Second Love
　　　―最後の恋―

２０.

「ただいま戻りました。皇様、ご気分はいかがですか？」

見事に感情の欠落した声で訊ねる久野に、冴季も同様の冷淡さで「まあまあだ」と答える。すると久野は「大変けっこうです」と応じて軽く一礼した。

とても病室で交わす会話には聞こえない。上辺だけの言葉、上辺だけの心配。冴季は今まで、これが当たり前だと思っていた。

“愛情”や“温もり”や“思い遣り”などは実体のないただの観念に過ぎず、人間の言動の核にあるのは自己保身や欲望だけ。そういった前提の上で笑顔やおべんちゃらを振りまいて、適当に快適に過ごしているだけなのだと。

しかし今は違う。傷つきながらも誰かを必死に愛し、そして愛されたいと願う。それが“生きる”ことなのだと知った今、自分が身を置いてきた世界の歪みが手に取るように分かった。

必ず、何としてもここから脱するのだ。冴季は冷たい無表情を保ちつつも、その皮下に滾る熱情を幾度も反芻した。

「何かご不便はありませんか？」
「いや。必要な物は全て揃っている。今のところは特にない」

久野は頷いて、部屋を辞そうとした。が、扉の前でいったん立ち止まり、さも今思い出したかのように「ああ、そういえば」と声を上げた。そして再び冴季の方に向き直り、鞄の中から一枚の紙切れを取り出して冴季の目の前に掲げた。

「何だ、それは」
「誓約書です。工藤泰水様にサインを頂戴しました」

それはつい先刻、泰水の母が破ったはずの誓約書だった。もちろん、冴季はそんな事情など知るはずもない。眉間に浅い皺を刻んで、ただ黙って紙を見据えた。

「お読み頂ければ分かるかと思いますが、工藤様は今後、皇様と会うことはもちろん、一切接触しないということを約束されました。冴季家が、皇様の治療費及び入院費を含めた賠償金の支払いを請求しないという条件のもとに」
「………なるほど」
「起きてしまった過ちを責めても仕方がない、それよりも今後同じ過ちを犯さぬよう、皇様には一切近付かないこと。それが冴季会長のお考えです。この寛大な計らいに、工藤様は親子で感謝されていましたよ」

久野はいったん言葉を切り、冴季の反応を窺った。冴季は誓約書からすっと目を逸らし、久野の顔を真直ぐ見上げた。そして口端を吊り上げて嗤い、

「金が絡むと人間は豹変する。例外なんてない。最初から分かっていたことだ」

冴季の冷淡な言葉を久野は否定も肯定もせず、黙って誓約書を仕舞った。まるで、この話はこれで終わりと宣言するかのように。冴季も興味ないと言わんばかりに話を変えた。

「俺の怪我や入院について、学校へは連絡したのか？」
「はい。今朝のうちに」
「そうか。ということは、俺の自称“友人”たちも挙って見舞いに来ようとするだろうな」

うんざりした口調で呟く冴季に、久野は共感を示すように頷いて、

「如何いたしますか？」
「そうだな。わざとらしい見舞いの言葉を聞かされるのは正直うんざりだが、まあ太田と葛西ぐらいなら会ってやってもいい。一応古い友人だからな」

久野は太田と葛西という名を頭に留めて、「承知いたしました」と答えた。そしてもう一度冴季の表情を探るように視線を這わせたが、やがて小さく頷くと、短い挨拶を残して部屋を出ていった。

パタンと扉が閉まる音を耳で確認した冴季は、込み上げる感情に翻弄されるかのように顔を伏せた。その肩は微かに震えている。

「くッ………ぅ、ぅ………」

喉の奥から、獣めいた呻きが這い上がってくる。肩の震えは徐々に広がり、背中が小刻みに揺れ始める。傍から見れば、嗚咽をこらえつつ泣いているように見えただろう。しかし―――

