Second Love
　　　―最後の恋―

２５.

部屋に備え付けの風呂は広さも十分でアメニティも充実しており、ここが病院であることを忘れそうになってしまう。

政治家や芸能人が入院する“特別室”の存在は知っていたけれど、実際にその“特別”ぶりを目の当たりにすると、また違う感慨が込み上げてくる。

こういう部屋を当然のように使える人間とは、やはり棲む世界が違うのかもしれない。乳白色の柔らかな湯に浸かりながら、泰水はそんな翳りを帯びた想念をくゆらせた。

風呂から上がって持参したパジャマに着替え、冴季のいる部屋に戻る。彼は月明かり注ぐベッドの上に寛いだ格好で寝転がっていた。

家に帰れという彼の言葉に反し、自分の我がままを通してしまったという引け目から、泰水はおずおずとその傍へ近付く。そして月明かりに吸収されてしまいそうなほど小さな声で、冴季に呼びかけた。

冴季はいかにも億劫そうに「何だよ」と返して、泰水の方をちらと見る。が、すぐに目を剥いて声を上げた。

「なっ……お前、その格好………」

冴季が驚くのも無理はなかった。泰水が着ているのは袖口や裾にレースをあしらった、真っ白なパジャマ。その姿はまるで、月夜に降臨した天使のよう。ふわふわの襟や袖口のせいで、頸や手首の細さが余計に際立って見える。

さらにズボンは膝上丈だったから、そこからすっと伸びる皙い足や薔薇色の膝小僧に、いやでも目が行ってしまう。とはいえ、これは泰水が持っている中で最も“大人しい”夜着だった。

もっと大仰なフリル付きやイチゴ模様、小花柄のワンピースタイプなど、泰水の母の少女趣味全開なパジャマの中で一番ましなものを選んできたのだ。

そんな事情を加味しても、白のレースも高校生の男子が着るパジャマとしては十分に逸脱している。泰水自身もそれは承知しているのか、顔を赤らめて必死に弁解した。

「あのっ、これは別に僕の趣味じゃなくて、母さんが……その、こうゆうのばっかり買って僕に着せようとして……だから普通のパジャマを持ってないんだ………」

冴季は「ああ…」と神妙な相槌を返して、一度だけ会ったことのある泰水の母親を思い出した。冴季が家を訪れた時、夢見る少女のような笑みを浮かべて迎え入れてくれた女性。確かに、彼女ならこういう趣味でもおかしくない。

「……那津は、お前のこういう格好を見たことがあるのか？」

我なら狭量な男だなと思いつつも、訊かずにはいられなかった。泰水は一瞬迷ったが、正直に頷いた。冴季はもやもやしたものを表情に出さぬよう注意しつつ、皮肉めいた口調で、

