Second Love
　　　―最後の恋―

２２.

「お前、家に帰らなくていいのか？」

冴季の問いに泰水は「連絡してあるから大丈夫」と答える。そして何故かしゅんと項垂れ、

「ずっとここにいたら……迷惑、かな……？」
「んなわけねえだろ、馬鹿」

冴季は強い口調で即答を返し、ふいとそっぽを向いてしまう。その横顔は相変わらず端整だったけれど、不貞腐れた子供のようにも見えた。

普段の大人びたポーカーフェイスからは想像もできない表情の変化を見せられて、嬉しいようなくすぐったいような浮き立った感情の漣が湧き上がる。

泰水はベッドの上に身を乗り出して枕の傍らに両手をつき、「よかったぁ」と言ってふわりと笑った。

冴季はそっぽを向いたままぬっと腕を伸ばし、泰水の腰を抱き寄せる。バランスを崩した泰水は、小さな声を上げてベッドの上に倒れ込んだ。

「もぉぉ。僕は怪我人じゃありません」
「うるせ。少しそうやって大人しくしてろ」

泰水は膨れた頬を紅く染め、布団の上でもぞもぞと腰をくねらせた。そして冴季の方にすり寄り、

「会いたい会いたいってばかり思ってたから、謝るのを忘れてたよ。ごめんね……」

冴季は不審げに眉根を寄せて、

「何で謝るんだ？　お前が何かしたか？」
「だって、僕のせいで怪我を………」

冴季は神妙に頷きを返した。

「もう過ぎたことだ。でも、二度とあんな無茶な真似はするな。約束するか？」
「はい、約束します。ごめんなさい……」

消え入りそうな声で謝罪する泰水の頭をふわふわと撫でながら、

「それよりも、これからの方が大変だぞ。隠さずはっきり言うが、俺の親父はお前のことを快く思っていない。俺たちの関係についても、ただの友人ではないということに勘付いているようだ。恐らく、色々な妨害を仕掛けてくるだろう」
「うん、分かってるよ。覚悟はしてます。でも大丈夫。一番大事なことを守れば、絆が壊れることはないよ」
「一番大事なこと………互いを信じることだな？」

泰水は嬉しそうに「うんっ」と返して、冴季の胸に顔を押し付けた。

「そう、お前の言う通りだな……」

泰水の肩や背中を撫でながら、深い感慨に耽る。もし母の愛情を信じることができていれば、孤独な少年期を送らずに済んだ。
そしてもし、久野の言うことを鵜呑みにして泰水を信じていなかったら、こうして彼を抱き締めることはできなかっただろう。

信じることの大切さを、改めて噛み締める。それによって人生が大きく左右されることもあるのだ。

「何があっても……皇のこと信じてるからね」

泰水の言葉でふと我に返ると、薄明の中できらきらと輝く双眸がじっとこちらを見上げていた。冴季は誘われるように手を伸ばし、指先で目の縁をなぞる。さらに頬から顎、そして唇へ―――

「ゃっ………」

冴季の顔が近付くとほぼ同時に、泰水は素早く顔を背けて逃げた。それは嫌悪や恐怖を感じる以前の、条件反射的な行動だった。しかし冴季を拒絶してしまったという事実に変わりはない。

「ご、ごめ……ごめんね、皇………」
「謝るな」
「でも………」

しゅんとしおれてしまった泰水の頬を手のひらで包み込み、そっと上を向かせる。

「ほんの数日前までは、こうして触れ合うこともできなかったんだ。少しずつだが、前進していることは間違いない」

諭すように言い聞かせ、そして優しく目を細める。

「大丈夫だ。何度拒絶されたって俺は傷付かねえよ。お前を信じてるから」

泰水は溢れ始めた涙を拭うのも忘れ、何度も頷いた。頬の上をころころと転がる雫を指先で受け止め、冴季はふわりと笑った。そして、

「今夜はもう休もう。付き添い用のソファベッドがあそこにある」

しかし泰水はもじもじした挙句、上目使いで冴季を見つめ、

「あの……もう少しここにいちゃ駄目？　も、もちろん寝る時には邪魔にならないように移動するから」

本当はここで添い寝したかったのだが、さすがにそれは恥ずかしくて言えなかった。それに、冴季は怪我人なのだ。寝ぼけて傷に触れるようなことをしてしまったら大変だ。

「い、いや、別に構わねえが………」

冴季は戸惑いつつも、身体をずらして泰水のためのスペースを空ける。泰水はいそいそと靴を脱いで、冴季の隣にちょんと身体を滑り込ませた。

「ふふっ、あったかぁい……」

嬉しそうに顔をすり寄せる泰水の頭や背中を撫でながら、怪我をしていてよかったと冴季はしみじみ思った。身体を思うように動かせない状態だから、こうして穏やかな愛撫に留まっていられるのだ。


―――先が……思い遣られるな………


冴季は喉の奥でひっそりと呟き、泰水に気付かれぬよう溜息をついた。



秘めやかな夜は、こうして穏やかに流れていった。時折ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、その隙間を埋める静寂に耳を傾ける。泰水はうっとりと目を閉じて、冴季が与えてくれる極上の温もりに微睡んだ。

そうして、どのくらいの時間が経過しただろう。穏やかな夜は突然終わりを告げた。冴季の低い呻きによって。うとうとしかけていた泰水ははっと目を開け、慌てて身体を起こした。

「皇っ、どうしたの？！」

呼びかけながら顔を覗き込んだ泰水は、喉の奥で潰れた悲鳴を上げた。

「皇っ、しっかりしてっ」

冴季は額に汗を浮かべ、苦痛も露わに呻いていた。泰水はパニックに陥りそうな自分を叱咤して、緊急の呼び出しボタンを探した。ベッドヘッドのすぐ上にそれを見つけ、震える指でボタンを押そうとした。しかし、

