Second Love
　　　―最後の恋―

５.

トイレに駆け込んだ泰水は、鏡の前でおそるおそる顔を上げた。思った通り、涙でアイラインやマスカラがにじんで目の縁が黒ずんでいる。

「バカだ、僕………」

思いっきり彼女の挑発に乗ってしまった。何を言われても曖昧な笑みを返し、ちょっと首を傾げて「私には分かりません」と答えていればよかったのだ。今、冷静に振り返ってみれば分かる。でも―――

「許せなかったんだ……」

冴季のことを“金づる”と言って笑った女。あんな言葉は許せない。相手の人格も尊厳も何もかも踏みにじるような、言葉の凶器。思い出しただけで胸の奥が灼けるように痛む。

泰水は大きく息を吐いて、胸を押さえた。その時、

「泰水」

突然名前を呼ばれて、はっと振り返る。そこには冴季が立っていた。いつもの不機嫌そうな無表情だったが、双眸には微かな感情の揺らめきがあった。

ゆっくり近付きながら、もう一度「泰水」と名前を呼ぶ。もしかして、さっき名前を呼んでくれたのも気のせいではなかったのか。

冴季の唇からこぼれる自分の名は想像よりずっと優しい響きを湛えており、泰水は胸の痛みが鎮まるのを感じた。代わりに、甘い疼きがともる。

そんな自分に戸惑いを覚え、泰水はふいと顔を背けた。そしてわざと素っ気ない声で、

「な、なんだよ。悪かったよっ。ちゃんと……対処できなくて」

しかし冴季は何も言わず、泰水をじっと見下ろすばかり。

「分かってるよ、彼女の挑発に乗った僕がバカだったんだ。でもっ……」

再び胸の痛みと涙が蘇り、泰水は鼻をすすりながら目をこすった。すると手の甲に黒いものが付着した。

「ぁっ………」

泰水は深く項垂れて、唇を噛み締めた。きっと今自分は、とんでもなく滑稽な顔をしているだろう。恥ずかしくて惨めで、顔を上げることもできない。

何とか「ごめん…」と一言絞り出し、肩をすぼめて冴季からの非難を待った。が―――

「……今日はもう帰ろう」

こわごわ想像していたのより、ずっと穏やかで柔らかな声。泰水は思わず顔を上げ、目の前の冴季をじっと見つめた。こんな風に間近で、正面から彼を見たのは初めてかもしれない。

「……笑わないの？」
「何をだ？」
「だって僕、今すごくヘンな顔してるでしょ？　お化粧が取れてどろどろになって……汚い顔してる」

泰水の自虐的な問いに、冴季は何故か怒ったような口調で、

「汚くなんかねえよ」

そして手を伸ばして、濡れた目尻を拭ってやろうとした。しかし肌に触れる寸前でぴたりと手を止める。“僕にさわれるのは那津だけ”―――断固たる口調で叩き付けられた言葉がふと蘇り、冴季の行動に枷をはめた。

冴季は伸ばした手でポケットを探り、ハンカチを取り出す。そして無言のままそれを泰水に差し出した。泰水は信じられないとばかりにぽぅっと眺めたが、すぐに慌てて首を振る。

「い、いいよっ。汚れるから」
「素直に受け取れ。取り敢えずそれで顔を拭いたら、すぐここから出るぞ」

泰水は小声で「ありがと…」と返して、ハンカチで目尻や頬を拭った。冴季は小さく頷いて扉を開け、外に誰もいないか確かめるようにきょろきょろ見回した。泰水はちょんと首を傾げて、

