Second Love
　　　―最後の恋―

２１.

「で、でも、どうやって………」

不安げに訊ねる泰水に、太田はにっこり笑って「話は簡単です」と返した。

「冴季が入院している部屋へ行くには、ナースステーションの向かいにある専用エレベーターに乗る必要があります。でも、乗る時には必ず看護師のチェックを受けることになる」
「うん……。これまで何度も止められたよ。家族以外は面会が許可されていないって言われて……」
「ということは、先輩がエレベーターに乗り込むほんの僅かな間だけ、ナースステーションに誰もいなければいいってことですよね。簡単な話じゃないすか」

太田は明るい声でそう言って、説明を続けた。

「いいですか、まず冴季が緊急の呼び出しベルを鳴らして、看護師を部屋に呼びます。そのタイミングに合わせて、俺たちのどちらかが具合が悪くなった振りをして残りの看護師を呼び出す。
ナースステーションには、特別な場合を除いて常時二人が待機していますから、これで一瞬ですが空になります。その隙に、先輩はエレベーターに乗ってください。簡単でしょう？」
「でも、部屋には冴季くんが呼んだ看護師がいるよ。その人と鉢合わせてしまったら……」

泰水の尤もな指摘に対し、今度は葛西が説明する。

「七階には、もうひとつ特別室があります。そこも冴季家が押さえていて、普段は久野とかいう冴季の付き人が寝泊まりしています。でも今日は、久野はいない。仕事の都合で家に戻っているそうです。冴季はこのタイミングを待っていたのです」
「ですから先輩は、七階に着いたらすぐにその部屋へ入って隠れてください。そして冴季が呼んだ看護師が階下へおりるのを確認してから部屋を出る。いいですね？」

太田が説明を継いで、泰水に確認を促す。泰水は頷いて了承を伝えたが、どうしても腑に落ちないことがあった。二人の顔を交互に見て、

「どうして、僕と冴季くんのためにそこまで協力してくれるの？」

太田も葛西も冴季の“友人”には違いなかったが、目に見える恩恵に与ろうと追従笑いを浮かべるだけの友人で、冴季のために何かしようという気概のある人間には見えなかった。

当人たちもそれは自覚していたようで、泰水の問いに対しばつが悪そうに俯いたが、すぐに顔を上げて真直ぐ見返し、

「俺たち、冴季の見舞いに行ったんです。適当な見舞いの品を持って、大変だったなあ、なんて在り来たりな言葉掛けて。そしたらあいつ、俺たちのことじっと見て、自分に力を貸して欲しいと言って頭を下げてきたんです」
「すげえ驚きましたよ。あの冴季が、俺らみたいなのに頭下げるなんて。でも、あいつの話を聞いているうちに、驚きが……その、感動に変わったっていうか。先輩に会いたいっていう一途な想いが、真直ぐ伝わってきたんです」

泰水はこくんと喉を鳴らして、目を少し乱暴にこすった。今は泣いている時ではない。

「それで、冴季くんに協力することに？」
「はい。我ながら単純だなとも思いますが。でも、何ていうか俺たち、妙に嬉しかったんです。俺たちでも、冴季に力を貸すことができるんだってことが分かって」

葛西は同意を求めるように、太田の顔を見た。太田は少し照れ臭そうに頷いて、

「冴季は何でも持ってるし、何でもできる。顔もいいし頭もいいし金もあるし。俺たちとは全く別世界の人間で、そんなあいつが羨ましくて妬ましいと思ってた。でもそれって……すごく孤独なことなんだって分かったんです」
「孤独……」
「はい。あいつはこう言いました。“お前たち二人が、俺のことを友だちだなんて思っていないことは承知している。でも俺には、信頼して何かを頼める人間が他にいないんだ”と」

たくさんの取り巻きを引き連れて歩く姿が目に浮かぶ。その時の彼は、まさに孤独な王様だった。泰水は込み上げる熱い塊を呑み込んで、

「……そうだね。彼は何でもできる、何でも持ってる、だから自分たちがあげられるものなんて何もない、勝手にそう思って納得して、それで彼のことを遠巻きに眺めて羨むだけ。本当は……君たちが近付いてくれるのをずっと待っていたのかもしれないのに」

泰水の言葉に、太田も葛西も何も言い返せず苦しげに黙り込む。泰水はぴたりと立ち止まって明るい声で、

「でも、もう冴季くんは孤独じゃない。友だちが、二人もいるんだからね」
「……はいっ」

そして再び三人は歩き出した。冴季のいる病院へ向かって。




「……もうすぐ、冴季と打ち合わせした時間になります。先輩は、あそこのトイレに隠れていてください。
あいつが緊急ブザーを鳴らして看護師を部屋に呼んだら、今度は俺たちが具合の悪い振りをして残りの看護師をこのひとつ上のフロアに呼び出します。今からきっかり５分後です。時計は合わせてありますね？」