「ふ…ん。で、奴の感想は？」
「お前の母さん、相変わらずだな、って」

泰水はさらりと答えて唇を歪め、

「那津が、僕の格好なんかに関心を持つはずないじゃん」

そう言って淋しそうに笑った。冴季はすっと目を細め、ベッドから下りて黙って泰水に近付いた。そして白い砂糖菓子のような身体を抱き締め、

「……天使かと思った」
「……ほぇ？」

冴季の口から“天使”なんて単語が出るなんて、思ってもいなかった。泰水はぽかんと口を開けて冴季の顔を見上げるばかり。

冴季自身も、自分には不似合いな言葉を吐いてしまったという自覚があったのか、ふいと顔を背けてしまった。そして不貞腐れた声で、

「何だよ、感じたことを口にしただけだ。悪いか」
「い、いえ、あの……」
「本当に、天使みたいだと思ったんだ」

そっぽを向いたままぼそぼそと弁解する冴季を見上げるうちに、胸の奥がほんのり温まってきた。

泰水はきゅっと抱き返して、「嬉しいよ」と飾らぬ言葉で気持ちを伝える。冴季は視線を戻してその背中を撫で、

「今度、もっと可愛いパジャマを買ってやるよ」
「う〜〜、買ってくれるなら可愛いのじゃなくて、普通のパジャマがいいなあ」
「分かった。普通のフリル付きな」

泰水は「もぅっ」と甘えた声を上げ、頭で胸をグリグリした。冴季は「くすぐってえよ」と笑って、泰水の身体を引き離す。そして部屋の奥に視線を送り、

「ほら、そろそろ寝ようぜ。付き添い用のベッドを整えてあるから」
「あ、うん……」

本当はもう少しこうして取り留めのないお喋りをしていたかったけれど、やっぱり無理を言って泊まってしまった引け目から大人しく従うことにした。でもその前に………

「皇、お休みなさぁい……」

ちょんと唇を突き出す。冴季は一瞬ためらったものの、軽く唇を押し付けて「お休み」と返した。

何だかいつもより素っ気ないキスに思えて少し淋しかったけれど、泰水は努めて表情には出さず、付き添い用のベッドにもぞもぞと潜り込んだのだった。




「んっ………」

心を揺さぶるような夢を見ていたわけではなかった。人の気配を感じたわけでもない。それでも泰水の鋭敏な感覚は何かを捉え、覚醒を促した。

その“何か”の正体はすぐに分かった。それは暗闇にぽっかり空いた虚（あな）。愛しい人の不在。

「皇……いない………」

目を凝らして闇の中を探ったが、その輪郭も気配も捉えることができなかった。不安を消すため、「トイレかなあ」と声に出してみる。そして暫く待ってみたが、戻ってくる気配はなかった。

泰水はベッドから下りてスリッパに足を通し、そっと部屋を出た。ひたひたという秘めやかな足音が、やけに耳につく。そして無人のはずの隣の部屋におそるおそる侵入し、冴季の姿を探した。

「あ………」

果たして、彼はそこにいた。整えられたベッドの上に座って窓枠に肘をつき、煙草をふかしていた。僅かに開けた窓から、細い煙の糸が立ちのぼる。

完璧な輪郭を有している横顔の美しさに、泰水は我を忘れて見入ってしまう。淡い白銀色に輝いているように見えるのは、月明りを浴びているからだろうか。それとも、彼の存在自体が光の源を孕んでいるからだろうか。

「皇……」

名前を呼んでしまってから、はっと我に返る。溜息とも聞き違えるような微かな声だったが、闇の粒子を響かせるには十分だった。

冴季は少し驚いたように顔を向け、慌てて煙草を揉み消した。そして狼狽を隠すためかわざと冷たい声で「何だよ」と返す。泰水はおずおずと近付いて、

「どうしたの？　こんな所で……」
「見りゃ分かるだろ。一服しに来たんだよ」

しかし泰水は悲しげに首を振り、

「僕と……一緒にいるのはいや？」
「何でそうなるんだよ。一服しに来たって言ってるだろ―――」

冴季は途中で言葉を切った。泰水の瞳が涙に溺れ始めるのを見たから。

「僕が……我がまま言ってここに泊まったから怒ってるんでしょ？」

冴季はがしがしと乱暴に頭を掻いてから天を仰ぎ、

「ああーーっ、分かった！　正直に言う。抱きたいんだよ、お前をっ」

これ以上ないほどストレートに本音を告げた冴季は、怨みがましい一瞥を投げてから肩を落とし、

「ったく、そんな格好で目ぇ潤ませやがって。我慢してるこっちの身にもなってみろ」

ここまで来たらみっともないとか情けないとか言っている場合でもなかった。半ば自棄になった冴季は、「何度自分で処理したと思ってんだよ」と言わなくていいことまでぶちまけた。余りに生々しい本音に泰水は顔を赤らめ、

「だから………こっちの部屋に来たの？」
「ああ。目は冴えて眠れねえし。起きてお前の顔覗いたら、まるで今にも襲ってくださいって言ってるとしか思えないような、天使みたいな寝顔晒してるし」

泰水は膝をすり合わせてもじもじしつつ、「皇のバカ……」と小声で抗議した。そういう仕草が煽るんだと怨み言を重ねようとしたが、言っても無駄だと自分を宥めた。代わりに冴季は戸口を指差し、

