雪華鬼―耀月縁起―
第四話
「今日の稽古はここまで。すぐ風呂に浸かって躰を清め、外出の仕度をしなさい」
祖父の言葉に頷きを返し、舞台の袖で待っている耀月のもとへ。襲名披露が近付いているからか、こうして稽古を早めに切り上げて縁者や贔屓筋へ挨拶に回ることも多かった。
「またご挨拶かあ。いやだなぁ。お稽古してる方がずっと楽しい……」
耀月に躰を磨いてもらいながら、ぽつりと本音を呟く芙蓉。対して耀月は珠の汗を浮かせて奉仕に精を出しつつ、
「あんなにお稽古を嫌がっていた芙蓉様の口から、そんな言葉が出るとは……。成長されましたね」
「もぉ。からかわないでっ」
耀月は忙しく動かしていた手をぴたりと止めて顔を覗き込み、
「からかってなどいませんよ。本気で感心しているのです。芸に対する芙蓉様の真摯な姿勢には、心打たれるものがございます。確かに挨拶回りなどの雑事はご面倒でしょうが、襲名するまでの辛抱です。一緒に乗り越えましょう」
「うん……耀月がいてくれるから………がんばるよ」
照れ臭そうに俯きつつも、健気な誓いを立てる芙蓉。耀月は抱き締めたい衝動を抑えて、奉仕に専念したのだった。
「では、行って参ります」
「うむ、頼んだぞ。……耀月、呉々も先方に粗相のないように」
春苑が耀月に改めてこんな注意をするのは珍しいことだった。耀月は不審を覚えながらも「留意いたします」と素直に受け入れた。
これから向かおうとしているのは瑞花国の領主、和泉守（いずみのかみ）の屋敷。さらに和泉守は、鬼神楽の主座を審査、選定する神楽長（かぐらおさ）の一人でもあった。
つまり、芙蓉の舞と不動流家元の舞を見較べてどちらが主座に相応しいかを決めるという、芙蓉や如月家にとって重要な人物ということになる。春苑が神経質になるのも、理解できなくもなかった。
耀月は黙って一礼すると、芙蓉の待つ手車へ急いだ。春苑はその後ろ姿を見送る。
「雪……か。今宵の雪は一層冷たかろう………」
そして雪の舞い始めた灰色の空を見上げると、内心の懊悩が垣間見える力ない声で呟いて、屋敷の中へ戻っていった。
その背中はいつもより小さく、縮んで見えた。
―――趣味の悪い屋敷だな
耀月は口に出さず呟き、前を歩く芙蓉に視線を戻した。渡廊下から見える金色の塔はけばけばしく、悪夢めいた威容を放っていた。
こんな塔を好んで建立する俗人に、芸事の優劣など判定できるのだろうかと疑念すら浮かんでくる。
しかし、それも仕方なきこと。芸能も権力者の庇護を必要とする時代である。それに、優劣など分からないからこそ、こうして手土産を持参して挨拶せねばならないのだ。
芙蓉と耀月は控えの間らしき小さな部屋に通され、そこで少し待つように言われた。芙蓉ははあ、と明らさまに溜息をつき、小さな声で、
「成り金の道楽趣味だね。見た？ あの金色の塔」
「そんなことを言ってはなりません。趣味は人それぞれ。まあ、確かに悪い夢を見そうではありますが」
そう返して、いたずらっぽく笑う耀月。芙蓉もくすくすと笑い、
「そんなこと言って。お祖父様に言い付けてやるんだから」
「如月様も恐らく、同じ意見だと思いますよ」
そんな取り留めもない言葉をこそこそ交わしながら、呼ばれるのを待っていた。やがて正面の襖が開き、
「お待たせいたしました。さあ、こちらへどうぞ」
芙蓉は頷いて立ち上がり、耀月の方を振り向いて「行ってきます」と声を掛けた。耀月は微笑みを返して「こちらでお待ちしております」と答えた。
そして芙蓉が案内人と共に奥の間へ消えても、足を崩さずじっと待ち続けた。しかし、
