雪華鬼―耀月縁起―
第十五話
如月家に戻ってからの数日間、何をどうして過ごしたのかよく分からない。つい昨日の記憶もぼんやり霞んで思い出せない。
それはある意味当然だった。できるだけ心を閉ざし、感覚を閉ざして躰だけを忙しく動かし、ひたすら時間が経過するのを耐え忍んでいたのだから。
幾度か、芙蓉が会いに来てくれた。それもおずおずと、不安に苛まれた青白い表情で。しかしそのたびに紅緒に体よく追い払われ、滲む涙を隠そうともせずとぼとぼと帰っていった。
生来の天真爛漫な明るさは見る影もなく、孤独と不安に喰い荒らされた躰はあっという間に痩せて衰弱していった。
耀月は何度も春苑に直談判した。このままでは鬼神楽の審判どころではない、その前に芙蓉の躰と心が壊れてしまうと。
しかし春苑は「余計なことは考えるな」と厳しく突っ撥ね、これまで通りの態度を貫くよう言い渡した。「勝手な行動を起こしたら許さんぞ」と釘を刺すのも忘れず。
耀月は従うより他なく、とにかく審判の日が来るのをじりじりして待つばかりだった。
そして審判を翌日に控えた夜。芙蓉は祖父に呼び出され部屋を訪れた。襖を開けて現れた芙蓉は、明日に重大な舞台を控えているとは思えぬほど生気に欠けた顔付きで、足許も覚束ないほどだった。
しかし春苑は何も言わず、黙って前に座るよう促した。
「いよいよ明日だな。準備は整っている。あとはお前の持つ力を存分に発揮するといい」
「はい……ご期待に添えるようがんばります………」
唇からこぼれたそばから儚く消えるかのような弱々しい声で、明日への意気込みを茫洋と呟く。そしてのろのろと一礼すると、早々と立ち上がって退散しようとした。しかし、
「待ちなさい。まだ話があるのだ」
芙蓉は不審げに首を傾げ、浮かせた腰を戻す。そして祖父の言葉を待った。些か作為的な臭いのする間を置き、やがて春苑は口を開いた。
「実はな、耀月のことなのだが……」
それまではどこか焦点の緩んでいた双眸が、にわかに光を取り戻した。芙蓉は僅かに身を乗り出して続きを待つ。
「明日の審判が終わったら、紅緒と祝言を挙げる」
………何だろう、何を言っているのだ、この人は。
「夫婦になっても、如月家への奉公はもちろん続けるということだ」
そんな、そんなことあるはずないじゃないか。莫迦莫迦しい。
「もちろん儂も許した。あの二人ならきっと、似合いの夫婦になるだろうて」
だって誓ったもの。ずっとずっと傍にいて、僕だけを愛してくれるって………
「芙蓉……？」
春苑は怪訝な顔付きで芙蓉の顔を覗き込んだ。無理もない。芙蓉は肩を震わせて笑っていたのだ。
「ふふっ………うふふ、ふ、ふ、ふ…………」
「芙蓉っ」
「は、はは……あはははははっ…………」
芙蓉は躰を揺らして哄笑し、そのままゆらりと立ち上がった。芙蓉の放出する瘴気に呑み込まれまいと、春苑は丹田に力を入れてじろりと見上げ、
「芙蓉、何が可笑しい」
芙蓉は尚もへらへら笑いながら祖父を見下ろし、
「だぁって、耀月が祝言を挙げるなんて莫迦莫迦しくて。お祖父様があんまり真剣なお顔で仰るから」
「偽りだと言うのか？ いや、違うな。お前がそう思い込みたいだけだろう。本当は分かっていながら、耀月の心変わりを受け入れたくないのだ」
「違う！」
「違うと？ ならば何故、お前は泣いているのだ」
祖父の指摘に芙蓉は息を呑み、震える指先でおそるおそる己れの頬を撫でた。いや、確かめるまでもなかったのだ。すでに視界は白く霞み、涙で埋め尽くされた世界は確かな輪郭を失って、荒涼と広がるばかりだったのだから。
