雪華鬼―耀月縁起―
第二話
春苑の宣告通り、芙蓉の稽古は苛烈を極めるものとなった。一切の泣き言を許さず、容赦なく体罰を加えることもままあった。
苦労してひとつの所作を完成させても、よくやったと褒めることもせずすぐに次の課題を与える。さらに春苑は、五歳の子供には到底理解できぬ抽象的な文言を繰り返した。
曰く、舞とは詩的情念、詩的官能なのだ、ただ教えられた通りに動けばいいというものではない、ひとつの所作で百万の言葉を徴わせ、と。
もちろん芙蓉はどうしてよいか分からず、ただ涙をこらえて複雑な所作を頭に叩き込み、それを小さな躰でなぞるだけで精一杯だったのだ。
絶え間ない叱責と身体的な疲労で、一日が終わる頃には芙蓉はぐったりしてしまい、ほとんど眠りながら耀月に風呂に入れてもらうことも多かった。
外で遊びたい盛り、親に甘えたい盛りの子供には酷な生活だと言わざるを得なかったが、芙蓉は歯をくいしばって耐えていた。
そして耀月も、心の痛みに耐えながら黙々と芙蓉の世話に勤しんだ。せめて自分といる時には好きなようにさせてあげたいと、大抵の我がままは叶えてあげるように努めた。
食べたいお菓子があると言えば、雪の中走って買いに行った。都で流行っているからくりおもちゃを探して、半日駆け回ったこともあった。
斯様に芙蓉を甘やかしていた耀月だったが、稽古のことになると別だった。
ある時、芙蓉は泣きながら訴えた。もうお稽古したくない、お祖父様はぼくにいじわるばっかりする、舞台になんか立ちたくない―――そんな芙蓉を耀月は少し厳しく窘めた。
お祖父様は、芙蓉様が憎くて厳しくしているのではありません、早く一人前になって欲しいから心を鬼にして稽古をつけているのですよ、ですからそんなことを言ってはなりません―――
それは文句のつけようのない正論だったが、まだ五歳の芙蓉が納得するのは難しかった。いつも自分の味方をしてくれる耀月に窘められ、芙蓉は癇癪を起こして喚いた。
「耀月のばかぁっ、だいっきらい！ どっか行っちゃえ！」
「芙蓉様―――」
「いやいやッ、ぼくだってお友だちが欲しいんだもん、遊びたいんだもん！………ふぇっ、ぇ、ぇぇっ………」
床に座り込み、足をぱたぱたさせて泣きじゃくる芙蓉に、耀月は何もしてあげられない。胸の痛みをこらえつつ近付き、そっと手を差し伸べて、
「さあ、芙蓉様。そろそろお仕度をしないと………」
「いやッ、もう耀月なんていらないっ、出てけ！」
差し出された手をぱしっと払って、芙蓉は部屋を飛び出した。耀月は女中に訳を話して、自分の代わりに今日の仕度を手伝うよう頼んだのだった。
その日、女中に仕度をしてもらって稽古に出た芙蓉だったが、心ここにあらずの状態だった。
もちろん師である祖父の厳しい叱責が幾度も飛んできたが、その日に限っては叱責も耳を素通りした。
耀月のことが気になって仕方がない。何であんな酷いことを言ってしまったのだろう、まさか本当に出て行ってしまったなんて―――
「やだ……やだよぉ………」
芙蓉は不安に耐え切れず、ついに舞台の上で泣き出した。さすがの春苑も様子がおかしいと察したのか、溜め息をついて「今日はもういい」と言い、部屋に戻るよう命じた。
芙蓉はえぐえぐ泣きながら部屋へ戻り、耀月の名を呼んだ。しかし部屋はしんと静まり返り、いつもの優しい笑顔、美しい銀髪を湛えた耀月が姿を現す気配もない。
「耀月……耀月ぅ………」
募る不安を何とか抑えて、芙蓉は隣の耀月の部屋へ。しかし、そこにもいない。芙蓉はもはや不安を抑えることができず、恐慌状態のまま声を嗄らして耀月の名を叫んだ。
「耀月、耀月っ………ようげ………ぅ、ぅ………ぅぁぁぁぁぁーーーーん」
涙を振りまいて号泣する芙蓉のもとに、女中が慌てて駆け寄った。
「芙蓉様っ、どうされたのです。一体―――」
「ようげつ、ようげつがっ………出ていっちゃったのぉぉ………ぇっ、ぇぇっ………」