「押すなっ、泰水……俺は……大丈夫だ………」
「だ、大丈夫じゃないもん！」

涙声で叫ぶ泰水の頬を震える指先でそっと撫で、

「頼む、押さないでくれ。せっかくお前と会えたのに……また引き離されちまう。身体の痛みを耐える方がずっとましだ」
「皇……」
「泰水、傍に……いてくれ………」

泰水はボタンを押そうとした手は下ろしたものの、いやいやと首を振って泣きじゃくりながら必死に訴えた。

「ヤダ………やだぁ………痛いのやだ……皇が苦しんでるの見たくないよぉ………」

まるで自分が痛みをこらえるかのように顔を歪め、辺りを憚らずわんわん泣く。冴季は腹の底に力を入れ、「心配は要らない」と力強く諭した。そしてキャビネットを指差して、

「あの一番上の引き出しに……だ円形の白い錠剤が入っている。それを……呑ませてくれ」

痛みが襲ってきた理由は明白だった。食事の後に服用するはずの痛み止めを、わざと呑まなかったのだ。この薬には強力な導眠効果があるため、せっかくの泰水との再会を眠気で邪魔されることになる。それが嫌だったから。

冴季の指示を受けた泰水は慌ててベッドから飛び下り、引き出しから錠剤を取り出した。

「い、いくつ呑むの？」
「二錠でいい」

泰水はこくこくと頷いて二錠を手の上に出した。そして水差しの中身をコップに移す。

「皇、呑める……？」
「ああ……」

痛みをこらえるので精一杯なのか、冴季は弱々しく頷いて浅い呼吸を繰り返す。起き上がろうと力を入れるたびに、低く呻いて枕の上に倒れ込む。

泰水はどうしてよいか分からずただおろおろして見守るばかりだったが、やがて自分に言い聞かせるように頷いた。そして錠剤を冴季の口の中へ押し込むと、すぐさま水を自分の口に含んでそのまま冴季の唇へ。

「んっ………」

鼻にかかった小さな吐息と共に、口内の生温かい水をとろとろと送り込んだ。早く痛みが消えますように―――無言の祈りも一緒に。

泰水はゆっくりと顔を上げ、冴季の喉が上下するのを確かめた。驚きと戸惑いも露わに見返してくる冴季にほわんと笑いかけ、

「ちゃんと呑んだ？」
「あ、ああ……」

泰水は手を翳して汗ばんだ額を撫で、「よし、いい子」とあやすように囁いた。冴季はその手をぎゅっと握って、

「泰水、お前……」

心配そうに眉根を寄せて様子を窺う。泰水はたった一言「大丈夫」と答えると、水の入ったコップを掲げて、

「もっとお水飲む？」
「ああ、飲みたい。ただの水がこんなに旨いなんて初めて知った」

泰水はふふっと秘めやかに笑うと、再び自分の口に含ませた。そして冴季の口に押し付ける。

待ち構えていた唇は柔らかな触れ合いを嬉々として受け入れ、水を飲み干してもなお離れたくないとばかりに泰水の唇を求め続けた。

「ぅ……ふぅ……ン………」

泰水も甘い吐息をこぼしつつ唇を押し付け、離れる意志がないことを言外に伝える。そしてこわごわながらも誘うように唇を開くと、熱くぬめったものがするりと入り込んできた。

初めは遠慮がちに口腔を探るばかりだったが、すぐに本性を現わして激しくうねり始めた。

「ぁッ………ぁふ………ぅ、ン…………」

いつの間にか泰水の身体は枕の上に押し倒され、冴季に唇を吸われていた。冴季が見せる生々しいまでの飢えが恐くないと言えば嘘になるが、もっともっと食べて欲しいという欲求の方が強かった。

その想いが通じたのか、冴季はぬぷぬぷと音をたてて泰水の舌を吸い上げた。絡まり合う舌がこすれるたびに、泰水はひくんひくんと腰を揺らして甘痒い疼きを訴える。冴季は最後の仕上げとばかりに唾液を注ぎ、ようやく泰水の唇を甘い拘束から解放した。

煌めく唾液の糸が、恥じらうようにちらちらと揺れる。泰水はとろんとした危うい双眸で冴季を見上げ、濡れた唇をわななかせつつ余韻に微睡んだ。

しかし冴季が顔をしかめて布団の上にどさりと倒れ込むと、慌てて身体を起こして覗き込み、

「大丈夫？　薬、効いてきたんじゃないの？」
「阿呆。そんなすぐ効果が出るかよ……」

泰水は不思議そうに首を傾げると、もじもじしつつ、

「だって、今の激しいキス……」
「ああ、何つーか、キスしたい欲求の方が痛みに勝った。お前の唇が、一瞬だが痛みを忘れさせてくれた」

冴季は答えると、心配そうにおろおろする泰水に向かって両手を広げた。

「大丈夫だ。じきに薬が効いてくるから、それまで我慢すればいい。それより、ほら」

痛みに障るのが恐いのか、泰水はおそるおそる腕の中に潜り込む。

「……痛くない？　邪魔じゃない？」

冴季は黙って抱き締める腕に力を込め、泰水の不安を消し去った。泰水はほっと安堵の息をつき、ゆるりと目を閉じた。

冴季はその背中を撫でながら、眠りの国へ導く媚薬の如き極上のテノールで「お休み」と囁く。泰水はくすぐったそうに顔をすり寄せて、

「ん……おやすみなさぁい………」

ふわふわした口調で応えると、薬の匂いと微かな汗の匂いがする胸に顔を押し付けて幸せな眠りに沈み込んでいった。

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