「違う……ちが…う………」
世界の全てを否定するように、芙蓉は茫洋と首を振り続ける。しかし春苑は追い討ちをかけるように、
「耀月も男盛り、しかもあれほどの美貌だ。いつまでもお前のお守ばかりはしていられんだろう。それに、お前もそろそろ一人立ちする年齢だ」
「ちがう……」
「これまではお前の傍にいてお前の成長を見守ってきたが、これからは紅緒と二人でささやかな幸せを手に入れたいと―――」
「嘘だッ」
いつの間にか、芙蓉の表情は一変していた。仁王立ちのまま、全てを灼き尽くすかのような燃える眼差しで睨み付ける。
春苑は面てには出さぬまま、喉の奥で叫んだ。そうだ芙蓉、それでいい。もっと、もっと怒れ、瞋恚の焔を燃やせ………
「本当に、耀月がそんなことを言ったのですかッ？ 僕は、僕は信じません！ 直接質してきますっ」
「好きにしなさい。しかし今宵は無理だぞ。耀月は明日に備えるため、紅緒と共に明王院近くの宿に泊まっている。だがな芙蓉よ、あれも男なのだ。宝華家で過ごしたひと月で、美しい女子に心が移ったとしても仕方ない。まあ、紅緒も相当耀月に惚れ込んでいるようだから、手を変え品を変え誘惑したのだろうが」
「そんなっ―――」
絶句する芙蓉に、春苑にしては卑しい笑いを投げ付け、
「男とはそういう生き物なのだ。お前もいずれ分かるだろう」
芙蓉は何も答えず、視線を宙に彷徨わせたままふらふらと部屋を後にした。
気が付けば、裸足のまま中庭に下りていた。細かな雪が風に煽られ、煙のように舞い上がる。手足の感覚はすでに失われ、歯がカチカチ鳴っている。しかしこの場所から動くことができない。初めて耀月に会った場所。もう一度、あの頃に戻れるのなら―――
「よう……げつぅ………ふぇっ、ぇ、ぇっ…………」
何でこんなことになってしまったのだろう、何がいけなかったのだろう。いくら考えても考えても分からない………いや、ちがう……原因はすべて―――
「あの……女ッ………」
―――あな憎し……あの盗人め………
「許さ……ない……許さない許さない許さない………」
憎き女への呪詛を呟きながら、吹雪の中芙蓉は舞った。＜雪華狂亂の舞＞を。
「許さ……ない………」
意志の制御が届かぬ腹の底で、今、何かが鼓動を始めた―――
翌日も朝から雪が降っていた。この北国では珍しくないことだが、ここまで厚い雪雲に覆われた空を見上げると、言いようのない憂愁に囚われる。しかし耀月はそんな塞ぎの虫を追い払って、自分を奮い立たせた。
今日は如月流の今後を決定づける大事な日。と同時に、再び芙蓉をこの胸に抱き締めることのできる日でもあるのだ。
もちろん、そう簡単に許してはもらえないだろう。たとえ春苑の強制によるお芝居であったとしても、芙蓉を苦しめたことに変わりはないのだから。再び信頼を得るまでには相当の時間を要する覚悟で、芙蓉に全てを打ち明ける所存だった。
「長かった……本当に………」
再びこの胸に戻ってきたら、もう二度と離さない。耀月は幾度も自分に言い聞かせ、今日の準備に取り掛かったのだった。
「失礼いたします。お仕度を手伝わせていただきます」
紅緒は軽く一礼すると、黙って芙蓉に近付いて装束合わせを手伝った。立烏帽子に水干、緋袴といった白拍子独特の装束に、白鞘巻の太刀を腰に差す。
「苦しくはございませんか？」
紅緒の問いに「大丈夫です」と抑揚のない声で返し、扇を持って背を向けた。
紅緒はそっと眉をひそめる。昨夜、祖父から耀月と自分の婚儀について知らされたはずなのに、それについて質そうともしない。鏡の間を出ようとする芙蓉に、紅緒は思わず声を掛けた。