「手車の用意ができております。従者の方はどうぞこちらへ」
女中が呼びに来て、帰るように促した。耀月は首を振り、
「いえ、私は芙蓉様のお戻りをここで待っておりますので」
「芙蓉様は、本日はお戻りにはなりません」
意外な言葉に、耀月は驚きを隠せなかった。眉間に微かな皺を刻み、
「そのようなことは聞いておりませんが」
「いえ、事前に如月様へお伝えしてあるはずです」
春苑は知っているということだろうか。ならば、何故自分には伝えてくれなかったのか。何より、芙蓉が知らないというのもおかしい。
「明日には責任もってお屋敷までお送りいたしますので、本日はお引き取りください」
女中は心なしか強い口調でそう言って、廊下に続く襖を大きく開けた。ここまでされては、これ以上居座るわけにもいかない。耀月は渋々立ち上がると、後ろ髪引かれる思いで部屋を後にしたのだった。
屋敷に戻ると、耀月は外套を脱ぐ間もなくすぐに春苑を探した。どうしても不審感が拭えなかったからだ。いくら国の領主だとはいえ、大事な芙蓉をひと晩預けるなどこれまでになかった。
しかし何故か今日に限って春苑は姿を見せようとはせず、まるで耀月を避けるかのように忙しいの一点張りだった。
途方に暮れた耀月は、胸の奥で嫌な虫が騒ぐのを抑え切れず、身の置きどころがないとばかりに屋敷の中をふらふら彷徨った。
すると、廊下で女中にばたりと出遭った。彼女は如月家に古くから奉公している女性で、耀月が来るまでは幼い芙蓉の母代わりとなって面倒を見ていた。芙蓉にとっても、耀月を除けば一番信頼している人間だった。
「あっ………」
しかし耀月の顔を見た彼女は何故かさあっと蒼褪め、咄嗟に顔を背けた。そして軽く一礼すると、耀月の傍らを逃げるように通り抜けようとする。耀月は頭で判断するより早くその腕を掴み、「待ってください」と声を掛けた。
「な、なんでございましょう」
女中は、明らかに怯えていた。耀月は確信した。何か、自分の知らない事情が隠されているに違いないと。
「先程、和泉守のお屋敷に芙蓉様をお連れいたしました。しかし、先方から今夜は屋敷に戻らないと言われ帰されてしまったのです」
「左様でございますか……。きっと歓迎の宴などが催されるのでございましょう。如月家の次期当主として―――」
「私は知らなかった。そして、芙蓉様ご本人もご存知なかった。手土産を渡して、ちょっとご挨拶をする程度だと思っていました。こんなことがありますか？」
耀月の畳み掛けるような問いに、女中は返す言葉もなく項垂れるばかり。耀月は、肩を揺さぶって激しく詰問したい欲求を何とか抑え、努めて穏やかな声で、
「教えてください。決して貴女にご迷惑はお掛けしません」
「知ってどうなさるのですか？ あなたにはどうすることもできないのですよ。知れば辛くなるだけです」
ああやはり。何か芙蓉の身に良くないことが起きようとしているのだ。耀月は両の拳を握り締め、
「承知しております。でも私は知りたい。芙蓉様のことならどんな苦しみも、この身に引き受ける覚悟はできておりますゆえ」
気丈な言葉を返した女中だったが、やはり相当無理をしていたようだ。耀月の説得にかくんと肩を落とし、
「………初夜権の献上でございます」
「なん……だと………」
「芙蓉様は今宵、和泉守により破蕾を―――」
「莫迦な！ そんな、そんなことを…………っ、まさか、如月様が………」
耳の奥がガンガン鳴っている。驚愕と忿怒により勢いを増した血流が、鼓膜を激しく叩いているのだ。