泰水は唇をぎゅっと真一文字に閉じて、こくんと頷いた。

「では、ここからは別行動です。大丈夫、必ずうまくいきますよ」

太田と葛西は泰水を勇気づけるようにそう言うと、階段を上がっていった。泰水はふうっと息を吐き、廊下に見知った看護師がいないことを確かめてから男子トイレに入った。

都合のいいことに、トイレには誰もいない。そして時計の秒針が時を刻むのを、じっと息を凝らして見つめた。

「……１０、９、８………３、２、１、ゼロ」

打ち合わせ通り５分が経過したところでトイレから出ると、真直ぐナースステーションに向かった。受付の窓越しに中を覗き、誰もいないことを確認する。ここまではうまくいったのだ。あとは………

「早く、早く来て……」

専用エレベーターが七階から下りてくるのを、じりじりしながら待つ。誰か来たらどうしよう、呼び出された看護師が戻ってきたらどうしよう。緊張と焦りで耳の奥がガンガン鳴っている。

待っていたのはほんの数秒に過ぎないだろうが、泰水には気の遠くなるほど長く感じられた。

チン、と音がしてエレベーターが到着し、するすると扉が開いた。泰水はその中に飛び込んで、すぐに開閉ボタンを押して扉を閉める。

七階に着くと、できるだけ息を殺してエレベーターから下り、彼らに言われたように空いている部屋に身を潜めた。

あと少し、あと少しで彼に会える。そう思うと先刻のとはまた違った緊張感が込み上げて、身体の震えを押さえることができない。

泰水は落ち着けと自分に言い聞かせた。まだ気を抜くわけにはいかない。冴季の部屋にいる看護師が階下に戻ってようやく、彼の許を訪れることができるのだから。

そうして息を潜めていると、微かな足音が部屋の前を通り過ぎるのが聞こえた。さらに耳をそばだてると、エレベーターの扉が開閉する音が。泰水は用心深く部屋から顔を出して辺りを窺い、そおっと廊下に出た。

駆け出したい気持ちを抑え、足音を忍ばせて冴季の部屋へ。扉を開けて身体を滑り込ませ、照明の落とされた薄暗い部屋の中を彷徨う。

病室とは思えないほどの広さに、泰水は戸惑いながらも愛しい人の気配を探した。その時、

「泰水」

ずっとずっと聞きたかった声。最後に耳にしてからほんの数日しか経っていないのに、懐かしさで鼓膜がとろけそうになってしまう。

「泰水、俺だ」

そう、この声。艶めく光沢と威圧感の奥に、包み込むような温かさがゆったりと広がっている。心も身体も全て委ねてしまいたいと思わずにはいられない、誘惑に満ちた甘くほろ苦い媚薬。

泰水はその声に引き寄せられるように、ふらふらと部屋の奥へ進んでいった。大きな窓に面して置かれたベッドが見える。その上で、寛いだ様子で枕に上半身を預けているのは、間違いなく冴季だった。

輪郭がぼんやりにじんで見えるのは、生まれたての柔らかな闇に沈んでいるからだろうか、それとも、泰水の瞳を涙の膜が覆い始めたからだろうか。

「泰水、会いたかった………」


僕も、僕も会いたかったよ―――


「もう一度、抱き締めたかった」


僕も、もう一度君の温もりに包まれたかった―――


「お前のことばかり考えていた」


うん、僕も。僕も君のことばかり考えて―――


頭の中の言葉は何ひとつ口から出ず、溢れるのは苦しげな嗚咽ばかり。

「んっ…く………ぇぇっ………ふぇぇ…………」

泰水は両手の甲で交互に涙を拭いながら、覚束ない歩みで冴季の許に近付く。まるで、保護者を探し求める迷子のように。

「泰水、泰水……ほら、こっちへ来い………」

冴季は優しく声を撓めて、泰水を誘導するように呼んだ。

「さえ…き…く………さえきくぅぅん………」

泰水は嗚咽の隙間から冴季の名を絞り出し、薄闇にぼんやり浮かぶシルエットと自分を呼ぶ声を頼りに近付いた。

「んっ、んくっ、ん、んぇっ…………」

声を上げて泣いたら誰かに見つかってしまうかもしれない。泰水はきりきりと唇を噛み締めて込み上げるものを抑え、そしてようやく冴季の傍へ。

会いたくて会いたくてどうしようもなかった人が、すぐ目の前にいる。けれど会いたかった感情が大きすぎて、泰水はそれをどう表現してよいか分からず、ベッドの傍に突っ立ったままただ泣きじゃくる。

すると、そんな泰水の混乱を察したのか冴季は両手を広げ、

「ほら」

素っ気ない言葉だったけれど、泰水の強張りを解くには十分だった。泰水は広げられた腕の中、自分だけの温かな空間に迷うことなく飛び込んで、そして思う存分涙を流した。不安や絶望に潰されないよう、ずっと自分に禁じていた涙を。

