雪華鬼―耀月縁起―
第九話
芙蓉が屋敷に戻ってきたのは夜も更けた頃だった。背中にのしかかる疲労感で、躰が酷く重い。耀月が傍にいないということが、これほど心身に影響を及ぼすのかと今さらながら思い知った。
屋敷で臥せっている耀月を想うことで、何とか独りぼっちの重圧に耐え、毅然と舞うことができた。
しかし張り詰めた神経は限界に近かった。芙蓉は重い躰を引き摺りつつ、耀月の寝ている部屋へ真直ぐ向かった。
襖を開けて中に入ると、荒く湿った息遣いが聞こえた。芙蓉は慌てて耀月の傍へ。見れば耀月は赤い顔をして、苦しそうに肩で息をしていた。指先でそっと触れた額は、灼けるように熱い。
「どうしよう……えと、えと………」
芙蓉は必死に頭を巡らせ、自分が熱を出した時に耀月がしてくれたことを思い出した。そしてまず桶に水を汲み、外から綺麗な雪をすくって中に入れる。そうしてできた冷水に手ぬぐいを浸し、固く絞って額に乗せてやる。
あっという間に温まった手ぬぐいを再度水に浸して絞り、額へ。それを繰り返すうちに芙蓉の手は凍え、指先の感覚が失われてゆく。それでも芙蓉は温めようとはせず、耀月の額を冷やすことに心を砕いた。
するとかさかさに乾いた唇を震わせ、耀月は低い呻きを漏らした。
「芙蓉……さま………」
ゆるりと目を開けた耀月は淡く微笑んだが、芙蓉の瞳を涙の菲膜が覆い始めると、不安げに眉根を寄せた。
「泣いて……いらっしゃるのですか？ 芙蓉様―――」
「ぼく……びっくりして………耀月がすごく苦しそうだったからっ―――」
ようやく額に冷たい布が乗っていることに気付いた耀月は、努めていつも通りの声で「大丈夫でございますよ」と宥めた。そして手を伸ばし、潤んだ目の縁を優しく撫でてやる。
その指先の優しさ、温かさに芙蓉の神経は一気に緩み、ずっと堪えていたものが堰を切って溢れ出した。
「ぼくっ……ひとりでがんばったけど、でもやっぱり………不安で、さびしくてっ……」
「芙蓉様……」
「いつもいる場所に耀月がいない、ただそれだけなのに、まるで見知らぬ異国の舞台に置き去りにされたみたいで………」
手の甲を目に当ててふにふに泣きじゃくる芙蓉は、いつもの淋しがりやの少年だった。
「私がいなくて……淋しかった？」
鼻をすすりながらうんうんと頷く芙蓉を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなってくる。耀月はほぅっと息を吐き、隠しておいた灰色の感情を正直に打ち明けた。
「私も淋しかったです。こうして一人で寝ていると、もう自分は必要ない人間なのだと思えてきて………」
「何言ってるの、耀月―――」
「私がいなくても、あなたは一人でちゃんと務めを果たすことができる。それは喜ばしいことのはずなのに、私は言い様のない淋しさに囚われてしまいました。情けない話ですね。あなたを子供扱いすることで、自分はまだまだ必要とされていると思い込みたかったのでしょう」
芙蓉の双眸に、再び熱い涙が溢れ出した。何と答えてよいか分からぬまま、ただ闇雲に首を振る。
自分にとってどれだけ耀月が大切な存在であるか、耀月を必要としているか伝えたいのに、言葉が出てこない。いや、どの言葉も口にした途端陳腐なものに聞こえてしまうと分かっていた。
だからひたすら首を振り続けた。耀月の悲しい思い込みを否定したくて。そんな芙蓉の想いが伝わったのか、耀月は目を細めて、
「芙蓉様、耀月はあなたが思っているほど大人ではありません。でも……まだ必要としてくださいますか？」
「うん、耀月……ずっと、ずっとそばにいて………」
