雪華鬼―耀月縁起―
第十六話＜最終話＞
この世は無常、確かなものなど存在しないと思っておりました。けれど貴方と出逢い、あなたに愛されたことで、妾は不変の愛をいうものを信じるようになったのでございます。
いつか必ず一緒になろう、貴方はそう誓ってくれた。妾はそれを信じた。そして待った。ずっと待った。なのに貴方は――――
芙蓉と浅葱は同じ舞台に立ち、同じ舞を披露する。それを神楽長が見定め、どちらが主座の舞い手に相応しいかを決するのだ。
＜雪華狂亂の舞＞―――愛した男に裏切られた白拍子は、婚礼の儀で男とその妻の門出を祝う舞いを求められ、涙をこらえて披露する。
憎い、けれど愛しい……男への複雑な感情はやがて、男を寝取った娘への嫉妬と怨みに変じ、徐々に、しかし確実に、白拍子の穢れなき魂は鬼気に侵蝕されてゆくのだ―――
「………浅葱、何をしているっ。お前の舞はこんなものでは―――」
暫し黙って二人の舞を鑑賞していた不動家当主だったが、ついに我慢しきれず苛立ちを噛み砕きながら低く吼えた。
しかし誰よりも困惑し、誰よりも焦っているのは、当の浅葱本人だった。
―――こんな……こんなはずではッ……
すぐ隣で飄々と舞う芙蓉。彼の存在自体が放出する凄まじい気に圧倒され、演技に集中できない。そして焦れば焦るほど、自分自身を見失ってゆく。
―――この存在感、禍々しいまでの鬼気………一体どうやってここまでっ……
浅葱はすでに敗北を覚っていた。恐らくこの舞台を鑑賞している誰もが、芙蓉しか見ていないだろう。
進むにつれて芙蓉が放つ気はさらに膨れ上がり、舞台全体を、否、明王院全てを呑み込んでゆく。空も怖れをなしたのか、激しく雪を散らし始めた。
そしてまた芙蓉自身も、腹の底から湧き上がる正体不明の熱に翻弄されんとしていた。
このままこの熱に呑まれてはいけないと、頭の隅で警報が鳴る。しかし次の瞬間、舞台上から見えた景色が全てを忿怒の血色に染め上げた。
互いの温もりに憩うかのように寄り添う、耀月と紅緒。自分はたった一人でこの冷たい舞台に立っているというのに、まるで、まるで―――
その時、紅緒が冷気から逃れるように耀月の胸にもたれ掛かった。そう、まるでもう夫婦になったかのように―――
「どうして……どうしてぇ………」
「あの女……許さない………」
「さびしいよぉ……冷たいよぉ………」
「呪ってやる……呪い殺してやるッ」
「一人にしないでぇ………」
「憎い……憎い憎い憎い憎い…………」
もう芙蓉には、どちらが自分の言葉なのか分からない―――
「そうだ芙蓉……もっと、もっと憎め、怨め。嫉妬の焔で全てを灼き尽くせ………」
春苑は血走った眼球をせり出して舞台の芙蓉を凝視し、獣めいた嗄れ声でさらに焚き付ける。もっと憎め、と。
「芙蓉様っ………」
耀月は爪が喰い込むほど拳を握り締め、心身を喰い荒らす感情の化け物を必死で抑え込む。少しでも気を抜いたら、もうやめてくれと絶叫をまき散らしてしまいそうだ。
―――これが……＜鬼の如月＞を背負うということなのかっ
今さらながらに業の深さを思い知り、耀月は身震いする。舞台はいよいよ、白拍子狂乱の下りに近付いてきた。
嫉妬の虜囚となった白拍子は健気に舞いながらも、徐々に狂い始める。ふわりと旋回するたびに狂気の翳は濃くなり、それはやがておぞましき鬼縁を呼び込むのだ。
愛は嫉妬と執着を生み、人を鬼道へ引きずり込む。例外などない。人の道と鬼の道は、斯くも近しいものなのだ。そして芙蓉も―――
それは、静かに起こった。
広げた扇で顔を隠し、くるりと旋回する。すると雪がうっすら積もった舞台の上に、真紅の斑点がぽつぽつと飛び散った。
季節外れの徒花、その鮮やかな色彩の美に目を奪われ、観客たちはただ呆然と舞台を見つめる。そしてもう一度旋回すると、さらに夥しい花が舞台に散った。
それが何であるのか気付いた時にはもう遅かった。正面を向いた芙蓉がそっと扇を外すと―――
ああ、その額には禍々しき角が。
「あ……あ、あ…………」
誰もが言葉を失い、瞬きもせず血塗れの角を凝視する。次の瞬間ひゅうと空気が鳴り、耀月の頬を一陣の突風が掠めた。と同時に、耳はゴギ、という嫌な音を捉えた。
音のした方を見ると、そこにいたはずの紅緒がいない。いや、紅緒はいた。躰だけだったが。千切れた首から上は―――
「ふよう……さま………」
耳まで裂けた芙蓉の口が、紅緒の頭を咥えている。弾けた肉片を伝い、濃厚な血汁がぽたり、ぽたりと滴って、雪の景色を紅く染め上げてゆく。
「嗚呼……芙蓉様………」