「ほら、部屋へ戻れ。俺はこっちで寝るから」

しかし泰水は従うどころか、ベッドの上に両膝をついて身を乗り出し、

「ぼ、ぼく……いやじゃないよ。だって皇だもん………」
「無理するな」
「無理じゃない！　僕はっ……………ぁッ」

反論する間も与えられず、突然乱暴に腕を引かれてベッドの上に押し倒された。のしかかる冴季の影の下で、泰水の呼吸は不規則になってゆく。

冴季は押さえ付けていない方の手を伸ばし、泰水の頬をすい、と撫でた。そして小刻みに震えているのを確認すると、拘束している手を離した。

「見ろ、震えてるじゃねえか。しかもそんな怯えた表情で。恐いんだろ？」

泰水の唇が答えようとわななく。しかし答えは分かっているとばかりに頷き、

「お前を苦しめる過去の幻影は……まだ健在なんだよ。だから無理するな」

冴季はそう言って、背中を向けようとした。が、

「違うんだ。……ううん、それも確かにあるけど、皇なら大丈夫って確信はある。それより恐いのは―――」

泰水はゆっくりと起き上がって冴季の腕を掴み、

「あの……皇ってその、男のコとしたことある？　ないよね？」
「あ？　何だよいきなり……」
「僕……男なんだよ。気持ち悪く……ない？」

冴季は眉間に深い深い皺を刻んだ。まさか泰水が愛撫や触れ合いをためらっていた理由って―――

「僕、女の子みたいに胸もないよ。それに、えと、あの……つ、付いてるし………」

肩をすぼめて恥ずかしそうに告げる泰水を、冴季は黙って再び押し倒した。さらに続けて、パジャマの裾を派手に捲り上げる。突然のことに泰水は悲鳴も上げられず、されるがまま皙い胸を晒した。

「どこが……気持ち悪いんだよ」
「皇……」

泰水の心がちくんと痛んだ。冴季の声には、大事なものを傷付けられた人間の嘆きがこもっていたから。

「こんなに……綺麗じゃねえか………」

泰水は手を伸ばして、冴季の目尻をそっと撫でた。謝罪と感謝と慰撫を込めて。

冴季はその指先に熱烈な口付けを贈ると、泰水の背中に腕を回して胸を僅かに持ち上げた。そうしてふっくらと盛り上がった部分に口を寄せ、まだ柔らかな突起を唇で挟み込んだ。

「ふっ……ン………」

綿毛のような吐息と共に腰がひくんと揺れる。あっという間に固くしこった乳首は、冴季の与える刺激に悦び悶えた。

舌が乳輪をぬるぬるとなぞり、尖った部分に歯を立てられるたびに、身体中の毛穴が開くような感覚に襲われる。空いている方の手は片方の乳首をくにくにと弄び、と思ったら脇腹や下腹部を慈しむように撫で始めた。

「皇っ………ん、ゃッ……ぁぁん…………」

不安も怯えも、まだ心身にしっかり爪を立てていた。このまま先へ進んで後悔しないだろうか、身体を繋げて良かったと心から思えるようになるだろうか―――

「泰水……目を開けろ」

言われて初めて、ぎゅっと目を閉じていたことに気付いた。泰水はおそるおそる目を開けて、真直ぐ注がれる視線に自分のそれを重ねた。冴季は目を逸らさず、

「脱がせるぞ。いいな？」

ここまで来ても無理やり進もうとせず、泰水の意志を尊重しようとする冴季の優しさが心と身体に沁み込んでゆく。ああ、自分は本当に愛されているんだ―――今さらながらの感慨に涙腺を刺激され、温かな涙が溢れた。

すると冴季は何を誤解したのか、神妙な顔付きで頷いて、捲り上がった裾を丁寧に元に戻した。そしてベッドを下りようとする。泰水は慌ててぴょんと起き上がり、

「もお、バカ。大人は幸せなときにも涙を流すものなんだよ」

そう言って冴季の胸元に手を伸ばし、ボタンをひとつひとつ外し始めた。冴季はされるがまま、精悍な半身を闇に晒す。泰水は顔を近付けて、石鹸の匂いに混じった雄の香気に溺れながら、

「僕も脱ぐぅ。脱がせて、皇………」

冴季は返事の代わりに喉の奥を鳴らし、飛びかかって泰水の着ているものをあっという間に剥ぎ取った。そして自身の下穿きも素早く脱ぎ捨てると、目の前に横たわる眩い裸身を己れの四肢で絡め取って貪り始めたのだった。

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