「まあ、そんなはずないでしょう？ ほら、こちらでございますよ」
激しく泣きじゃくる芙蓉の肩を抱いて、庭に面した障子戸の前に導く。そして戸を大きく開け放つと―――
「よう……げつぅ………ぅ、ぅぁっ……ぁぁぁぁーーーーん」
芙蓉は雪の降り積もる庭に飛び降り、耀月のもとへ一目散に駆け寄る。そして驚いた様子で立ち尽くす耀月の腰にぎゅっと抱き着いて、わあわあ泣いた。
「芙蓉……様？ どうされたのですか？」
訳が分からぬながらも、芙蓉の様子にただならぬものを感じた耀月は、慌てて小さな躰を抱き返す。
「ふぇっ……ぇっ……ようげつ……出ていっちゃっ…………どこにもいないからぁ……」
ようやく合点がいった耀月は目を細め、腰を屈めて泣きじゃくる芙蓉の顔を下から見上げた。
「私はどこにも行きませんよ。ずーっと芙蓉様のお傍におります。要らないと言われても、出ていけと言われても」
少しずつ落ち着きを取り戻しつつある芙蓉だったが、まだ「んくっ、んくっ」と苦しそうに喉を鳴らしてしゃくり上げている。耀月はその躰を抱き上げて、あやすように揺らした。
「さあ、泣き止んでください。お友だちに笑われてしまいますよ」
芙蓉はこしこしと目をこすると、ちょんと首を傾げて「おともだち？」と不思議そうに訊ねる。が、顔を上げて庭の方を見た途端、嬉しそうに瞳を輝かせて叫んだ。
「うわあっ、すごい、すごい！」
そこには、大小さまざまな雪だるまが並んでこちらを見ていたのだ。よく見れば、表情もひとつひとつ違っている。笑っているもの、拗ねているもの、片目をつぶっているもの、怒っているもの―――
そう、耀月は朝からずっとこれを作っていたのだ。友だちが欲しいと泣いた芙蓉の、僅かな慰めになれば、と。
「耀月、下りる、下りるぅ」
「はいはい。今、履物をお持ちしますね」
耀月は、いったん濡れ縁に芙蓉を座らせると、雪沓を履かせた。芙蓉は待ち切れぬとばかりに庭に飛び出し、ずらりと並んだ雪だるまをひとつひとつ眺める。興奮のためか真っ赤に染まった頬が、白銀の世界に仄かな色彩を灯した。
「ねえ、この雪だるま、耀月にそっくりだよ」
「左様でございますか。ううむ、私にはよく分かりませんが」
芙蓉は得意げに胸を張り、
「ぼくには分かるもん。あのね、背がおっきくて、優しそうなところっ」
耀月は淡雪の如き笑みを浮かべて頷くと、その隣の小さな雪だるまを指差した。
「では、この小さなのは芙蓉様ですね」
そうして二人は、再び雪の華が舞い始めるまで、寄り添いつつ雪だるまを眺めていたのだった。
春苑による稽古は変わらず厳しいものだったが、耀月の優しさと深い愛情に支えられて、芙蓉も少しずつ上達していった。
巫舞には様々な「型」があり、型から型への流れを如何に滑らかに見せるかで演者の評価が決まると言っても過言ではなかった。
芙蓉は生まれつきのしなやかな躰に加え、微妙な関節の動きを制御するのに長けていたからか、稽古を始めて僅か二年で大方の動きを会得することができた。
しかしそんな芙蓉にも、たったひとつ苦手な所作があった。
それは摺り足。踵を上げず床に付けたまま滑るように進むという、最も重要な動きのひとつであったが、躰を僅かに前傾させたまま下半身の均衡を保つのが難しく、ぐらぐらよろめいてしまうのだ。
この欠点を大きな課題として重要視した春苑は、摺り足の稽古に毎日多くの時間を費やした。その結果、芙蓉の柔らかな足は紅葉のように赤く腫れ上がった。
耀月は都のあらゆる医者や薬屋を訪ね回って膏薬を買い集め、毎晩毎夜芙蓉の足に擦り込んでやった。しかし足の腫れは収まるどころか酷くなる一方で、ついに足の裏の皮が破けてしまった。
それでも春苑は稽古を休ませようとはせず、変わらぬ厳しさで基本の摺り足を教え込む。祖父に泣き言を言っても聞き入れてもらえぬと分かっていたから、芙蓉は灼けるような痛みに耐えて稽古を続けた。