「はい、ずっと傍におります。何があっても」
耀月は芙蓉の手をぎゅっと握った。が、その余りの冷たさに驚いて息を呑む。しかし手が冷たいのは当然だった。耀月の額を冷やすため、ずっと冷水を使っていたのだから。
「芙蓉様、そちらの手もお貸しください」
耀月は芙蓉の両手を包み込んで自らの体温を与え、さらに息を吹きかけて温めてやる。
「いけません、こんな無茶をなさっては。大事なお躰なのですから」
「……耀月の躰だって大事だもん」
拗ねた口調で返しつつ、耀月が与えてくれる温もりに沈み込む。それは雪融け水の冷たさに比べればささやかなものだったが、身も心も蕩けんばかりに心地よく、芙蓉はうっとりと目を閉じた。すると指先に、柔らかな感触が。
「耀月ぅ……」
目を開けて見れば、耀月が唇をふわふわと押し当てていた。少しかさついた唇がくすぐったくて、「やん…」と囁くように抗議して腰をよじる。しかし耀月はやめるどころか、指を唇で挟み込んで優しく食む。
「耀月、だめ……」
自分でも、声の質感に変化が生じたことが分かる。芙蓉は羞恥に頬を染め、そっと手を引いた。耀月の甘い拘束から逃れた指先は、秘めやかな快楽の余韻に悶えていた。
「もぅ、耀月ってば……」
躰の芯に灯った疼きを誤魔化すため、怒った顔を拵えて少し強い口調で窘める。そして布団を掛け直そうと耀月の上に身を乗り出すと、熱を帯びた双眸に射竦められた。
「ああ……」
意識せず熱い溜め息が漏れる。熱を帯びた瞳は不穏な輝きを湛え、汗ばんだ肌には乱れた髪が張り付いてうねっている。呼吸は野卑な獣の如く荒く、熱い。
その名の通り、夜空に冴え冴えと結晶せる皓月を想わせるような普段の耀月にはない生々しい熱に当てられて、芙蓉の躰もじんわり熱くなってきた。こくんと小さく喉を鳴らして熱の塊を嚥下し、
「ね、耀月………風邪が治ったら、また……あの………」
耀月は口許を緩め、「治ったら…何ですか？」とねっとり囁く。その声にすら欲情してしまう浅ましい己れを痛いほど意識しつつ、芙蓉ははっきり口にした。
「治ったら、またいっぱい愛してくれる？」
そして潤んだ瞳でじっと見下ろす。耀月は思わず天を仰いだ。そして力ない声で、
「芙蓉様……余計に熱が上がってしまいました」
「え？ どして……？」
耀月はそれには答えず、「一刻も早く治しますよ」と言って微笑んだのだった。
耀月はそれから二日ほど臥せっていたが、芙蓉の献身的な看病の甲斐あってかすっかり快癒した。
床から起き上がった耀月は身仕度を整え、真直ぐ春苑のもとへ向かった。家に背いたことについて改めて詫び、そして芙蓉の懇願があったとはいえ、自分がここに留まることを許してくれた礼を伝えるためだ。
深々と頭を下げて平伏する耀月に春苑は恬淡たる眼差しを向け、「儂が許したわけではない」と素っ気なく言い置いた。もう、如月家の当主は芙蓉なのだから、と。
もちろん襲名披露も済んでいないのだから、まだ現当主は春苑である。しかし耀月はこの言葉を自分への許しと捉え、「ご恩は一生忘れません」と震える声で告げた。
「今後も、如月家のために滅私奉公を貫く所存でございます」
「………その言葉、承っておこう」
耀月は澄み渡った双眸を向け一礼すると、春苑の御前を辞した。
「鬼になるも華になるもお前次第だ………」
春苑は含蓄ある言葉を呟き、静かに目を閉じた。
「耀月ぅ………あの、一緒にお風呂入ろ？」
部屋の間仕切りとなっている襖が音もなく開き、隙間から芙蓉が顔を覗かせた。そして頬を染め、もじもじしつつ誘いをかける。耀月はふわりと頷き、
「かしこまりました。今、仕度をして参ります」
