第十一話
芙蓉様……芙蓉様………
んっ、ぇ、ぇぇっ………
芙蓉様……泣いておられるのですか？
耀月……耀月ぅ………
大丈夫、耀月はここにおります。芙蓉様のお傍におります。ですから泣かないで。涙を拭いて。もう一度、あの笑顔をお見せください。蜜花が綻ぶような、愛らしく艶めいた天上の微笑みを―――
「―――芙蓉……様………」
ひんやりとした感触に覚醒を促され、耀月はゆるりと目を開けた。すると視界いっぱいに、泣き腫らした目をこする芙蓉の顔が。
愛しさと切なさに駆り立てられ、思わず手を伸ばす。それに気付いた芙蓉はこする手をぴたりと止め、大きく目を見開いた。が、すぐに顔をくしゃりと歪め、両手を広げて耀月の首にかじりついた。
「耀月っ……耀月ぅ………」
「はいはい、ここにおりますよ。芙蓉様……」
耀月は背中をあやすようにぽんぽんと叩いて、柔らかな声で宥めた。如月の屋敷で一緒に暮らしていた頃、片時も離れることがなかったあの頃、独りぼっちで置き去りにされる怖い夢を見たと言って泣きじゃくる芙蓉を慰めた時のように。
しかしすぐさま背中を撫でる手を止め、眉根を寄せて、
「芙蓉様、お躰が辛いのではありませんか？ 余り無理をなさっては……」
芙蓉は抱き着いたままぷるぷると首を振って、
「へいき……躰の傷はほとんど消えかかってるよ。それより心配なのは……」
抱き締められている安心感から次第に落ち着きを取り戻した芙蓉は、苦しげに肩を上下させつつも、ゆっくりと顔を上げた。そして耀月の瞳を覗き込み、
「も……だいじょうぶ？ 痛くない？ 苦しくない？」
そう訊ねる芙蓉の方が、痛みや苦しみに耐えているような表情をしていた。耀月は、記憶の中にある芙蓉の輪郭より微かにやつれた頬をさらりと撫で、
「大丈夫、これは怪我ではありません。ですからそんなに心配なさらないでください」
すると芙蓉はキッと眦を決し、涙の奥から強い眼差しを向けて言い返した。
「し、心配するなってそんなの無理に決まってるじゃないか！ あんなにいっぱい血を流して……。しかも僕を抱いてこの屋敷まで運ぶと同時に、気を失って倒れたんだよ。も、もし……このまま目を開けなかったらどうしようって………」
その時初めて、耀月は自分の額に濡れた手拭いが乗っていることに気付いた。芙蓉の手を掴んでそっと引き寄せ、
「申し訳ありませんでした。たくさん不安がらせてしまったようですね。しかも手をこんなに冷たくして、額を冷やしてくださったのですね」
そう言って指先に息を吹きかけ、優しくこすって温める。芙蓉は鼻をくしゅくしゅいわせながら頷き、
「おでこが……熱かったから……。それに、他になんにもしてあげられることがなかったから………」
芙蓉の一途な想いを知った耀月は、堪らず掴んでいた手を乱暴に引いた。そして芙蓉の躰を腕の中に抱き留める。
「ありがとうございます……私にはもったいないほどのお気持ちです」
「耀月……」
「覚えておられますか？ 昔、私が風邪をひいた時も、芙蓉様はこうして額を冷やしてくださいました。あの優しさがどれほど嬉しかったか……ああ、できることなら……」
あの頃に戻れたら―――続く言葉を、耀月は必死に呑み込んだ。それは芙蓉にとっても自分にとっても、余りに酷な言葉だった。
しかし芙蓉は、耀月の言わんとすることを察した。耀月の胸に顔をうずめたまま、眉間に淡い皺を刻み、
「あの頃は……幸せだったね。あの幸せがずっと続くと思ってた……」
耀月の躰が微かに強張るのが感じられた。それでも芙蓉は言葉を続けた。
「僕が子供だったんだ。永遠に続く幸せなんて、永遠に色褪せぬ愛なんてあるはずないのに、耀月の心変わりという現実を受け入れられず、闇に逃げてしまった。そして、僕は鬼になった……」
芙蓉はいったん口を閉じ、顔を上げて耀月を見詰めた。