いや、稽古中は神経が張り詰めて集中しているからか、まだ耐えられた。何より辛いのは、稽古の終わった後だった。
ふっと気の緩んだ瞬間、じりじり音をたてて劇痛が襲ってくる。普通に歩くこともままならず、耀月に抱きかかえてもらわねば部屋へ戻れないほどだった。
部屋へ戻ると、芙蓉の着物を脱がせて風呂に入れ、患部だけは湯に付けぬよう留意しつつ躰を綺麗に洗ってやる。
そして傷ついた足には雑菌の侵入を防ぐ薬と炎症を抑える薬を塗って、清潔な布を巻いてやらねばならなかった。しかし芙蓉は泣きながら足をばたばたさせ、
「いやっ、おくすりいやっ。痛いもん！」
「いけません、芙蓉様。ちゃんと薬を塗らないともっと痛くなります」
「いやいやいやっ」
稽古中ずっと我慢してきた反動なのか、躰じゅうで痛みを訴える芙蓉。そう、彼には、泣き言を言って甘えられるのは耀月しかいないのだ。
耀月もそれが分かっていたから、強く窘めることができなかった。とはいえ、やはり薬を塗らずに放置するわけにはいかぬ。耀月は跪いて、
「お辛いのは分かります。しかし薬を塗らないと明日の稽古がもっと辛く―――」
「嘘だ！ 耀月にはわかんないもんっ。ぼくがどれだけ痛くて辛いかなんて、少しもわからないくせにッ」
耀月ははっと息を呑むと、そのまま何も言わず項垂れた。やがて徐に口を開き、
「仰る…通りです。私には、芙蓉様のお辛さは分からない。申し訳ありません……」
「耀……月………」
芙蓉は一瞬、足の痛みを忘れた。胸を刺し抜く痛みに駆逐されてしまったのだ。耀月は自分を責めるかのように深く項垂れたまま、ぴくりとも動かない。
「私には、分からない………足の痛みも、稽古の辛さも、背負っておられるものの重さも………何も………」
耀月の呟きには、真摯な苦悩が詰まっていた。こんな苦しそうな耀月は初めて見る。芙蓉は、自分が言ってはならぬことを言ってしまったのだと気付いた。
「耀月、耀月ぅ………」
芙蓉は足の痛みも忘れ、じっと項垂れて動かない耀月にすがり付いた。
その翌日、耀月の言う通り薬をちゃんと塗っておいたお陰で足の腫れもかなり引いて、ずいぶん楽になっていた。
今朝の耀月はいつも通り優しく接してくれたが、芙蓉は今日の稽古が終わったら、耀月に謝ろうと思っていた。昨日はひどいこと言ってしまってごめんなさい、と。
「芙蓉様、お稽古がんばってくださいね。私は都まで行って、お薬を頂いて参ります。ついでに、芙蓉様の大好きな『淡雪』を買ってきますから」
『淡雪』とは芙蓉の大好物で、雪のように真っ白な落雁だった。芙蓉は嬉しそうに頬を染めて頷くと、稽古場へ入っていった。
その小さな後ろ姿を見送った耀月は、そのまま屋敷を出て都へ向かった。裸足のまま。
「お疲れ様でございました、芙蓉様。さあ、部屋へ戻りましょう」
稽古の終了後、いつものように迎えに来てくれた耀月に甘えた仕草で両手を差し伸べる。が、その手は途中で止まった。芙蓉は震える声で、
「耀月………どうしたの？ その足っ―――」
しかし耀月はにっこり笑い、「大したことではありません」と飄々と答える。しかし芙蓉の顔は徐々に蒼褪めてゆく。
無理もない、着物の裾から覗く耀月の両足は傷だらけで、ところどころ擦り剥けて皮がめくれ返っていたのだ。
「耀月、足がっ―――」
「大丈夫です。それよりほら、ちゃんと掴まってください。お部屋に戻りましょう」
芙蓉の躰をふわりと抱き上げ、いつものように渡り廊下を通って部屋へ。すると、庭の隅に耀月の浅沓がきちんと揃えて仕舞われてあるのが見えた。
とてもこれを履いて都まで行ったとは思えぬほど、綺麗なままだった。芙蓉はひゅっと息を吸って、
「まさか………耀月、裸足で都へ行ったの？」
「はい、行きました」
「そんな……なんでっ―――」
