Second Love
―最後の恋―
４.
こんなことをしている自分が、今でもまだ信じられない。春らしいモーヴピンクのワンピースを着てほんのり薄化粧をした泰水は、革張りの後部座席に冴季と並んで座っていた。
自家用車ではなくリムジンという表現が相応しい高級車は、外国の香水の匂いがした。以前この車に乗った女性の残り香なのだろうか。
「……もし、僕が男だってバレたらどうするんだよ」
シートに浅く腰かけた泰水は、スカートの裾からちらちら見え隠れする膝小僧を気にしつつ、前を向いたまま冴季に訊ねた。冴季もまた、泰水の方を見ることなく鼻を鳴らし、
「まあその時はその時だ。金持ちの倒錯趣味とでも言っておけば、誤魔化せるんじゃねえの？」
「なんだよそれ……」
理解できないとばかりに黙り込む泰水をちらと一瞥して、
「例えば、の話だ。バレないようせいぜい頑張れよ。バレた時点でこの契約は御破算だからな」
「わ、わかってるよ……」
何とか言葉を返して平常心を装った泰水だったが、本当は今にも逃げ出したいほど恐かった。
この大仰な車も、自分を値踏みするような目で見た運転手も、隣に座っている冴季も、これから会うことになる元恋人も、何もかもが自分とは異次元の存在に思えて、未知の世界にたった一人投げ出されたような孤独と不安に苛まれた。
それでも何とか逃げ出さずにいられるのは、園芸部を存続させたいという強い想いがあるからだった。
―――見ててね、那津。僕がんばるよ
そしてもう一つ、泰水がここにいる理由。それは―――
―――冴季皇。君のことがもっと知りたい……
入学式の日に、初めて花壇を訪れた時に、彼が見せた柔らかな表情。あれと同じものをもう一度見たい。凍った瞳がゆるゆると融けて、温かな光に潤ってゆくさまを―――
泰水は自分を鼓舞するようにふっと息を吐き、窓の外を流れる景色に身を委ねた。
一方、冴季は半ば呆れ、半ば苛立っていた。この交換条件を口にしたのは、軽い思い付きだった。半分は冗談みたいなもので、まさか承諾するとは思っていなかったのだ。
確かにこれから会う女は厄介で、何度他に好きな女ができたと言っても信じようとせず、実際に会わせてくれるまでは諦めないと言い張って冴季を疲れさせた。
とはいえ、現在冴季には特定の彼女はおらず、誰かに恋人役を頼んだりしたらそれこそやぶ蛇。弱みを握ったとばかりに、今度はその女が色々な要求を押し付けてくるに違いないのだ。だからこうして泰水が偽の恋人役を引き受けてくれて助かったのは事実だった。
それでも冴季は不愉快だった。ここまでして俺の力が欲しいのか。園芸部への援助が欲しいのか。あんたも結局、俺の周りに群がる蝿みたいな連中と同じなのか―――
いや、それは疾うに分かりきったこと。人間の欲望に例外などない。なのに何故、こうも不愉快なのか。自分は一体、今隣にいる彼に何を期待していたのか。
―――馬鹿馬鹿しい
入学式の日に、桜の花びらを追い掛ける姿を見た、ただそれだけ。それだけのことだ。冴季は軽く頭を振って、馬鹿げた考えを追い払った。そして、努めて冷めた目で隣の泰水を一瞥した。
彼は窓の外を眺めつつ、しきりにスカートの裾を気にしている。冴季は鼻先で嗤いながらぬっと手を伸ばした。
「そんなに気になるのか？」
からかうようにそう言って、泰水の腰を抱き寄せた。その反動でスカートがずり上がり、太ももまで露わになる。その痛々しいほどの白さに目を奪われた瞬間、押し殺した悲鳴と共に身体を突き飛ばされた。
「ぼ、僕に触るなッ」
両手を胸の前で交差させ、自分の身体をぎゅっと抱き締める。明らさまな防御の姿勢と切実な訴えに、冴季は険しく眉をひそめた。が、すぐに口許を吊り上げ、
「なにムキになってんだよ。誰が男相手に欲情するか」
言葉は軽かったが、その声は本物の苛立ちで淀んでいるようにも聞こえた。泰水は防御の姿勢を崩さず、表情だけは強気を保って睨み付け、