「それは、弱さを抱えた僕のような人間には当然の報いだった。でも、耀月は違う。僕はまだ信じられないんだ。耀月が鬼道に堕ちるなんて……」
芙蓉の疑問に、耀月は曖昧な笑みを返して答えた。
「先程ご覧になったでしょう？ 私は鬼です。それ以外にお返しする言葉はありません」
「でもっ―――」
納得しきれぬ芙蓉がさらに追及しようと声を上げると同時に、背後から突然答えがもたらされた。
「彼は羅生鬼だ」
芙蓉は弾かれたように躰を起こし、振り向いて声の主を見詰める。
「羅生…鬼？」
「左様。鬼縁を持たぬ唯一の鬼だ」
耀月はすっと目を細め、冴えた視線で劉幻を射抜いた。冷ややかな双眸は、余計なことは言うなと強く訴えていた。しかし劉幻は首を振り、
「耀月、おぬしが負の感情に引きずられて鬼道に堕ちるような男でないことは、この芙蓉が誰よりもよく知っているのではないか？ 虚言を押し通すのは難しかろう。重く残酷な真実であっても、おぬしら二人でならば受け止められるはず。隠さず正直に話すのが最善だと思うが」
耀月が答えるより早く芙蓉は向き直り、真実を求める重く切実な眼差しとともに訴えた。
「隠さないで、お願い。他ならぬ耀月のことなのに、この人が知っていて僕が知らないなんてそんなの嫌。僕を傷付けたくないとか、衝撃を与えたくないとか、そういう優しさは要らない。だから……」
芙蓉はそれ以上何も言わず、口をきつく結んだまま耀月を一心に見詰めた。不穏な緊張を孕んだ沈黙がゆっくりと室内を満たし、飽和状態を迎えようとした時、耀月がぽつりと答えた。
「はい、私は……羅生鬼です」
その言葉の重みは、羅生鬼というものの因縁を知らぬ者には通じない。芙蓉は勢い込んで「羅生鬼って何なの？」と訊ねる。邪気がないまま投げかけられた残酷な問いに耀月は思わず顔をしかめ、返す言葉を失った。
「鬼縁持たぬ者、己が身を四十八箇所裂きて生き血を吹き、腸（はらわた）を掻きて絶え果つれば、幽世（かくりよ）より戻りて鬼生を得ん。これ即ち羅生鬼なり―――」
耀月の心情を察した劉幻が、代わりに淡々と説明した。芙蓉はぽかんと口を開けて劉幻を見上げる。が、みるみるうちにその顔は青ざめ、強張っていった。口許が不自然に引き攣った泣き笑いの表情で、
「それってつまり……自分で自分の躰をっ………」
「左様。これが自らの意志で鬼になる唯一の方法なのだ。それをこの耀月は成就させ、そして鬼生を得た」
芙蓉はぎくしゃくしたぎこちない動きで首を振った。何を否定したいのか、何を拒絶したいのか分からぬまま。そして小刻みに震える手を耀月の胸元に伸ばし、着物の衿を掴んでそっと広げた。次の瞬間―――
「いっ……いやぁぁぁぁっ…………」
耀月の躰。雄々しい筋肉の鎧は、上質の絹のようにすべらかな肌で覆われているはずだった。しかし今、芙蓉の眼前に晒された上躯に、嘗てのしなやかさを偲ばせる部分は僅かしか残っていなかった。
ある部分は凹み、ある部分は盛り上がり、傷痕と傷痕が寄り合って皮膚は引き攣れ、どこにどのような傷があったのか判別するのも困難なほど。直視に堪えぬ惨状に、芙蓉はガチガチと歯を鳴らし喉の奥で潰れた悲鳴を上げるばかりだった。
そんな恐慌状態の芙蓉を耀月は痛ましげに見詰め、着物の衿をそっと直して傷を隠した。すると芙蓉は悲鳴の延長のような掠れ声で、
「ど……して……どうしてそんなことをっ………」
耀月は瞳に淡い憂色を浮かべながらも、微かに微笑んで迷いのない口調で答えた。
「もう一度、芙蓉様にお逢いするためです。何年、何十年かかっても構わない。しかしそれには、この躰を不老不死の鬼にする必要があった」
「ただ……それだけのために……？」
「それだけではありません。芙蓉様にお逢いして、そして伝えねばならぬことがあったのです。とても、とても大事なことです」