「ぅぅ……くっ、くくっ………くくくく…………」

冴季は笑っていた。腹の底から湧き上がる笑いの衝動に耐え切れず。

「はっ、はは、ははははは…………ったく、同じ手を使いやがって………」

笑いの延長で馬鹿にしたように呟き、鼻を鳴らした。同じ手口で、また自分を騙せるとでも考えたのだろうか。母親の時のように。

いや、以前の冴季だったら、彼らの思い通りまんまと騙されたに違いない。しかしもうその手には乗らない。あの誓約書も恐らく、彼らがでっち上げたものだろう。

もしかしたら泰水に提示して冴季との絶縁を迫ったかもしれないが、彼がそんなものにサインをするはずがない。

金や権力を使っても動かせないものがあるということを、冴季はもう知っている。それは工藤泰水の心の中にあるということを、誰よりもよく知っている。

そして、冴季の信念を支えているものがもうひとつあった。ベッドサイドのキャビネットから、白い封筒を取り出す。それは今朝、枕の下に置かれていたものだった。

中に入っていたのは、他ならぬ小野寺からの手紙だった。冴季はそれを広げて、もう一度目を通す。そこには、冴季と泰水を取り巻く現状が簡潔に記されていた。

皇の父親はどうやら、冴季と泰水の関係がただの友人ではないと気付き始めている。そのため二人の関係がさらに深まる前に、何か手を打とうとするに違いない。この事故を絶好の機会として、泰水を冴季から遠ざけようとするだろう、と。


『その場合、冴季家がどのような手段を用いて信頼関係を崩そうとするか、あなたはもうお分かりのはずです。
冴季会長は、あなたを自分の思い通りの人間にしたいとお考えです。つまり、情に惑わされず飽くまで利益追求を重視する冷酷にして非情な経営者に。そのためには、人間らしい情愛などというものは妨げにしかならない。
だからあなたに本物の愛情を抱く人間を悉く排除しようとして、実際にそれを実行してきたのです』


冴季は母のことを思い出す。無私の愛を与えてくれた、優しく気高い母。


『そして今、そのターゲットとして工藤様が排除されようとしております。この数日のうちに、何か大きな動きがあるでしょう。下手をすれば、工藤様に二度と会えなくなる可能性もある。
しかしあなたは怪我をしていて、動くことができない。そして私も、恐らく今日中に解雇される。あなたに代わって動くこともできません』


その通りだった。改めて冴季は、自分の孤独さを噛み締める。誰も助けてくれる者はいない。周りは敵ばかりだ。


『だからこそ、諦めてはなりません。まずは冴季家に従順な振りを装って、彼らを油断させることです。そして協力者を探すこと。
さらに何より大事なのは、工藤様を信じることです。冴季家からどんな情報を与えられても、信じた振りをして心の中で笑い飛ばす。今のあなたならきっと、できるはずです』


できる。何よりも誰よりも、泰水を信じている。


『私はこれまでずっと、あなたに対する罪悪感を引きずっておりました。深く愛し合っていた母子を引き離し、冴季家という歪んだ檻に閉じ込めた。せめてもの罪滅ぼしと思いずっとお仕えしてきましたが、それすらもあなたを孤独へ押しやるだけでした。
以前、冴季家の慣習として工藤様に謝礼金を渡そうとした時、こういうやり方が余計にあなたを孤独にさせるのだと、涙と共に非難されたのです。返す言葉もありませんでした』


ああ泰水、お前らしいな。その時の光景が目に浮かぶようだ。


『私はもう、あなたをお守りすることができません。心残りではありますが、今の皇様なら大丈夫という確信もあります。諦めず、ご自分の信念に従って進んでください。そうすれば必ず道は拓けます。
そして工藤様を大事になさってください。決して泣かせることのないように。他の男性に取られてしまいますよ』