「何してるんだよ」
「見りゃ分かるだろ。誰もいないか確かめてる」

そして泰水をじろりと睨んで、

「お前、ここ男子トイレだぞ」

泰水はぽかんと口を開けたが、やがて「ぁっ」と声を上げ、

「そ、そうだったぁ。僕は今、女の子なんだ。ひえ〜」

一人であわあわする泰水を、冴季は呆れたように見つめた。が、やがて表情を緩めて「しょうがねえな」と肩を竦め、そしてふわりと笑った。

「ぁ………」

嘲笑でも冷笑でもない、温かな人間性が垣間見える微笑み。入学式の日、白い花が咲き乱れる秘密の場所で見た微笑みと、ぴったり重なった。


―――冴季くん、やっぱり君は……


「ほら、泰水。行くぞ」
「う、うん」

名前を呼ばれるたびに高鳴る胸を意識しつつ、たった今目にした微笑みの造形を、記憶の襞に丁寧に仕舞い込む泰水だった。




お化粧を落として服も着替え、後部座席に乗り込むと、泰水はすぐ冴季に懇願した。

「あの……もう一度チャンスをくれないか？　今度はちゃんと対応できるから」

冴季は軽く伸びをしてから泰水の方を向いて、

「いや、一度会わせるというあの女との約束は果たしたからな。これで十分だ」
「だ、だめだよっ」

泰水は強い口調で食い下がった。

「もう一度、あのひととはちゃんと話がしたいんだ。僕もつい感情的になっちゃったから、考えをきちんと伝えることができなかった。理解してもらえるかは心許ないけど……でも、このままでは―――」
「俺は別に気にしちゃいない」

それは嘘だ、と泰水は思った。少なからず傷ついているはずだと。いや、もしかしたら傷ついていることに気付いていないのかもしれない。

「人間なんてあんなものだ。俺はそう思っている」
「………」

それもひとつの防御法なのかもしれない。受けた傷の痛みに気付かないで済むよう、感受性を鈍くする。ならば自分がしようとしていることは、余計なお世話、自己満足なのだろうか。

「でも……僕の気持ちが収まらないんだ。あんな、あんなことをっ………」

膝の上で拳をぎゅっと握り締め、込み上げる感情に耐える。

「………勝手にしろ」

冴季はそう言って、シートに深く身体を沈めた。突き放したような言い方だったが、不思議と反発心は起きなかった。泰水の耳には、“仕方ないからとことん付き合ってやる”という風に聞こえたのだ。

「ありがと」

泰水は囁くようにお礼を言って、ふわりと口許を綻ばせた。泰水の微笑みを見た冴季は、黙ってふいと顔を背ける。

いつもの無表情だったが、そこには微かな作為の跡が見られた。それは紛れもなく、照れ隠しの無表情だった。

それから二人は特に言葉を交わすこともなく、ただ窓の外を流れる景色を眺めて過ごした。けれど決して気詰まりな沈黙ではなく、時間の停滞を共有しているという感覚はただひたすら心地よかった。

泰水は無意識のうちに“もっとこうしていたいなあ”と思い、そんな自分にはたと気付いて顔を赤らめたのだった。

しかし、穏やかな時間にも終わりが来ようとしていた。泰水の自宅はもうすぐそこだった。

「それじゃ、また都合がついたら連絡して。僕はいつでもいいから」
「……ああ」

泰水は少し逡巡した挙句、ちょっと身を乗り出して、

「それで……もう一度彼女に会って話したら、そしたら冴季くん、温室に来てくれる？」
「まあ、約束だからな。取り敢えず行ってやるよ」

冴季の答えを聞いた泰水は、ぱぁっと顔を輝かせて「やったぁ」と無邪気に喜んだ。そして「待ってるね」と明るい声を掛けると、車から降りた。が、扉を閉める前に慌てて顔を近付けて、

「借りたハンカチ、洗って返すからね！」

そう言ってにっこり笑うと、くるりと背中を向けて走り去った。

「……律儀なヤツだな」

呆れた口調の呟きは、ほんの少し浮ついていた。




泰水を自宅へ送った帰りの車中、冴季の携帯が鳴った。ディスプレイを一瞥すると、自然と眉間に皺が寄った。美沙からだった。

今無視しても、またすぐに掛けてくるだろう。この電話が済んだらすぐに彼女の番号を削除しようと思いつつ、通話ボタンを押した。

「何だよ」
『皇？　よかった、出てくれて』

美沙はほっとした様子でそう言って、さらに殊勝な言葉を続けた。

『さっきはごめんね。皇があんな可愛い人を連れて来たから、つい悔しくてカッとなって、酷いこと言っちゃった』
「別にどうでもいい。気にしちゃいない」
『私は気にするわ。さっき言ったこと嘘だからね。あんなこと思ったこともない。ホントよ』

冴季は感情のこもらない声で「それはそれは」と返し、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。しかし美沙は気にせず、精一杯の誠意を込めて、