「会いたかった………会いたかったよぉ………」
「ああ」
「もう……二度と会えないんじゃないかって……こわくて不安で………」
「ああ」
「でもっ……あきらめちゃだめだって………」
「ああ」

ひとつひとつ相槌を打つたびに、冴季は抱き締める腕に力を込めた。分かってる、お前の気持ちは分かってるよ、と。

「やっと……会えた………」

もう離れるものかと言わんばかりにぎゅぅっとしがみつき、胸に顔を押し付けてくすんくすんと鼻をすすり上げる泰水が愛しくてたまらない。冴季はそっと手を伸ばし、柔らかな耳たぶから丸い頬へ指を滑らせる。そして顎に手を掛けて、

「泰水、こっち向け。お前の……顔が見たい」

しかし泰水は頑に顔を押し付けたままぷるぷると首を振る。

「や、やだよ……いっぱい泣いてヘンな顔してるから、笑われるもん」

冴季はククッと秘めやかな含み笑いをこぼし、

「確か、前にもそんなこと言ったよな。汚い顔してるから笑われる、って」
「うん。そしたら冴季くん、怒った声で汚くなんかないってゆって、それでハンカチを貸してくれたよ。すごく嬉しかった………」

冴季は顎にかけた手に少し力を入れて、泰水の顔を上向かせた。涙に濡れた瞳が、暗がりの中で楚々と輝く。濃厚に絡まり合う視線を意識しつつ、

「お前は汚くなんかない。俺がこれまで会った誰より綺麗だ」

冴季の真直ぐな言葉を、泰水はそのまま受け入れることができない。苦しげに顔を歪めて首を振り、

「僕は……綺麗じゃないよ。心も、身体も」

見も知らぬ酔漢に犯され、汚されたのは身体。しかし心の歪みや汚れは誰のせいでもない。これは自分が引き受けるべきもの。

「僕はあの事件を利用して、那津を自分の思い通りにしようとした。あの優しい人を、罪悪感や自責の念でがんじがらめにして………」

自らを断罪する泰水の言葉に、冴季は鷹揚な笑みを返し、

「俺は、お前が完璧な人間だとは言っていない。誰にだって翳の部分はある」
「でも……」
「忘れたのか？　俺はこう言ったはずだ。お前の痛みも苦しみも過ちも全てこの身に引き受けると」

そうだ、確かに彼はそう言った。そして腕を広げてくれたのだ。

「自分を卑下するな、過ちを恥じるな。堂々と顔を上げて生きろ。俺と一緒にな」

一度は止まっていた涙が、再び泰水の頬を伝い始める。冴季はそれを唇で受け止めたい欲求を抑え、指先ですいと拭った。すると、泰水の唇が何かを訴えるようにわななき、そして―――

「冴季くん、すき……」

ふっくらした珊瑚色の唇からこぼれる、あどけない告白。しかしそれはどんな言葉より神聖な響きを孕んで、冴季の耳に届いた。

「だいすき……冴季くぅん………」

やばい、泣きそうだ。喉の奥で切実な本音を呟くと同時に、冴季はふいと顔を逸らした。泰水の前で、みっともない真似はしたくない。込み上げるものを隠すため努めて不機嫌な声を拵え、

「冴季くん、か。ずいぶんと他人行儀な呼び方だよな」

泰水はぱちくりと大きく瞬きしたが、すぐに頬を膨らませて「冴季くんは冴季くんだもん」と不貞腐れたように呟く。冴季は肩を竦めて、

「あいつのことは那津って呼んでるのに、俺は冴季くん、か」
「だって、那津は幼馴染みだし、それにずっと前から名前で呼んでるし……」

あわあわしつつ弁解する泰水だったが、いったん口を閉じてからふぅっと大きく息を吐き、

「すき……こ、こっ、こっ………」
「ニワトリの物真似か？」

泰水は真っ赤な顔で腕を振り上げ、

「もおっ。だいたい、２コも年下のくせに生意気だっ」
「お前が年上のくせに可愛いすぎるんだよ」

泰水はむぅっと膨れて黙り込んだが、やがてそろそろと顔を上げて揺るぎない瞳を向け、

「好きだよ、皇………」

初めて泰水の口から出た自分の名は、甘い芳気を伴って冴季のあらゆる感覚を酔わせた。

好きな相手が名前を呼んでくれた、ただそれだけのことなのに……

「ひゃっ………ど、どしたの？　ねえ……」

突然乱暴に抱き寄せられ、泰水は小さな悲鳴を上げた。冴季は瞳が潤み始めたのを覚られないよう、泰水の顔を胸に押し付けたまま嗚咽をこらえたのだった。

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