冴季は思わず毒づいた。余計なこと書きやがって。誰が他の男なんかに渡すかよ。


『長い間、お世話になりました。皇様の幸せを遠くからお祈り申し上げます』



「永遠の別れみたいなこと言ってんじゃねえよ……」

冴季は不貞腐れた声で呟いて、手紙を丁寧に仕舞った。そしてふぅっと息を吐く。


―――焦るな。ここまでは巧くやっているはずだ。久野とかいう男は、俺はもう泰水のことなど見限ったと思っているだろう。次にすべきことは分かっている


冴季はゆっくりと枕に身体を預けて、目を閉じた。




余り思い詰めた顔付きにならないように、友人の一人としてちょっとお見舞いに来たくらいの軽さを見せる程度がちょうどいい。

泰水は自分にそう言い聞かせつつ、ナースステーションに顔を出した。そしてにっこり笑って「七階に入院している冴季くんの友人ですが」と声を掛けた。しかし―――

「冴季さんは、ご家族以外の面会はまだ許可されていません」
「そうですか。では、いつ頃許可が下りるか見通しでいいので教えていただけませんか？」
「それは分かりません。先生やご家族の皆様と相談して決めることですので」

泰水は素直に頷いて了承を伝えた。本当は、すぐ向かいにあるエレベーターに飛び乗りたい。あれに乗れば冴季に会えるのだ。

しかし泰水は努めてそちらの方を見ようとせず、「ではまた来ます」とだけ言ってあっさり引き下がった。

その次の日も、さらに次の日も泰水は同じことを繰り返した。しかし応対する看護師は違っても、返ってくる反応はみな同じだった。面会は許可されていません、見通しは分かりません―――

冴季が入院して五日が経ったが状況は何も変わらず、これまでずっと前向きな姿勢を崩さず頑張ってきた泰水も、さすがに焦燥が隠せなかった。

学校帰りにいつものように病院に寄り、いつものように門前払いを食らって肩を落とす。病院を出て外から見上げると、七階の窓から明りが漏れているのが見えた。

あそこに彼がいる―――そう思うと切なくてもどかしくて、叫び出したくなってしまう。誰か、僕をあそこへ連れていって。天使でも悪魔でもいいから、僕を彼の許へ―――

「………工藤先輩」

突然声を掛けられ、泰水は我に返って辺りを見回した。すると前方から、見知った顔が近付いてきた。泰水は表情を和らげ、

「ああ、太田くんと葛西くん、だよね」
「うわ、覚えててくれたんですか？」
「もちろん。園芸部に顔を出してくれた人の名前は、みんな覚えてるよぉ」

そう言って、精一杯の笑顔を向ける。ちゃんと笑えているかは心許なかったが。二人は駆け寄って僅かに声を低め、

「俺達、冴季に会いました」
「ほん…とに……？」

ああやはり。家族以外は面会禁止というのは嘘だった。泰水だけを排除するのが目的だったのだ。

「先輩、ゆっくり歩きながら話しましょう」

二人に促され、泰水は戸惑いながらも従った。

「ね、冴季くんの怪我はどうなの？　痛がってた？　いつ退院できるの？　げ、元気にしてた……？」

か細い声ですがるように訊ねる泰水を、太田と葛西はじっと見つめた。やがて葛西が口を開いたが、泰水の問いには答えず一方的に問い返した。

「先輩は、冴季に会いたいですか？」
「え…？」

泰水はぴたりと立ち止まり、二人の顔を交互に見る。やがてくしゃりと顔を歪め、

「会いたい……会いたいよぉ………」

初めて口にした切実なる想い。これまでずっと抑え込んできた反動なのか、あっという間に膨張して喉の奥から迸る。

「会いたいっ………冴季くんに会いたくて会いたくて……僕っ―――」

口に出してようやく気付かされた。自分がどれだけ彼を欲しているのかを。

「……分かりました」

葛西はそう言って、太田と目配せを交わした。そして、

「俺たちが、力を貸します。冴季に会ってやってください」

そう言うと、戸惑う泰水を勇気づけるように力強く頷いた。

BACK　　　　　　TOP　　　　　　NEXT