Second Love
　　　―最後の恋―

２４.

冴季に会えたことを報告すると、誰もが喜んでくれた。特に那津は、昨夜は同じベッドで一緒に眠ったんだと教えると、「そうか…」と感慨深げに呟いて嬉しそうに目を細めた。

もう大丈夫だろう。泰水のことは彼に安心して任せられる。出口の見えない暗闇を春留が導いてくれたように、冴季もまた泰水の手を引いて光の射す方へ向かうはずだ。

「良かったな、泰水。今日は園芸部の仕事はいいから、冴季のところに行ってやれよ」
「え、でも……」
「今日は俺一人で大丈夫だ。心配しなくていいぞ」

本当は、ちっとも大丈夫じゃないことを知っている。草花が最も成長著しい季節。肥料変えや株分け、植え変え、害虫駆除などしなければならないことは山積みのはず。

しかし尚も躊躇を見せる泰水の背中をぐいぐい押して、

「ほら、お前が来てくれるのを今か今かと待ってるぞ、きっと」

優しい那津、温かい那津。泰水は目尻に滲んだ涙を指先で拭いながら、こくんと頷いた。

「ごめんね、じゃあ今日だけ……」

背中を押されるまま温室を出て、いつものように裏門に向かった。するとそこには見慣れた男性の姿が。優雅に一礼して、

「皇様の病院までお送りいたします」
「小野寺さん………」

小野寺は微かに目を細めて繊細な微笑を見せた。普段が鉄壁の無表情だったから、これだけでも十分に感情が伝わった。

笑顔と呼ぶには余りにささやかな造作だったが、そこには“またお会いできて嬉しいです”という彼の想いがにじんでいた。

「あ、ありがとうございます」

泰水はぺこりと頭を下げて、後部座席にいそいそと乗り込んだ。解雇されたはずの小野寺が何故ここにいるのか気にはなったが、泰水は何も言わずただ窓の外を眺めていた。

車はあっという間に病院に到着し、泰水はもう一度お礼を言って降りた。そして七階の窓を見上げる。あそこに大好きな人がいて、自分が来るのを待っててくれている。

つい昨日までは難攻不落の要塞にしか見えず、窓を見上げるたびに切なさやもどかしさで泣きそうになるばかりだったが、今はひたすら胸の高鳴りを覚える。早く、早くあそこに行きたい、と。

泰水はいったん呼吸を整えてから、病院の中へ。エレベーターで四階へ上がると、何度も訪れては拒絶されたナースステーションへ。

もう大丈夫と分かってはいるが、これまでの制止がトラウマとなっているのかちょっとだけ震えてしまう。もし止められたらどうしよう、と。

しかしそれは杞憂に過ぎなかった。看護師はちらと泰水の顔を一瞥したが、中から出てこようともせず書類を整理している。

泰水はほぅっと息を吐き出して、七階へ向かう専用エレベーターに揚々と乗り込んだのだった。




「お、早いな」

その人は、今朝別れた時と同じ美しい笑顔で迎えてくれた。泰水はここが病院であることも忘れ、ベッドに向かって全速力で駆け出す。

「皇っ」

そしてぎゅっと抱き着いたが、はたと我に返って慌てて離れた。恥ずかしそうに頬を染め、

「ご、ごめんね、つい……」

するといきなり抱き寄せられ、小さな悲鳴を上げて冴季の胸に倒れ込む。冴季はほんの少し不機嫌な声で、

「何でごめんね、なんだよ」
「だって、今朝も会ったばかりなのに僕ってばベタベタしちゃって……」
「ベタベタしちゃ悪いのかよ」

冴季はそう言って、泰水の身体をベッドの中に引きずり込んだ。

「く、靴を脱がなくちゃ」

あわあわしつつ靴を脱ごうとする泰水に構わず、その身体を腕の中に拘束する。そしてまだ戸惑い気味の泰水に、「キスしていいか？」と訊ねる。

本来の冴季はここまで紳士ではないのだが、まだ泰水が接触に慣れていないだろうと気遣ってのことだった。

そんなさりげない思い遣りが嬉しくてくすぐったくて、泰水は自分から唇を突き出してちょんと触れ合わせた。途端に唇を激しく吸われ、身体の芯に熱がともる。唾液を弾かせて唇を離してもなお、その余熱が四肢に滞留していた。