「何とでも言えよ。とにかく僕にさわるな」
「触っていいのは愛しいナツだけ、か？」
お前の気持ちなんて疾うにお見通しだと言わんばかりに追及する。対して泰水は凄絶な笑みを返し、
「そうだよ。僕にさわれるのは那津だけだ」
冴季に、この言葉の真の意味が分かるはずもなかった。むらむらと込み上げるどす黒い感情を抑えて、精一杯の嗤笑を拵え、
「それはそれは。でも残念だな。愛しい男は綺麗な先輩のもの、か」
心の柔らかい部分を抉る言葉にも、泰水は唇を噛み締めてじっと耐えた。やがて小さな小さな声で、
「そんなこと………分かってるよ………」
そう、もうずぅっと前から分かっていたこと。那津が自分のものになることは、決してないのだと。今さら指摘されたところで、改めて傷ついたり苦しんだりするはずが………
「分かっ…て……る………」
泰水は無意識のうちに胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返した。
泰水が連れてこられたのは、変わったデザインのビルだった。看板などが一切出ていないから飲食店やホテルではないだろうが、一般の住居にも見えない。
不安を募らせつつも大丈夫と自分に言い聞かせていると、車は地下の駐車場へ入っていった。緩やかなスロープを下りきって、広い駐車スペースへ。すると冴季は「女が来てるかどうか確かめてくる」と言って、携帯片手に車を降りた。
泰水は深い溜息をついて、離れた場所で携帯を操作する冴季をぼぅっと眺めた。その時、
「工藤様、でいらっしゃいますね。今のうちにこれをお渡ししておきます。お納めください」
初対面の時に小野寺（おのでら）と名乗った運転手が、振り向いて白い封筒を差し出してきた。泰水は無邪気な視線を返して、
「何でしょうか」
小野寺は不可解な笑みと共に「今日のお礼です」と答えた。そしてさらに腕を伸ばして封筒を受け取るよう促す。
泰水は訳が分からぬながらも受け取って、中を見た。そこには、真新しい一万円札が数枚入っていた。
「な、なんですかこれはッ」
「ですから、今日のお礼ですと」
そして小野寺は微かに眉根を寄せ、「足りないですか？」と聞いてきた。泰水は封筒を突き返し、
「要りません。お返しします」
小野寺の表情に、ようやく感情らしきものが現われた。切れ長の目を大きく見開いて、目の前に戻された封筒を不思議そうに見つめる。
泰水は不愉快を隠そうともせず、尖った声で、
「冴季くんに頼まれたのですか？」
「……いえ、違います。あのお坊っちゃんの我がままや気紛れにお付き合いいただいたお礼として、皆さんにお渡ししているものです。冴季家の慣習とでも考えていただければ」
今度は泰水が驚く番だった。小野寺の顔を見返し、
「皆に？ つまり、冴季くんと付き合う人全員にということですか？」
「毎回という訳ではありませんが、ご迷惑をおかけしたり、不快な思いを強いてしまった場合にはお渡ししております。こうでもしないと、あの方の周りには誰もいなくなって、孤立してしまいますからね。やはり友人の一人や二人はいないと―――」
「こういうやり方が、余計に彼を孤立させることになると何故分からないのですかっ」
校内を歩いている冴季の姿が思い浮かぶ。周りにたくさんの取り巻きを引き連れている彼は、不機嫌な王様ではなく孤独な王様だったのだ。
「人間同士なんだから、うまくいかない時もあるでしょう。誤解することだってあるだろうし、思いが伝わらなくて苦しむこともあります。不愉快にしたりさせられたり、そんなの日常茶飯事だ。それを全てこんなやり方で解決していたら、彼は、冴季くんはっ―――」
冴季が抱え込む凄絶な孤独に胸を圧迫され、泰水は言葉を失った。しかしすぐにキッと眦を決して小野寺を見据え、
「とにかく、それを早く仕舞ってください。そして金輪際、僕の前に出さないでください」
小野寺は表情を変えず、封筒を胸ポケットに仕舞った。そして淡々とした口調で、