都までも相当の距離があるが、その上薬屋を数件回り、『淡雪』を買うため和菓子処にも寄ったはずだった。
しかし耀月は、芙蓉の問いに微笑を浮かべるだけで何も答えず、風呂の仕度を始めようとする。芙蓉はすがり付いて、
「なんでっ？ どうしてそんなことしたの？！ もしかして……ぼくが昨日、あんなこと言ったから………」
耀月は憂いを帯びた微笑みを口許に乗せて、
「芙蓉様の痛みを、たとえ僅かでもこの身に刻みたかったのです」
「だめだよ耀月ぅ……こんなことしちゃだめぇ………」
顔をくしゃりと歪めて涙をぽろぽろこぼし、必死に訴える芙蓉を抱き上げて、
「大丈夫です。この程度の傷、芙蓉様のお辛さに比べれば蚊に刺されたくらいのもの。それに、私が好きでやっていることですから。芙蓉様は私のことなど気にせず、お稽古のことだけ考えてください」
耀月は天鵞絨のように柔らかく深みのある声で諭すと、そのまま芙蓉を浴室へ連れていったのだった。
そしてその翌日も、耀月は朝から裸足で過ごした。ちゃんと沓を履いてという芙蓉の懇願もいつもの微笑みでやんわりと跳ね返し、傷だらけの足を酷使して忙しく動いた。
そんな耀月の姿を見て、芙蓉は激しく自分を責めた。癇癪を起こしてその勢いのまま叩き付けた暴言が耀月を追い詰め、こんな行動に駆り立ててしまったのだと。
芙蓉はその日、いつも以上に熱心に稽古に取り組んだ。そのせいで足の皮はぶよぶよになってめくれ返ったけれど、決して痛い素振りを見せず集中した。
滅多に褒めない春苑も満足げに頷き、素っ気ない口調だったが「よく耐えたな」と労いの言葉をかけてくれた。そして耀月に薬を塗ってもらう時にも、いつものように「痛い痛い」と泣いて喚くことをせず、唇を噛み締めて耐えた。
どんなに優しく、丁寧に手当てしてもらっても、患部に薬を擦り込むのだから痛みは生じる。それでも芙蓉は声も上げず、涙も見せず、ちっとも痛くない振りを装ったのだった。
そして清潔な布が巻かれ、手当てが終わった。芙蓉は顔を上げてにっこり笑い、「ちっとも痛くなかったよ」と言おうとした。が、それに先んじて耀月にきつく抱き締められ、驚きの余り出かかった言葉を呑み込んでしまった。
「芙蓉様っ………申し訳ありません………」
「耀…月……？」
掠れた声で芙蓉への詫びを繰り返す耀月。彼がこんな激情を見せるのは珍しいことだった。芙蓉は微かな怯えと同時に、これまでにない胸の高鳴りを覚えて小さく身じろいだ。
「あなたに……こんな無理をさせるつもりはなかった……私は、何と愚かなことを……」
心配をかけまいと、必死に痛くない振りを装って笑顔すら見せようとした芙蓉。自分の感傷的で軽率な行いが、他に甘える者のいないこの小さな子にどれだけの負担を与えたか。
「こんなことであなたの痛みを知ろうだなんて………私はっ―――」
「耀月……」
この時初めて芙蓉は、心の痛みは躰の痛みに勝るということを知った。芙蓉を抱いたまま震える耀月は、本当に苦しそうだった。
「芙蓉様………耀月一生の願いです。どうか私の前では感情を偽り、抑えることの無きように」
「我がまま……言ってもいいの？」
戸惑いを含んだ声でぽそっと訊ねる芙蓉に、耀月は目を細めて頷き、
「芙蓉様の願いを叶えること、それが私にとっての生きる糧なのです。どんどん我がままを仰ってください。この耀月が、命に代えても叶えて差し上げます」
芙蓉はぱたぱたと瞬きをしてから耀月の躰にきゅっとしがみ付き、
「じゃあ………一緒に寝てくれる？ これからずっと、ずぅっと………」
「承知いたしました」
芙蓉は嬉しくて嬉しくて、足の痛みも忘れて耀月にじゃれついた。耀月はその背中を優しく撫でながら、近い将来、絶え間ない欲望との葛藤に苦しむことになるだろうと予感した。
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