頭は混乱し茫漠と霞みながらも、魂では何が起きたか理解していた。耀月はゆっくりと、確かな歩みで芙蓉の許に近付く。
早く、早くその手で殺して欲しい。けれどその前にもう一度だけ、愛しい躰を抱き締めたい。そして愛していると伝えたい。
背後で誰かが悲鳴を上げた。近付くな、殺されるぞっ、そんな絶叫も聞こえる。しかし耀月は歩みを止めず、ついに芙蓉の眼前に。すると、形相も骨格も変わり果てた芙蓉の双眸から、透明な涙がはらはらと流れ落ちた。
耀月は抱き締めようと両手を広げる。が、どこからか重く鈍い火薬音が鳴り響き、芙蓉の肩から鮮血が飛び散った。
「芙蓉様ッ！」
芙蓉は肩を押さえつつも素早く背を向け、人智を超えた跳躍で本殿の屋根に飛び乗った。するとそれを追って鉄の筒が向けられ、次々と弾が発射される。
「待てっ、撃つな、撃つんじゃない！」
耀月は鉄の筒の前に躍り出て両手を広げ、身を呈して攻撃を止めさせた。
「邪魔をするな！ どけっ」
「芙蓉様を撃つな！」
鉄の筒を抱えた僧兵はじろりと睨み、
「分からんのかっ、あれは鬼だ！」
「違うッ！」
「如月芙蓉は白拍子に同化する余り、自身も鬼と化したのだ！ 鬼はこの世に仇なす忌わしき魔物、滅ぶべき仏敵。取り返しのつかないことになる前に、葬らねばならんのだ。分かったらどけっ」
僧兵は耀月を鉄の筒で突き飛ばし、芙蓉の後を追っていった。耀月はぐらりとよろめくと、その場に膝をついた。
次第に激しさを増す雪に語りかけるように中空を見据え、
「違う……ちがう……鬼は私………私が芙蓉様を……追い詰めた……」
耀月は素早く立ち上がり、芙蓉の後を闇雲に追い駆けた。
「私が……私が芙蓉様を………私が……ぁ、ぁぁぁぁぁぁ……………」
全てを白く染め上げる吹雪の中、耀月の絶叫が響き渡る。
「私が芙蓉様を鬼にしたのだッ、殺すなら私を殺せぇッ！！」
吹き荒れる雪は何も応えず、芙蓉の痕跡も耀月の叫びも、あらゆるものを無情にも白き闇に閉ざしたのだった―――
その後、明王院の敷地内はもちろん、如月家の屋敷や人の住んでいない廃屋などの捜索が続けられた。しかし芙蓉は見つからず、その姿を見た者は誰一人いなかった。
如月春苑は全ての責任は自分にあると言い遺し、喉笛を掻き切って自決。当主を喪った如月流宗家は断絶を余儀なくされ、流派は消滅。春苑があれほど執着していた鬼神楽の主座には、他国から招いた新参の流派が任命された。
不動家は鬼の因業に怖れをなし、憑依舞から叙事的な曲舞（くせまい）へと鞍替えしたのだ。
斯くして如月家の名は、＜鬼の如月＞という血塗られた言葉と共に、忌わしき記憶として人々の心の陰部に刻まれるのみとなった。
そして耀月は―――――
「お前……何ゆえ自ら鬼にならんとする？」
血塗れの躰を雪にうずめて倒れる耀月に、男は抑揚に乏しい声で訊ねた。
「羅生の呪で自ら鬼になろうだなんて、全く酔狂な男だ。それとも、鬼になってまで殺したい奴がいるのか」
＜羅生の呪＞―――自らの躰を四十八箇所切り裂いて腸（はらわた）を抉り、溢れ出る生き血に身を浸して苦しんだ挙句悶死することで、自らの屍を鬼となして復活する恐るべき秘呪。
「わたし……はっ………」
喉の奥が、溜まった血汁でごぼごぼと鳴る。それでも耀月は唇を動かし、
「つたえ…ねば……なら……ん……あの……かたに―――」
もう一度、もう一度逢うのだ。何年何十年かかろうと必ず探し出してみせる。そのためにも、この肉体を不老不死の鬼と成す。
躊躇いなどあるはずもなかった。芙蓉を失ったあの時点で自分の魂は朽ち、鬼となっていたも同然なのだから。
男は興味を引かれたのか、「ほぅ」と感嘆の声を上げ、「何を伝える？」と問いを重ねる。耀月は積もる雪を握り締め、
「あいしている……と―――」
男はすっと目を細めて立ち上がり、真紅の海に浸る耀月の躰を見下ろした。そしてぽつりと、
「愛とは斯くもおぞましき執着なり………」
自身に言い聞かせるように呟くと、くるりと背を向けた。
「また、いずれ逢うだろう」
さく、さく、と雪を踏む足音が遠ざかってゆく。耀月は僅かに瞼をこじ開け、霞む視界に男の後ろ姿を捉えた。男には、左腕がなかった。
ああ、やはり。いずれ彼らの手に掛かって、無間地獄へ堕ちることになるだろう。それは望むところ。しかしその前に―――
「芙蓉……さま………」
迫り来る濃厚な死の影と、その背後に控える鬼縁の生を、耀月は断末魔の絶叫と共に受け入れた。
＜終＞
＊最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
BACK TOP INDEX