雪華鬼―耀月縁起―
第十一話
芙蓉の自信は、確かな実力で裏打ちされたものだった。襲名披露の当日、芙蓉の求めにより、いつもの舞台袖ではなく招待客と共に桟敷から鑑賞していた耀月は、自分はまだ芙蓉が秘める才能の全てを知り尽くしていたわけではなかったのだと痛感した。
招待客は如月家の親類縁者ばかりではなく、鬼神楽を開く不動明王院の阿闍梨や花瑞国の高級官吏、そしてあの和泉守も招ばれた。さらに春苑は、芙蓉と競うことになる不動流宗家も招待した。
斯様に様々な思惑が入り乱れる張り詰めた空気の中、芙蓉演じる舞姫は一瞬にして客人らを虜にしてしまったのだ。
＜桜挿頭の舞＞の本領は前奏にあると言われ、最近ではこの部分のみ独立して奏されることが多かった。
桜の枝を手折り、それを唯一の小道具にして、恋人の命を救うため帝の前で艶やかに舞う。着物を脱げという帝の無理難題にも怯むことなく、毅然たる身のこなしで一枚ずつ着物を解いてゆく。
そんな姫の健気さ、恋人への真摯な愛情に感銘を受けた帝は、寛大な心で二人を赦すのだ。
恋人の身を案じながらも、帝の心を動かすため魂込めて舞う。前奏が終わった時点で桟敷には異様な熱がたちこめ、誰もが芙蓉の美しさ、所作の細やかさに深い感銘を受けた。
しかし彼らはすぐに思い知ることになる。芙蓉の芸はさらなる高みにあるのだということを。
前奏の余興扱いされることの多い後奏が始まると、初めは気楽に姿勢を崩して鑑賞していた客人らはみな一様に背筋を伸ばし、食い入るように見始めた。
まずは恩赦を与えてくれた帝への感謝を、喜び溢れる所作で表現する。そして恋人へ捧ぐ永遠の愛を謳って終わるのだが、芙蓉の本領はまさにそこで発揮されたのだ。
大袈裟な所作など何もない。寧ろ控え目で慎ましげな動きの中に、幾千もの言葉にできぬ想いが見事に結晶していた。
指先の震え、首の角度、目の動き、どれをとっても愛する悦びを謳歌する古の舞姫そのもの。客人らは胸ときめかせ、芙蓉の所作ひとつひとつを丁寧に網膜に刻み込んだ。
芙蓉が舞姫と同化したかの如き境地に達することができたのは、当然のことなのかもしれない。何故なら芙蓉は、舞姫を演じると同時に己れ自身を演じていたのだから。そう、耀月を愛しているという己れ自身を。
楚々と翳した桜の陰から、愛情に潤った甘やかな眼差しを耀月に送る。薔薇色の唇を季節外れの春風のごとく掠める微笑は全て、耀月に贈られたもの。艶かしく撓む腰は、耀月の荒々しい抱擁を待ち焦がれて切なく震える。
―――ああ………芙蓉様っ………
その全てを全身で受け止めた耀月は、震える拳で必死に足を押さえ付けた。そうしないと、立ち上がって脇目も振らず舞台へ駆け上がり、愛しさに駆られて芙蓉を攫ってしまいそうだったから。
“耀月のために舞うから”―――芙蓉の囁きが耳の奥に蘇る。あれはただの睦言ではなかった。芙蓉は今、伝説の舞姫を超越し、一人の人間として、如月芙蓉として耀月への愛を謳っているのだ。
震える拳の上に、透明の雫がひとつ、ふたつと降り掛かった。嗚咽を堪えねばと、耀月はぎりりと唇を噛み締める。それでも涙は雄弁で、次々と溢れては頬を濡らした。
最後まで演じ切った芙蓉が、満足げに目を細めてにっこり微笑んだ。もちろん、耀月に向けて。
ねえ、見てくれてた？ 僕の想いは届いた？ 耀月がいてくれたから、僕は今日この晴れ舞台に立つことができたんだよ―――
「耀月は……幸せ者でございます………」
自分に言い聞かせるように呟いて、またひとつ、大きな涙の珠を落とした。そして芙蓉のために、ひとつの苦い決断を下したのだった。
「お久しゅうございます、如月のご当主。……いや、もうご隠居ですか」
背後から声を掛けられた春苑は、気持ちを切り替えるためひとつ息を吐いた。そして久しぶりに見た芙蓉の舞から受けた衝撃を腹の底に押し込めると、いつもの恬淡たる無表情で声の主、不動家当主に向き合った。
「久しぶりだな」
「今宵は、このような晴れやかな場に私どものような不肖の者をお招きくださり、感謝の念に堪えません。それにしても、如月家の新しい当主、芙蓉様のお美しさには目を瞠るばかりで」