「あの、妾……耀月さんと結婚いたしますの。お祖父様からお聞きになりまして？」
「ええ、聞きました。おめでとう」
あっさりと流された紅緒は、鳩尾がカッと熱くなるのを感じた。
―――つまり、分家風情の女なんて眼中にないってこと？ 宗家家元だからっていい気になるんじゃないよ、この餓鬼
大体、最初から気に入らなかったのだ。本家の血筋に生を受けたというだけで、何の障碍も葛藤もなく当たり前のように用意された当主の座に付ける。
それに比べて自分は、分家の中でも小さな一派に何とか弟子入りし、女中のような扱いを受けながらも精進を重ねてきた。
でも、いくら努力してもこの小さな一派の師範止まりなのだ。おまけに、こんな猿芝居に付き合わされて―――
「ああ、良かったですわ。幼い頃から耀月さんに懐いてらしたと伺っておりましたので、私が取ってしまっていいものかと少々悩んでおりましたの」
「…………」
「耀月も、芙蓉様のことを本当の弟のように思っているみたいですから、是非祝福して頂ければと」
芙蓉は背中を向けたまま、部屋を出ていった。何とか一矢報いた紅緒は、真紅の唇を吊り上げて嗤う。
「………精々頑張るといいわ。お坊っちゃん」
刺々しい声で呟くと、耀月のもとへ向かった。
朝から降り続いていた雪は、一時的にだろうが今は止んでいた。すでに舞台は掃き清められ、見所には主座を選定する神楽長らをはじめ、如月家と不動家の関係者が集まって、空の舞台を固唾を呑んで見守っていた。
この舞台は、今回の審判のため特別に設えられたものだった。不動明王院の中庭に大きく張り出して、四方から観賞できるようになっている。
耀月と紅緒は、舞台のすぐ近くに寄り添うように立っていた。もちろんこれも、芙蓉の嫉妬を煽るためである。紅緒は耀月の耳許に口を寄せ、
「妾と耀月が祝言を挙げると言ったら、あの子“おめでとう”ですって。健気なことね」
紅緒の言葉に、耀月は眉を吊り上げて詰問した。
「そんなこと言ったのですか！」
「そうよ。昨夜のうちに、如月の御隠居様が伝えているはずよ」
「そんな……」
まさかそこまでするとは……。春苑の執念に、耀月は寒気を覚えた。家名を守るためなら孫の心を平気で踏みにじる。あの人こそ真の鬼ではないのか。
「愛した男に裏切られ、その婚礼の儀で二人を祝福する舞を強要された白拍子……。ふふっ、まさに今のあの子そのものね」
「くっ………」
確かに、紅緒の言う通りだ。これが春苑の狙いだったのか。まさに役者は揃ったということだ。
舞台上に、囃子方が音もなく現れた。それとほぼ同時に、灰色の曇天から雪の華がちらちら舞い始めた。まるで、幕開けを告げるかのように。
すると、周囲の空気が変わった。白拍子姿の芙蓉と不動浅葱が中央に歩み出てきたのだ。
「ああ………」
耀月は胸の痛みをこらえきれず声を上げる。薄紅色に頬を染めた酔芙蓉の面影はなく、目は落ち窪み顔色は蒼褪め、表情からはあらゆる感情が抜け落ちていた。
大きな黒い瞳はまるで洞（うろ）のようで、何も映さず空を彷徨うばかり。きっと、こうして立っているのも辛いはずだ。耀月はたまらず顔を背けた。しかしすぐに思い直し、再び視線を戻す。
そうだ、ちゃんと最後まで見届けるのだ。自分がどれだけ芙蓉を苦しめたのか、この目に心に魂に刻み付ける。どれだけ血を流そうとも、その痛みから逃げてはならない。
そして、鬼神楽の主座を決する因縁の舞が始まった。
その名も、＜雪華狂亂の舞＞―――
BACK TOP NEXT