「珍しい人ですね」
「これが普通、当たり前です」
強い口調で即答を返す泰水を真直ぐ見つめ、やがてごく淡い笑みを浮かべた。
「当たり前……ですか。確かにそうなのかもしれませんね」
泰水ではなく自分に言い聞かせるように呟くと、前を向いて運転席に身を沈めた。
「なあ、ここは一体、どういう場所なんだ？」
駐車場からの直通エレベーター。全面鏡張りで天井からは小さなシャンデリアがぶら下がっている。狭い空間に氾濫する光の粒子に目を瞬かせながら、泰水は訊ねた。
「会員制のクラブみたいなものだ。金と暇を持て余しているお坊っちゃん、お嬢ちゃんが集まって、酒を呑んだりゲームをしたり」
「冴季くんも、よく来るの？」
「まあな。別に楽しくはねえけど、退屈凌ぎにはなる」
＜退屈は精神の頽廃を呼ぶ＞―――名前は忘れたけれど、有名な作家の言葉だったと思う。もちろん泰水は口にしなかったが。
エレベーターが止まった。階数表示がないから何階に着いたのか分からないけれど、ともかく冴季の後に付いて降りた。
途端に、甘ったるい動物性の匂いが鼻孔にねじ込んできた。車内に染み込んでいたのは、この匂いだったのか。
エレベーターホールはさして広くはなかったけれど、悪趣味すれすれの豪華な装飾で溢れ返っていた。毛足の長いワインレッドの絨毯は歩きにくく、履き慣れないヒール付きのサンダルは埋もれて幾度もよろけてしまう。
もちろん冴季が手を貸そうするはずもなく、泰水もそれを望んではいなかったから、何とかふんばって後を付いていった。
廊下の突き当たりを右に曲がり、一番手前の扉を開ける。すると中から甲高い笑い声が響いて、泰水の鼓膜を不快に撫でた。
「なんだ、お前らも来てたのか」
どうやら件の元彼女以外にも、知り合いが数人来ているようだ。冴季は適当に声を掛けながら室内へ。泰水はその後に付いて行くべきか迷った挙句、部屋の入口からそっと顔を覗かせた。
むっとこもった空気が顔を撫で、思わず眉をひそめる。真っ昼間だというのに黒い遮光カーテンのせいで室内は暗く、人工の照明がどぎつい陰翳を刻んでいた。
何もかもが自分の入室を拒んでいるように思えて、足が竦んでしまう。一刻も早くこの場から立ち去りたい。まだすべきことを何もしていないのに、切実にそう願ってしまう。
が、もちろんここで逃げ出すわけにはいかない。すでに、室内にいる者たちは泰水の存在に気付いていた。
「冴季ぃ、彼女、連れてきたんだろ？ 紹介してくれよ」
ここの空気を反映した湿った声で、知り合いらしき男が冴季に迫った。冴季は「ああ」と気のない返事を返して、泰水を顎で呼ぶ。
それに応じて泰水がしずしずと姿を現わすと、室内の男たちは「へえ」とか「ほぅ」などと感嘆の声を上げ、素直な驚きを示した。
そのうちの一人は感慨深げに、
「意外だな。お前がこういう子を連れてくるなんて」
抽象的な物言いだったが、言わんとすることは皆に通じていた。これまで冴季が連れてきたのは、性の匂いを明らさまに漂わせ、自分の魅力を見せ付けることに余念のない、良く言えば積極的、悪く言えば商売ずれした女性ばかりだった。
そんな冴季の女性遍歴に突如咲いた、清らかで可憐な花。桜色の柔らかなワンピースに包まれた華奢な身体からは、微かに甘い春の匂いが漂う。緊張のせいか頬はほんのり色付いて、伏せ気味の瞳は美しい飴色。そこに長い睫毛が影を落とし、淡い陰翳を贈っていた。
耳が隠れる程度の髪は毛先がふわふわとハネて、輪郭を優しく包み込む。全ての細部が愛らしい造形を誇り、この人工的で極彩色な病める空間を癒す憩いの花そのものだった。
「……工藤泰水、だ」
冴季のぶっきらぼうな紹介に合わせて、泰水はぺこりと頭を下げた。部屋の奥からひりひり灼けるような視線を送ってくる女性の存在に気付いていたが、俯き加減のまま冴季の傍に寄り添った。
「泰水ちゃんかぁ、可愛いなあ。やっぱ本命にするならこういう子だよな」