「ね……もうおくすり飲んだ……？」

ふわふわした口調で訊ねる泰水に、冴季は当然と言わんばかりに首を振り、

「いや、まだだ。お前に飲ませてもらおうと思って飲まずに取ってある」

答えながらキャビネットの上を指差す。泰水は「もお」と口を尖らせつつも薬を包装紙から取り出して、冴季の唇へ。そして口移しの水をとろとろと注ぎ込んだ。

飲み終わった後は当然のように舌を絡ませ、薬の苦味を舌の甘さで駆逐する。いつの間にか泰水の身体はベッドに押し付けられ、飢えた冴季の執拗な吸い上げに翻弄されていた。

頭に霞みがかかり始めたところでようやく解放された泰水は、濡れた瞳で咎めるように冴季の顔を睨んだ。対して冴季はちらと肩を竦め、

「ヤバいな。お前がいねえと薬が飲めなくなりそうだ」
「もぅ……皇のバカ………」

泰水のとろけるような非難の言葉に、冴季は思わず目を細める。そして「冗談だ」と言ってベッドの上にどさりと寝転んだ。

するとそれまで甘えた仕草を見せていた泰水は起き上がり、冴季の傍にぺたんと正座した。冴季は怪訝な顔付きで、

「どうした？　急に……」
「あ、あの、あのね。これから毎日会いに来るけど、でも来る時間は遅くなっちゃうかも。園芸部の仕事を終えてからになるから……」

悪戯の弁解でもするように、肩をすぼめてぼそぼそと伝える。俺より園芸部の方が大事なのか―――そんな風に思われたらどうしよう、不愉快にさせてしまったらどうしよう。

「ごめんね。あの、季節的に今が一番忙しいんだ。だから那津一人にやらせるわけにはいかない。僕も自分の仕事を―――」

「泰水」

言葉の途中で突然名前を呼ばれ、思わずびくんと首をちぢめる。そしておそるおそる冴季の顔を窺うと、怒ったような悲しいような表情の冴季がこちらをじっと見ていた。

「そんな風に俺の機嫌を窺うな。悪くもねえのに謝るな。お前があの温室と花壇を何より大事にしていることは分かっている。それに、そういうお前だから俺は惚れたんだ」
「皇……」

冴季は表情を緩め、泰水の紅く染まった頬を優しく撫でた。

「俺は必要なものがあったら小野寺や看護師を呼べばいいが、花壇や温室にはお前らしかいないんだからな。ちゃんと世話してやれよ」
「あ、ありがと……皇……」

泰水は涙声で感謝を伝えると、そのまま引き寄せられるように冴季の胸に抱き着いた。そして顔をすりすりしつつ、

「そういえば……小野寺さんにここまで送ってもらったよ。また皇の付き人に復活したの？」
「ん？　ああ、そうだ。俺が親父に言って解雇を撤回させた」
「久野とかいう人は？」
「あいつは解雇された。当然だろ？　この病室には決して入れるなと冴季の家から厳しく言われていた“危険人物”を、易々と侵入させてしまったんだから」

“危険人物”呼ばわりされた泰水はちょっと頬を膨らませて、「もうお薬飲ませてあげないっ」と甘えた声で不貞腐れたのだった。




言葉通り、それから泰水は毎日冴季のもとを訪れた。

病室で一人の食事は味気ないだろうから、なるべく夕食の時間は一緒に過ごせるように努めた。もちろん園芸部の仕事もきちんとこなしつつだったから、体力的にきつい時もあったが、冴季の前でも那津の前でも疲れた顔を見せず笑顔で過ごした。

とはいえ、そんな泰水の気持ちなど二人とも疾うにお見通しだった。それほど丈夫ではない泰水の身体が心配ではあったが、二人とも黙って見守ることにした。

無理をするなと言ったところで泰水は聞き入れないだろうし、自分の思うようにやらせてやりたいという気持ちの方が強かったから。

学校が休みの日は、ずっと冴季の傍にいた。広い病室をちょこまかと動き回っては、冴季が快適に過ごせるよう心を配った。

定期的に窓を開けて空気を入れ替えたり、肩が冷えないようにセーターを掛けてあげたり。小さなことではあったが、その細やかな気遣いが冴季の心を温かく潤した。

そして何より冴季を喜ばせたのは、花壇の花だった。那津が花壇から数本切って持たせてくれたのだ。

こんな素敵なお見舞い品を何故もっと早く思い付かなかったのかと、泰水は悔しがると同時に那津に感謝した。

広くて豪奢ではあるが彩りに欠ける退屈な病室に、ポピーやマーガレットが春の風を呼び込んだ。冴季はその柔らかな花弁をそっと撫でながら、「早く退院してえな」と本音をこぼした。

こうした親密さは、ある弊害ももたらした。泰水を求める気持ちが冴季の中で膨張し続け、もはや抑え切れないところまできていたのだ。

泰水は何度か冴季の入浴を手伝うと申し出て、そのたびに却下されては不貞腐れた。そして、そんなやり取りがあった日には必ずと言っていいほど生々しい夢を見た。

病室に備え付けの広い浴室で、泰水と一緒に風呂に入る夢。最初、泰水は服を着たまま冴季の入浴を手伝っていたが、やがて服を一枚一枚剥がれて雪原のごとき素肌を晒す。

恥じらう姿に煽られ、獣欲が高まるままその場に組み敷いて犯してしまうのだ。目が覚めるといつも深い自己嫌悪に陥ったが、と同時に身体の疼きは誤魔化しようもなく、仕方なく一人で処理したこともあった。

もちろん、それは当分の間は夢のままであることは分かっている。少しずつ前進しているとはいえ、性的な交わりに対する恐怖感、嫌悪感はまだ泰水の中に深く刻まれているはずだ。