耀月はそう言って笑みを深め、
「愛しております」
「うそ……」
「あなただけを」
「嘘だ……」
「今も昔も、塵となって地獄に還っても」
「嘘だ！」
芙蓉は叫ぶと同時に後方へ飛び退いて、激しく首を振る。が、何か思い付いたのかくしゃりと顔を歪めて、
「分かった、耀月が僕を捜したのは、復讐するためなんだ」
思いもよらぬ言葉に、耀月は眉根を寄せて問うた。
「復讐、とは？」
「僕は耀月の大事な許嫁を殺した。しかも耀月の目の前で。だ、だから……彼女の仇を討つために―――」
耀月は最後まで言わせなかった。力任せに腕を引き寄せてきつく抱き締め、芙蓉の舌を痛め付ける刃の如き言葉を封じ込める。
「芙蓉様、聞いてください。全ての罪はこの耀月にあるのです―――」
続けて耀月は、あの運命の日が訪れるまでに如月家に何が起きていたのかを、全ての策謀、裏取引、思惑を暴露した。そしてそういった黒いうねりに自分が抗うことができず巻き込まれてゆくさまも、包み隠さず打ち明けた。
「お祖父様は、鬼神楽の主座は絶対に不動家には渡せないと考えておられました。そのためには、芙蓉様が完璧な、否、完璧を超えた＜雪華狂亂の舞＞を見せる必要がある。嫉妬に狂い般若と化した伝説の白拍子と、舞台上で同化する必要がある……」
「だ…だからお祖父様は……耀月に心変わりをした振りをさせて……僕に白拍子と同じ嫉妬の情を……」
「左様でございます。私は……毅然と拒絶するべきだった。何を言われようとも、どんな脅しをかけられようとも芙蓉様の才質を信じて、それまで同様愛情をもって支え続けるべきだった。しかしっ―――」
昔語りに刺激されて、記憶の襞の奥深くに押し込んでいた断片が少しずつ浮上してきた。心変わりを演じている最中、思い詰めたような表情で幾度となく見詰めてきた芙蓉。
どうして？ どうしてなの？ 耀月。以前のように笑顔を見せて、優しく抱き締めて―――悲嘆に曇った瞳に、切実な訴えを宿して。
さらに、主座を決する審判を控え、たった一人でその重圧に耐え忍んでいた華奢な背中も思い出される。鬼の如月、その重すぎる因縁を背負った背中は余りに儚く、耀月は何度駆け寄って抱き締めようとしたか分からない。
次々と浮かび上がる記憶の欠片は、耀月の心に容赦なく突き刺さって生々しい痛みをもたらした。
「しかし私はあなたを裏切った。審判の日、私が彼女と祝言を挙げると聞かされたあなたは、その衝撃を引きずったまま舞台に立つことを余儀なくされた。たった独りで、雪の舞う冷たい舞台に」
青ざめた頬に落ち窪んだ目、奈落へ繋がる洞（うろ）の如き黒瞳。思わず顔を背けたくなるような痛ましさを晒しつつ、舞台上で伝説の白拍子を舞う芙蓉。
凄絶な孤独と嫉妬に食い荒らされた心は静かに、しかし確実に狂い始め、やがて―――
「その結果……あなたの魂は鬼縁に捕えられてしまった。あなたは鬼となり、そして彼女を……」
これ以上、血臭の濃い言葉を芙蓉に浴びせたくはなかった。耀月はいったん言葉を収めると、再び口を開き、
「そう、全ての罪は私にある。芙蓉様を鬼にしたのも、彼女に死を招いたのも、そして私自身が鬼になったのも、何もかも私の裏切りが招いた結果、当然の報いなのです」
僅かな揺らぎもない、威厳すら感じられる口調で己を断罪する。そんな耀月とは対照的に、芙蓉は狂気と紙一重の不穏な輝きを双眸に宿し、ふわふわと覚束ない仕草で首を振り、
「信じていれば……よかったんだ………」
「芙蓉様……」
「何があっても、誰に何を言われても耀月を、耀月の愛をただ信じてさえいればよかったんだ！」
明らかになった真実は、芙蓉の心神を苛む新たな刃となって襲い掛かったのだった。
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