「そうそう。さすがは冴季。ちゃんと本命と遊びを弁えてるんだな」
泰水を舐めるようにじろじろ見ながら、無責任なことを言い散らす。もちろん、同じ部屋に冴季の元彼女がいると知った上で。
彼らは互いに目配せを交わし、声に出さず「面白いことになりそうだな」と呟いた。そして徐に立ち上がり、
「そんじゃ、俺らは隣の部屋に行ってるな。三人だけの方が話しやすいだろ？」
気を利かせたつもりだったのだが、意外なことに冴季は首を振り、
「いや、別に構わねえよ。深刻な話するわけじゃねえし。美沙が彼女に会わせろってうるせえから連れてきただけのことで」
“美沙”とは元彼女の名前。部屋の奥で栗色に染めた髪を指に巻き付けながら、攻撃的な眼差しを送っている。
冴季は泰水を伴って彼女の向かい側に座り、「これで満足か？」とからかい気味に訊ねた。
美沙はきつい表情を返しつつも、内心戸惑っていた。まさか、冴季がこんな女を連れてくるとは思っていなかったのだ。冴季の周りにいる女のタイプは、大体把握しているつもりだったのに。
「ほんとに……皇の彼女なの？」
「ああ」
「趣味が変わったのね。そういうタイプは興味ないと思ってたけど」
「まさか。俺だって本当は、こういう清純な子の方が好きだ。ただ、なかなか出会う機会がなかった。周りにいるのはお前みたいなのばかりだしな」
明らさまな当てこすりに、美沙の表情は一変した。視線は陰湿な攻撃性を帯び、口許を残酷な笑みが掠める。
「清純、ねぇ…。こういう女の方が、実はしたたかなのよ。清純そうに見えて、裏で何をやっているか知れたもんじゃない」
そして美沙は身を乗り出して、ねっとりとした声で泰水に訊ねた。
「あんた、幾ら貰った？ たくさんふんだくったんでしょ？」
彼女が何を言わんとしているのか、泰水には分かった。だからこそ必死に首を振った。お願い、ここでその話はしないで。もしそれを知ったら、冴季がどんなに傷つくか―――
しかし美沙はにやにや笑いながら追及を続ける。
「嘘ついても無駄よ、分かってるんだから。あの小野寺とかいう運転手に、白い封筒渡されたでしょ？ 幾ら入ってたのよ。十万？ 二十万？ いいのよ正直に言って。今、ここにいる連中はみんな貰ってるんだから。うちのお坊ちゃんをよろしくお願いします、ってね」
「……そんなもの、貰っていません」
泰水は俯いたまま、何とか答えた。隣の冴季はぴくりとも動かない。その心中は分からないが、恐くて顔を見ることもできなかった。しかし、
「嘘言わないでよッ。どうせ金づるなんでしょ？ そうよ、あたしだって、ここにいるあいつらだって―――」
美沙の言葉が泰水を奮い立たせた。泰水はキッと眦を決して真直ぐ顔を上げ、彼女に正面から挑みかかった。
「彼に謝れッ！ 金づるだなんて失礼だ！」
「なっ……金づるだから金づるだって言ってんのよ！ 何が悪いのよ。ていうか、あんたも同じなんでしょっ」
泰水は両手を振り上げて拳をテーブルに叩き付けた。美沙は「ひッ」と悲鳴を上げて、怯えた眼差しでこわごわ見上げる。泰水は怒りに震える声で、
「お前と一緒にするな！ 愛情や友情に見返りなんか必要ないっ」
その瞬間、名も知らぬ白い花に微笑みかける冴季の姿が脳裏に浮かんだ。そうだ、あれが本当の彼なんだ。なのに周りの人間が彼の稟質を汚して、孤独へ追いやってしまったのだ。
「ぅっ………ぇぇっ…………」
込み上げる感情に翻弄されるまま、泰水は椅子から立ち上がった。そして二人に背を向けて部屋から出ようとする。
「泰水っ」
背後から自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。冴季が名前を呼んでくれたことなんて、これまで一度もなかったのだから。
泰水はそのまま振り返ることなく、部屋を飛び出したのだった。
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