「仕度はいいから。ねえ、早くぅ」
「いけません。湯冷めをしないようにちゃんと着物を用意してからでないと―――」
芙蓉はぷくっと膨れて「もぉっ」と小さな癇癪を起こし、その勢いで耀月に抱きついた。
「湯冷めなんかしないもん。冷める前に、耀月が熱くしてくれるんでしょ？」
「な、何を言って―――」
慌てふためく耀月を艶めく黒瞳でじっと見上げ、「熱くしてくれるんでしょう？」と繰り返す。
ふざけるんじゃありません、と諌めてめっと叱る―――つもりだったのが、気が付けば芙蓉の躰を抱き上げて湯殿へ向かっていた。そしていつものように湯の温度を確認するのも忘れ、着物の帯をほどく。
しゅるしゅるという衣擦れの囁きすら淫靡な響きを帯びて、鼓膜を高ぶらせた。
「耀月も脱いで……ね？」
芙蓉の誘いに頷きを返す間もなく、自身も素早く裸になる。そして皙い裸身を晒す芙蓉を抱き上げ、湯気がたちこめる浴室へ。とろみを帯びた湯に芙蓉を抱いたまま浸かる。
「湯加減を確認するのを失念しておりました……申し訳ありません。熱くありませんか？」
声を落として詫びる耀月にぴったり躰を寄せ、「もっと熱くして」とおねだり。それを叶えるため湯の温度を熱くしようとするほど、耀月は無粋な男ではなかった。
すかさず芙蓉の柳腰をぐいと抱き寄せ、湯よりも熱い己れの股間と密着させる。その感触に芙蓉が「ぁぁ…」と小さく喘いだ瞬間、三分咲きに綻んだ唇は荒々しい口付けに散らされた。
濡れた唇の感触に酔う間もなく、熱い舌が侵入し口内を這いずり回る。芙蓉は肩にぎゅっとしがみ付き、時折腰を揺らしては、喉の奥まで犯される悦びにのめり込んだ。
「あ……ふ…ぅ……ン……よ…げつぅ………」
唇が離れ、舌の抱擁が解かれても、唾液の糸はしっかり繋がっていた。耀月は再び唇を合わせてそれを吸い取り、芙蓉に微笑みかけた。が、芙蓉の瞳が涙に潤むのを見て慌てて、
「芙蓉様、どうされましたか？ ご気分が―――」
「うれしいの。こうして耀月と二人、お風呂に入れるなんて夢みたい」
「芙蓉様……」
「僕が何度頼んでも、頑なに拒絶するばかりで……。しかも、主人と一緒の湯に浸かることはできないだなんて。言われた時はほんとに悲しかった……」
赤く潤んだ目の縁から、涙の珠がひとつ、ふたつと滑り落ちる。耀月は唇を押し当て、美しい嘆きの結晶を受け止めた。そのほろ苦さを味わいつつ、
「申し訳ありません……。しかし、私も辛かったのです。もしお誘いを受けていたら私はきっと………きっとあなたを………」
ためらいがちに口ごもった挙句、耀月は本音を漏らした。
「あなたを無理やり組み敷いて、犯していたでしょう。私の理性はもはや、風前の灯火だったのでございます」
「がまん……してたの？」
「はい。なのにあなたは容赦なく私を追い詰める。妖しいばかりの美しさと無邪気な愛らしさを振りまき、必死に押し殺してきた雄の本能を掻き立てるのですから、全く以って堪りません」
心無しか弱々しい声で訴える耀月に、芙蓉はぷちゅ、と唇を押し付けた。
「今なら分かるよ。耀月はそれだけ僕のことを大事に思っていてくれたんだね」
「それに……私は恐かった。お傍にいてあなたを守るという立場を失うのが」
耀月の声には、まだ微かな苦悩がにじんでいた。それを払ってあげたくて、芙蓉は力の限り抱き締めた。
「ずっと、ずっと傍にいてね……」
耀月はさらに強い力で抱き返し、「ずっとお傍におります」と震える声で捧げたのだった。
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