Second Love
　　　―最後の恋―

７.

「――――さま、皇さま………」


―――なん…だ……？　だれかが……おれを………


「皇様っ、小野寺です。皇様！」


―――おのでら……ああ、そいつは俺の監視役だ……。いつも冷静で、何を考えているのか分からない彼が、ガキの頃から恐ろしくて………


「皇様、目をお開けください！」


―――なんだよ、らしくねえな。お前がそんなに声を張り上げるなんて……


微睡みの浅瀬と戯れながら、冴季の意識は徐々に鮮明さを取り戻してゆく。ゆるゆると目を開けると、乳白色に霞んだ視界いっぱいに見慣れた小野寺の顔が。

その瞬間、思考の糸がピンと音をたてて張り詰めた。

「すぐに手当ていたします」

血に塗れた手を取ろうとする小野寺を制し、まだ薬の影響が残る覚束ない口調ながらも素早く指示する。

「早く……隣の部屋だ。泰水がっ………」
「隣？　一体何があったのです」
「説明してるヒマはねえんだよ！　泰水が男たちに連れ去られた。早くっ―――」

さすが小野寺は、これだけで大方の事情を把握した。彼には珍しく眉間に険しい皺を寄せ、隣の部屋に飛び込んだ。

冴季も低く呻きながら立ち上がり、後に続く。相変わらず四肢は重く、思うように身体を動かせない。しかし冴季は薬の後遺症を抑え込んで泰水の許へ向かった。今彼を支えているのは、強靱な意志の力だった。

隣の部屋には誰もおらず、その奥から怒号や罵声が聞こえてきた。冴季は迷わず駆け込む。すると簡素なベッドの上で下半身を剥き出しにされ、ぐったりと横たわる泰水の姿が目に飛び込んできた。

「泰水………」

小野寺はすでに男一人を殴り倒し、もう一人の首を締め上げているところだった。しかし残る一人はその隙に護身用のナイフを手に取り、引きつった笑いを浮かべながら刃先を泰水の身体に向けた。

「近寄るなッ！　いいか、少しでも動いたらこのナイフでこいつの顔を滅茶苦茶に切り裂くぞ」

小野寺は男の首を締める手を緩め、冴季の判断を仰ごうとちらと視線を送った。冴季は静かな威を孕んだ双眸で男を睨み、そしてぞっとするほど穏やかな声で「小野寺、そいつを離せ」と命じた。

小野寺は小さく頷いて男を解放する。拘束を解かれた男はげえげえ言いながら、床を這いつくばった。

「は、はは……何だよお前、もしかしてこいつにマジで惚れてんのか？」
「………泰水を返せ」
「すげえ、あの冴季が男に本気になったのかよ。美沙がいたら死ぬほど悔しがっただろうなあ」

美沙は疾うに逃げて、この部屋にはいなかった。冴季は尚も表情を変えず、「泰水を返せ」と繰り返す。男は心底楽しそうに笑って、

「泰水クンのケツ、すげえ良かったぜ。お前が入れ込む理由も分からなくもねえな」

そして泰水の顔すれすれのところで刃先を閃かせ、

「ほら、返して欲しいなら土下座しろよ。大事な恋人のためなら、そのくらい何でもねえだろ？」

冴季はほんの一瞬、小野寺へ視線を送った。がすぐに男に向かって「分かった」と言うと、その場に膝と手をついて土下座をした。

まさかこんなにあっさり土下座すると思っていなかった男は、虚を衝かれてぽかんと口を開ける。その僅かな気の緩みを小野寺が見逃すはずもなく、傍に脱ぎ捨ててあった上着を男目掛けて投げ付けた。