にこやかな笑顔、慇懃な挨拶に隠された燻朱の闘争心。それは瞳の異様な輝きで分かる。春苑はフンと鼻先であしらい、
「形だけの賛辞など要らん。お前の隣にいる少年を紹介せい」
「これはこれは、失礼致しました。さあ、浅葱（あさぎ）、ちゃんと挨拶しなさい」
浅葱と呼ばれた少年は軽く一礼すると、真直ぐ正面から春苑の顔を見据えた。初対面から、この老翁を前にしてここまで物怖じしない態度を見せる者は珍しい。
確か耀月もそうだったなと、春苑は遠い記憶を手繰り寄せた。孤児院で初めて会った耀月も、自分の顔を真直ぐ見返してきた。
しかしあの時の耀月とは、決定的に異なることがある。少年の双眸には生々しい怨嗟が瞬いていたのだ。如月家に対する憎悪、それは不動家の宿痾なのかもしれない。
「不動家の次期当主、浅葱と申します。次の鬼神楽では、私が舞手を務めることになるでしょう。よろしくお見知りおきくださいませ」
甚だしく礼を失した口上だったが、現当主は窘めようともしない。これまでの春苑ならば、ふざけたことを言うなと一喝したであろうが、今の彼にはその意気もなかった。
「楽しみにしている」と精一杯の皮肉を叩き付けて背中を向け、そのまま去るしかできなかった。二人の不動から注がれる視線で灼かれた背中が、じりじり痛む。
「このままでは……」
胸奥に長らく燻り続けていた危機感が、黒い焔を吹き上げる。春苑は流派の存亡をかけた最終決断を下そうとしていた―――
その夜、耀月と芙蓉はいつものように風呂に浸かり、互いの躰を磨いた。そして夜着をまとい、寄り添いつつ降る雪を眺める。
「これで芙蓉様も、名実ともに如月流家元となられたのですね……」
深い感慨を込めてぽつりと呟く。もうお稽古したくない、お友だちと遊びたいと言って泣いたことや、摺り足の稽古で足が真っ赤に腫れ上がってしまったことなど、幼き頃の思い出が記憶の襞からぽろぽろこぼれ落ちる。
「うん……。でも、僕は何も変わらないよ。特に耀月の前では」
その言葉を裏付けるように、耀月の胸に顔をすり寄せて甘える。耀月は嬉しさと切なさの入り混じった声で、
「しかし……やはり如月家の当主となると、これまでのようには………」
芙蓉はぴくんと肩を震わせ、耀月を見上げて「なんでッ」と鋭く問う。耀月は口ごもりつつも、己れの考えを述べた。
「当主というのは家の要であり、繁栄の礎となるべきもの。芙蓉様は今後……如月家の存続についても心を砕かねばならないのです」
芙蓉の眉間に皺が刻まれた。耀月が何を言っているのかよく分からない、理解できない。しかし―――
「あなたはいずれ妻を娶り、後継となるお子を作り、あなたがお祖父様から受け継いだ芸の全てを伝えねばなりません。お分かりですね？」
耀月の言わんとすることが、徐々に頭に浸透してゆく。それと共に芙蓉を襲ったのは、暗闇に突然置き去りにされたかのような、強烈な疎外感、孤独感。
「い、いや……」
「芙蓉様？」
「わかんない……そんなのわかんないもんっ」
芙蓉は鋭く叫ぶと、背中を丸めて耳を塞いだ。もう何も聞きたくない。このまま耀月の胸に抱かれて眠りに落ち、目が覚めればまたいつも通りの日常が始まる……そう信じたい。なのに耀月は再び言い聞かせるように声を低め、
「芙蓉様なら、ちゃんとお分かりになるはずです」
いやだいやだ、聞きたくない。そんな未来のために如月流家元を継いだわけではない。これからも耀月と手を取り合って精進を重ね、如月流の名を高めてゆきたい、ただそれだけだったのだ。
妻？ 子供？ そんなもの要らない、欲しいのは―――
「僕が望むのは……耀月と過ごす何気ない毎日だけ………」
芙蓉の呟きには、深い想いがこもっていた。耀月はそれを黙って胸の奥にしまった。
これでもう十分。余りある幸せだ。これまで芙蓉と過ごした濃密な時間、そして今日の舞台で見せてくれた揺るぎない愛情。これ以上の何を望むことがあるだろうか。
「この先何があっても、耀月は芙蓉様のお傍にいて、芙蓉様を想い続けます。ですから芙蓉様は当主としての務めを果たすべく―――」