せっかく快方へ向かっているのに、ここで無理をしたらまた逆戻り。これまでの歩みが水の泡になってしまう。

深い口付けは何度も交わしたが、冴季がそこからほんの少しでも先に進むような素振りを、具体的に言えば素肌への愛撫のようなものを見せると、泰水は敏感に察知して身構えてしまう。冴季がすぐに手を止めると、今度は申し訳なさそうにちぢこまってしまうのだ。

冴季は「悪かった」と囁いて、優しく抱き締めつつ萎縮した身体がほぐれるのを待つしかなかった。

そんな一進一退を繰り返しながらも、二人は結び付きを深めていった。この入院生活は、二人にとって忘れ難いものとなった。

最上階の特別室で過ごした親密な時間。悪戯好きな神様からの贈り物のようなひととき。しかしそれは永遠に続くものではない。そう、冴季の退院の日が訪れたのだ―――




「この部屋とももうお別れかあ……」

惜別の色濃い感慨を込めて、泰水がぽつりと呟いた。人間の記憶なんていい加減なもので、ナースステーションで止められて悔しさに唇を噛み締めたことも、外からここの窓を見上げては涙をこらえたことも、今となってはいい思い出だった。

「こんなこと言ったら皇に悪いかもしれないけど……ちょっと寂しいな」

小さな声で本音を漏らして、窓枠にそっと身を乗り出した。この窓から見える綺麗な月が大好きだったが、これも今夜でお別れだ。

「何だ、もっと入院してた方が良かったか？」

からかい混じりで訊ねる冴季に楚々と首を振ったものの、本心は微妙なところだった。

当たり前のことだが、退院したら冴季は実家に戻ることになる。学校でも会えるし、休日には一緒に出かけることもできるだろうが、無為の甘い時間に二人でゆったり身を浸すような贅沢は、難しくなるに違いない。もちろん、実家に遊びに行くなんて無理だろうし。

「退院したって何も変わらねえよ。会うのがここではなく別宅になるぐらいで」

冴季の言葉は、泰水の心に複雑な陰翳を刻んだ。また二人きりの時間を過ごせるのは嬉しい。でも、これまで冴季に愛された女性たちの声なき声に圧倒されてしまうのではないか、と。

そんなもの過去の幻影に過ぎないと分かってはいるが、気にしないでいられるほど自分の心は強くない。

でも、このもやもやを冴季に伝えようとは思わなかった。変えようのない過去のことを持ち出すのは酷だし、何より冴季は自分の過去を全て受け入れてくれた。そんな彼に対し、自分が何を言えるというのか。

泰水は精一杯の笑顔を拵えて、「うん、何も変わらないよねっ」と応えた。しかし何故か冴季は溜息をつき、泰水の隣に立って肩を抱いた。そして少し呆れたように、

「あのなあ、女を連れ込んだ部屋にお前を呼ぶわけねえだろ。あのマンションは引き払って、別の新しい部屋を買った」

泰水はぱたぱたと大きく瞬きしたが、すぐに頬を染めて俯き、

「な、なんで分かったの？　僕がそのことを気にしてるって………」
「俺が別宅って言ったら、泣きそうな顔したじゃねえか」
「泣いてないもんっ、笑ったもん！」
「ばぁか。俺の目を誤魔化せると思ったのか？」

反論の言葉もなく、紅い顔のまま黙り込む泰水の耳許に口を寄せ、

「新しい部屋も、窓から見える月がとても綺麗だ。お前もきっと気に入るぞ」

泰水はゆるゆると顔を上げ、視線を重ねる。この窓から見える月を泰水が気に入っていたことに、冴季はちゃんと気付いていた。

「……一緒に月を眺めたり、テラスで花を育てたりできる？」
「ああ。お前らの花壇に負けないくらい、テラスを花で埋め尽くそう」

泰水はこくんと頷いて冴季の胸に顔をうずめ、小さな声で「ありがと…」と捧げた。その頭をぽんぽんと撫でて、

「ほら、そろそろ帰る時間だぞ」

しかし泰水は驚いたように顔を上げて、

「なんで？」
「なんで、って。いつも今くらいの時間に帰ってただろ？　余り遅くなると家族が心配するぞ」
「へいき。今日は皇のとこに泊まるって言ってあるから」
「駄目だ。帰れ」

厳しい声で命令する冴季にしがみつき、駄々を捏ねるように何度も首を振った。

「やだっ。最後の夜なんだよ？　朝まで一緒にいさせて。ね？」

冴季は作為的な溜息をついて、泰水の顔を見下ろした。何故分かってくれないのだろう。怪我の治った身体でひと晩中一緒にいるなんて、拷問に近い仕打ちだ。お休みの挨拶代わりにキスなんてしたら、その後の安眠は保証できない。

「お願い、皇……」

とはいえ、飴色の瞳を潤ませて懇願する泰水にノーとは言えなかった。複雑な心境を滲ませつつ「好きにしろ」と言い置くと、泰水の身体を突き放してそのまま背中を向けたのだった。

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