「和泉守は芙蓉様のお美しさを目に留め、内々にではございますが初夜権の献上を打診してきたとか。それと引き替えに、鬼神楽の主座を決める際には必ず如月家を推挙するからと」
女中の説明は、耀月の沸騰する感情にさらに油を注ぐものでしかなかった。耀月は攻撃性を帯びた重い沈黙を抱えたままくるりと背を向け、険しい歩みでその場を去る。女中はその後を慌てて追い駆け、
「どこへ行くのです！」
「貴女には関係ない」
耀月は冷たく跳ね返すと、外に出た。女中も続いて飛び下り、
「無茶な真似はおやめなさい！ 言ったはずです。あなたにはどうすることもできないと」
「こんなことは間違っていると思わないのですかっ？ 芸事で勝負すべきではないですか。芙蓉様ならきっと―――」
「＜鬼の如月＞の名を守るためです。鬼神楽の主座を不動の者に渡すわけにはいかないと、如月様も身を灼かれる思いで決断されたのです。芸事で勝負すべき、それは正論でございましょう。でも、正論ばかりが通じる浮世ではないのです」
「名を守るためなら、芙蓉様を犠牲にすると？ あの無垢な魂、穢れなき躰を、慾に塗れた権力者の手に委ねるとっ？」
耀月の悲壮な問い掛けに、女中は厳かに頷いた。
「宗家を継ぐとは、そういう穢れをもその身に引き受けることなのでございます。清流でしか生きられない魚は、苛烈な生存競争を勝ち抜くことはできません。芙蓉様はあなたに守られて、世の穢れ、憎しみ、嫉妬を知らず美しく成長しました。
でも……それでは駄目なのです。鬼を舞うことはできない。如月様もそれを感じておられるからこそ、今回の決断を下したのでございます」
＜鬼の如月＞―――その桎梏から逃れんと、芙蓉の両親は家を捨てて出て行った。
そして芙蓉は今、それを引き継がんとしているのだ。しかし―――
「そこまで……しなければならないのですかっ…………」
巫舞如月流宗家、その名が今はひたすら怨めしい。できることなら何もかも捨て、芙蓉と二人幸せに暮らしたい。虚しい願いと分かっていながら、耀月はそれを頭から払うことができなかった。
「そこまでしなければならないのです。芙蓉様も今はお辛いでしょうが、いずれ分かる時が来るでしょう。ですからあなたも………」
女中の誠真込めた訴えに、耀月は最後まで首を縦に振ることはできなかった。
ようよう日も落ち、辺りを薄闇が覆い始めていた。耀月は自室で一人、暖も取らず、正座をしたまま険しい目付きで庭を眺めている。
今ごろ芙蓉は帰るに帰れず、不安を持て余しているだろう。とはいえ、如月家の次期当主としての自覚から、気丈な振る舞いを見せているに違いない。
そして宴が終わると和泉守に手を引かれ、寝所へと連れ込まれる。まだ何も知らぬ芙蓉は怯え、恐慌をきたし、涙ながらに懇願する。しかし和泉守から全ての事情を知らされ―――
「くッ………ぅ…………」
腿の上に揃えた拳が、小刻みに震えている。四肢を駆け巡る激情がついに飽和状態となり、行き場をなくして暴発せんとしているのだ。
耐えろ、耐えろと自分に言い聞かせる。芙蓉の躰はもはや、芙蓉一人のものではない。次期当主として、如月の名を守るための―――
その時、いったんは止んでいた雪が再びちらちら舞い始めた。
―――白銀の雪は、耀月の髪の色。だから好き………
「芙蓉…様っ………」
耀月は鋭く叫ぶと、がばと立ち上がった。そして雪避けの外套を引っ掴む。
「私は誓った。あらゆる穢れからお守りすると………」
細雪舞う冷たい夜に飛び込んで、和泉守の屋敷へ向かって走り出した。
BACK TOP NEXT