耀月の言葉が終わらぬうちに、芙蓉は突然顔を上げた。そして耀月の胸をどんと突き飛ばし、炯々たる眼差しで射抜く。人間の嘘を暴く、地獄の王のように。
「……飽きたんでしょ？」
「芙蓉様？ 何を―――」
「もう飽きたんだ、僕に付き合うの。当主になったから、これでやっと僕のお守から解放されるって、そう思ってるんだ耀月はっ」
耀月は思わずカッとなって詰め寄った。悲壮な決意のもとに敢行した進言が、こんな風に歪められるなんて。怒りと苛立ちに沸く双眸を据え、
「本気でそんなことを言っているのですかっ。私はあなたの―――」
「だってそうじゃないか！ 僕のため、如月家のためだなんてお為ごかし言って、結局は自分が自由になりたいだけ……………ひッ」
いきなり耀月に押し倒され、芙蓉は喉の奥で悲鳴を上げた。上から覆いかぶさった耀月に両手首をぎりぎりと押さえ付けられ、明瞭な恐怖と共に言いようのない悲しみが込み上げてきた。
耀月のばか、耀月なんて何にもわかってない、斯様な恨み言が口から出かかったが、実際に唇からこぼれたのは「ごめんなさい」という詫び言だった。おそるおそる見上げた耀月の顔に、濃厚な苦悩の鼓動を見たからだ。
「あなたは……あなたは何も分かっていない………私がどれほどっ―――」
苦しげに絶句した次の瞬間、耀月は荒々しい所作で芙蓉の帯を解き、着物の前合わせを大きく払って白い裸身を夜気に晒した。
「耀月っ、やめっ…………ぁ、んぅ…………」
弱々しい抗議の声は口付けで難なく吸い上げられ、代わりに熱い舌を挿入された。驚きと怯えにちぢこまった芙蓉の舌はあっという間に絡め取られ、耀月の蠢きに翻弄される。
呼吸も許さぬ激しさに抗うことはおろか、意識すら朦朧と霞み始めた。しかしすんでのところで解放され、視線をふわふわ宙に彷徨わせる。
すると下腹部に予期せぬ疼きが灯った。訳が分からぬまま「ぁぁ…ん」と喘ぎ、そろそろと視線を滑らすと、大きく広げられた脚の付け根に顔をうずめ、芙蓉の性器を一心に味わう耀月の姿が。
芙蓉はいやいやと首を振り、手を伸ばして耀月の頭を押し戻そうとした。しかしそれはびくともせず、芙蓉の竿を根元まで咥え込んだ耀月は、舌を絡め歯を立てて執拗な愛撫を続ける。
さらに唾液で濡らした指を後孔に押し込み、中で激しく揺り動かして半ば強引に蜜壺を広げた。
余りに性急な前戯のゆえか、快感より痛みが勝ってしまう。どんなに切羽詰まっていても、欲望の飽和状態に陥っていても、こんな荒々しい愛撫を仕掛けてきたことなどこれまで一度もなかった。
しかし芙蓉は決して怨みがましいことを言わず、涙をにじませつつ耐えた。今、耀月を突き動かしているのは怒りと悲しみだと分かっていたから。
そして、いつも穏やかで優しい彼をこんな行為に駆り立ててしまったのは、自分の子供じみた言動に他ならないと自覚していたから。
「よ……げつ………ぁ、ぁぁぁ…………」
早々と前戯を終えた耀月は、帯を解くのももどかしいとばかりに前をからげて逸物を取り出し、汁に塗れてはちきれんばかりに膨らんだ先端を押し付けた。
十分にほぐれたとは言い難い花びらは、きゅっと収縮して怯えを露わにする。しかし耀月は構わず腰を進め、大きく張り出した亀頭を埋め込んだ。
初めて耀月を受け入れた時に劣らぬほどの痛みに襲われ、さすがの芙蓉も悲鳴をまき散らす。
その部分が裂けてもおかしくないほどの無理な挿入だったが、これまで幾度となく重ねた交戯により少なからず柔軟になっていたのか、引き攣りつつも何とか呑み込んだ。
「んッ………ふぁ…ぁ…ン………ぁっ、ぁぁん…………」
間髪容れず腰を打ち付け、容赦ない注挿に没頭する耀月。芙蓉は切なく喘ぎながら、その肩や頭を優しく撫でた。
「くッ………ぅ、ぅぅっ……ぅっ…………」
長い銀髪のせいでその表情は見えない。しかし温かな涙がぽつぽつと降って、芙蓉の頬を濡らした。それは、言葉にできぬ苦悩の結晶だった―――
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