『それでね、彼女、泰水さんにもう一度会わせて欲しいの。会ってちゃんとお話したい。私の本心を伝えたい』
「ああ、あいつもお前にもう一度会いたいと言ってた」

電話の向こうで、美沙は一瞬黙り込んだ。がすぐに明るい声で、

『ほんと？　良かったぁ。うん、それは………好都合だわ』

冴季は思わず眉をひそめた。美沙の声に、不快にねばつく澱のようなものを感じたのだ。しかし冴季は深く追及することなく、次に会う約束をして電話を切った。

それから暫くの間、美沙の声が耳に張り付いて離れなかった。




三年生の教室を、一年生が訪ねてくること自体珍しい。しかも訪ねてきたのがあの冴季皇とくれば、教室内が騒然とするのも無理なかった。

「工藤泰水はいるか？」

先輩に対するとは思えぬ尊大な態度だったが、咎めようとする者はいなかった。陰でそっと眉をひそめるくらいが、精一杯の意志表示だった。

「冴季くんっ？」

泰水はぱたぱたと足音も軽く駆け寄った。その頬はほんのり赤らんでいる。肌が白いせいか、僅かな血流の上昇もすぐ顔に出てしまうのだ。

「美沙と連絡が取れた。日時はこちらで決めさせてもらったからな」
「あ、うん。もちろんいいよ。そちらに合わせるから」

そして待ち合わせの約束を交わすと、泰水は「ぁっ」と声を上げてポケットを探り、

「あの、これ。この前借りたハンカチ。どうもありがとう」

両手で恭しく差し出されたハンカチは、綺麗にアイロンが掛けられていた。冴季は「ああ」と頷いて受け取ろうと手を伸ばす。が、途中でぴたりと手を止めて、泰水の指先をまじまじと見つめた。

「お前、その手どうした？」

冴季が何を言わんとしているのか気付いた泰水は、慌てて手を後ろに隠す。指先はぼろぼろに荒れて、爪の間には泥が残っていたのだ。

こんな汚い手を見られてしまい、身の置き場もないほど恥ずかしかった。泰水は俯いたまま消え入りそうな声で、

「ご、ごめん。さっきまで花壇をいじってたから……。手は洗ったけど、泥がちゃんと取れてなかったみたいだ」

そして返すはずだったハンカチを再びポケットに仕舞い、

「こんな汚い手で触ってごめんね。もう一度洗ってから返すよ」
「必要ない。いいから返せ」
「でも……」
「そんなつもりで言ったんじゃない」

ただ、手が荒れて痛そうだと思ったから、ふと口に出しただけのこと。汚いなどと思いもしなかった。冴季は強引にハンカチを奪い取り、申し訳なさそうに俯く泰水の後頭部を眺めつつ、

「そんなに手が荒れるものなのか？」
「う、うん。水仕事が多いし。肥料とか薬品も扱ったりするし」
「手袋をはめて保護しないからだ」
「うん。でも、じかに土に触れた方がいいって那津が―――」

言葉の途中だったが、冴季はふいと顔を背けて横を向いてしまった。何か気に障ることを言ってしまったのかと、泰水はこわごわ見上げる。冴季は尖った視線で応えて、

「別にどうでもいいけどな、俺の女として誰かに会う時に、そんな汚い手で来られちゃ迷惑だ。ちゃんとしろ」

泰水は叱責を受けた子供みたいに肩をすぼめて小さく小さくちぢこまり、声を絞り出して「ごめんなさい」と謝った。

「迷惑かけないようにちゃんとするから………それじゃ」

そしてぺこりと頭を下げると、背中を向けて教室の中へ逃げ帰った。冴季は豪快な舌打ちとともに、戸を乱暴に閉めた。むかむかと込み上げる苛立ちは、泰水に対してではなく自分に向けられたものだった。

何故あんな心にもないことを言ってしまったのか、自分で自分が分からない。分からないながらも、泰水の言葉の何かが気に障ったことは事実だった。

「くっそ……」

内心の苛立ちを反映した荒々しい歩みで、どこへともなく向かう。気が付けば、あの場所、初めて泰水を見た桜の樹の下に来ていた。花はほとんど散って、枝の先からは柔らかな幼緑が伸びていた。

「もう、花びらは落ちてこねえな………」

冴季はぽつりと自分に言い聞かせ、そして桜の樹に背を向けた。その時、名残り桜の花びらが一枚、肩にふわりと舞い降りたが、冴季がそれに気付くことはなかった。

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