「うわっ」

次の瞬間、冴季は素早く立ち上がって男の許へ駆け寄り、ナイフを握った手を掴んで泰水の顔から離した。

「くそぉッ」

半ば自棄になった男は滅茶苦茶に暴れ、冴季の拘束を振り払おうとする。しかし冴季は血に塗れた拳で男を殴り倒し、そのまま馬乗りになって胸倉を床に押し付けた。

「皇様！」

出血が収まりかけていた手の傷から、再び血が溢れ出す。と同時に灼けるような痛みにも襲われたが、冴季は呻きひとつ漏らさず男を激しく締め上げた。

凄い力で胸を圧迫された男は、「ぐぇ…」と潰れた声を出して足をばたつかせた。

「貴様………よくも泰水を…………」

地を這う低音には、根源的な恐怖心を喚起する静かな力がこもっていた。男は一瞬、苦しいのも忘れて眼前の冴季を凝視した。

これは、本当にあの冴季だろうか。この、双眸に生々しいまでの怒りを宿した男と、自分が知っている冴季皇が同じ人物だとは思えなかった。

「ゆ……ゆる…し………」

男は今になってようやく、踏み込んではいけない領域を侵してしまったことを思い知った。しかしもう遅い。許しを乞おうにも、声を出すこともできない。その時、

「皇様、その辺でお収めください。そのままでは殺してしまいますよ」

小野寺の穏やかな諭しは、また別の意味で凄みがあった。実際に殺してしまっても、ちらと肩を竦めただけで「仕方ありませんね」と言って、淡々と処理するに違いないと思わせる冷静さが窺えたのだ。

冴季は舌打ちとともに手を離し、蒼冷めた顔でげえげえと嘔吐（えず）く男を冷徹な目で見据えた。そしてたった一言、「消えろ」と投げ付けた。

三人の男たちは足をもつれさせながら立ち上がり、一目散に逃げ出した。

「皇様、取り敢えず手にこれを巻いてください。すぐに手当てを致します」
「要らねえ。それより泰水を………」

小野寺は頷いて、泰水の手首に嵌められた拘束具を外した。そしてその身体を丹念に調べる。まるで医師が診察するような機械的な手際で。然もありなん。彼は医師免許を持っていた。

「大丈夫、気を失っているだけです。薬なども使われていないようです」
「そうか……」
「はい。そしてもうひとつ。レイプも未遂ですね。危ないところでしたが、最終的なことには及んでおりません。男性の性器を挿入された痕跡はありませんでした」

冴季はほっと息をついて頷いた。小野寺が自分を宥めるためにこういった嘘をつかないことは、分かっている。しかし、

「……だからと言って、手放しで喜べるはずもありませんが」

小野寺の言う通りだった。泰水にはどれほどの恐怖を味わわせてしまっただろうか。冴季は手を伸ばして泰水の頬に触れた。

それは柔らかくて、すべすべしていて、そして微かに湿っていた。涙の残滓。初めて泰水に触れたのがこんな状況下なんて余りに虚しくて、冴季は奥歯を噛み締めた。すると、

「ん………ん、ぅっ…………」

泰水が眉間に皺を寄せ、苦しげに呻き出した。冴季はそっと顔を近付け、

「泰水、泰水………俺だ。もう大丈夫だぞ」

できる限り柔らかく声を撓め、泰水に呼び掛ける。悪夢は去ったということを、目を開けてもあの男たちはいないということを教えてやるために。

「泰水、あいつらはいない。もう安全だ。だから―――」

その時、冴季は見た。ゆるゆると開かれた泰水の瞳が、すーっと透き通ってゆくさまを。そして初めて、人の心が絶望に侵蝕される瞬間を見た。

「ぅ……ぅぁ……ぁ、ぁ、ぁぁぁぁぁ…………」

恐怖の呻きでも、況してや安堵の溜息でもない。壊れた心から溢れ出る、狂った嗚咽。冴季の背中を冷たい戦慄が駆け抜けた。

思わず上から覆いかぶさり、震える肩を抱き締める。しかし、それが余計に泰水を刺激してしまった。

「ひぃぃッ、ぃ、ぃゃぁっ………たすけ、たすけてぇぇ………」
「泰水ッ、俺だ！　泰水！」
「やだぁッ、那津、那津ぅっ」

焦点の合わぬ目をあちこちに彷徨わせ、ひたすら那津を求める泰水。冴季は燃え上がる燻朱の感情を抑え込んで、泰水を落ち着かせることに専念した。

「泰水、いい子だ。もう大丈夫、もう安全なんだ。だから―――」
「那津ぅ、那津ぅ……たすけてぇ………はやく、はやく来てよぉ…………那津ーーーーッ」
「泰水ッ！」

ついに我慢しきれず、険しい声で叫んで泰水の両手首をきつく掴んだ。すると泰水は痛ましい悲鳴を絞り出し、凄い力で冴季の手を振り払った。そして身体を丸め、頭を抱え込んでガタガタ震え出した。

「くっ……」

冴季は為す術もなく、拳を震わせて泰水を見下ろす。世界の全てを拒絶するかのように、小さく小さく丸まって殻に閉じこもる泰水を。

いや、全てではない。ただひとつ、愛しい那津という存在を除いて。

「……皇様」

背中越しに呼び掛ける小野寺に、冴季は黙って頷きを返した。部屋を移動して泰水の携帯を取り上げ、目当ての番号を探す。それは探すまでもなく、予想通り一番最初に登録してあった。

僅かな逡巡ののち、通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴っている間、相手が電話に出なければいいと思っていることに気付き、そんな自分に深い嫌悪を覚えたのだった。




「最近、泰水の様子が少しおかしいんです。何だか思い詰めているようで……」

那津の言葉に、春留は微かに眉をひそめて「そうか…」と返した。

外出日和の休日だったが、人込みが苦手な二人は春留の新居でのんびりまったり無為の時間を楽しんでいた。受験生の那津にとって、春留と二人で過ごす何気ない時間が何よりの栄養だったのだ。

受験のことや園芸部のことなど悩ましいことは色々あったが、春留とこうしている間だけは忘れていられた。

しかしたったひとつ、泰水のことは春留といる間も頭から離れなかった。新学期が始まって少し経った頃から、泰水の顔を重苦しい翳が覆い始めていたのだ。

「クラブ勧誘の日に来て名前を書いていった新入生たちを、必死に説得して回っているようです。そんなに頑張らなくていいぞと遠回しに言ったのですが、聞き入れる様子もなくて……」
「罪悪感があるんだろうな。嘗て自分が入部希望者を追い出してしまったせいで、園芸部が存続の危機に陥ることになってしまったと」

春留の指摘に、那津は苦しげに同意した。

「恐らくそうでしょう。だから止めろと強く言うこともできなくて。とはいえ、一人で新入生の教室へ乗り込むのは、彼にとってかなり心理的負担が大きいと思います。以前より男性への恐怖心は薄らいできたとはいえ、やはりまだまだ………」

自分のせいで那津が苦しみ、自分のせいで園芸部に人が来なくなってしまった。泰水は今懸命に、その罪滅ぼしをしようとしているのだ。春留は暫し黙考し、やがて深慮のこもった声で、

「もう少し好きにさせてやったらどうだ？　昔のことは気にするなとお前が言ったところで、泰水の気持ちは収まらないだろう。それよりも、たまには二人で出掛けて泰水の心をほぐしてやるとか、そういうフォローをしてやった方がいいんじゃねえか？」

春留の言葉はいつも、那津を導く指針だった。そして今も、迷う那津にそっと手を差し伸べてくれる。那津は晴れやかな顔で頷いた。

「はい、そうします。そうだな……二人で河原へ花見にでも行こうかな。少し足を伸ばせば遅咲きの八重桜が綺麗なところがあるから、そこへ弁当でも持って―――」

泰水との計画を話す声を、携帯の着信音が遮った。那津は「すみません」と断りを入れて携帯を取り出す。

「……泰水からだ。こういうのをグッドタイミングっていうんでしょうね」

そして通話ボタンを押して「もしもし」と明るい声で応じる。が、すぐにその表情は不審げに曇った。と思ったらあっという間に眉間に険しい皺を寄せ、

「どういうことだ、それはッ」

春留も思わず居住いを改め、息を呑んで成り行きを見守る。那津がこんな風に声を荒らげるのは珍しいことだ。まさか泰水に何か―――

「……分かった。そこに行けばいいんだな？　今すぐに出る。いいか？　泰水を変に刺激するなよ」

せかせかと電話を切った那津は心なしか蒼褪めた顔をしていた。春留は敢えて落ち着いた声で「どうした」と短く問う。那津は力なく首を振り、

「新入生の冴季という男からです。詳しいことは分かりませんが、泰水がパニックを起こして俺の名前を呼び続けているからすぐに来てくれと」
「すぐに行こう」

春留の号令に従って立ち上がり、二人は家を出た。言葉にならぬ不安が頭を去来したが、努めて目を逸らし、一刻も早く泰水の許に駆け付けることだけを考えたのだった。

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