Second Love
―最後の恋―
１９.
さくらが…舞っている………。すごい、なんて……綺麗なんだろう………。舞い散る花びらで、全てが桜色に染まっている。ここは………ああ、そうか、あの場所だ。初めてあいつに会った………桜の……舞う………
―――ぇっ……ふぇっ………ぇっ………
だれ…だ？ 泣いているのは………この場所に涙は似合わない………
―――冴季くん……冴季くぅん………
泰水……泰水なのか？ 何故泣いているんだ。お前の願いは……叶ったはずなのに………
―――冴季くぅん………どこ？……どこにいるの………
俺はここだ、ここにいる……泰水、お前の……すぐ傍に………
―――冴季くん……行っちゃやだぁ…………
行かない、どこにも行かない。約束する。何があっても俺は……お前を………
―――さえき……くん……さえき……く……ん………
泰水、泰水、俺はここにいる。俺はここにいる。ああ……声が……声が届か……ない………
「やすみっ………」
自分の声で目が覚めた。目を開けても、瞼の裏に灼き付いた夢の残像が視界を舞う。桜色の、美しすぎる白昼夢。
「お目覚めですか、皇様」
聞き慣れぬ声が、冴季を半ば強制的に現実の世界へ連れ戻した。五感がゆっくりと現状を把握する。
ここは、病室。ベッドの上。太陽が眩しくて、身体が思うように動かせなくて、消毒液の臭いがする。
「あ、ああ。たった今」
「左様でございますか。ご気分はいかがですか」
いいわけないだろう、と言おうとして、はたと口を噤んだ。そして一拍置き、
「お前は誰だ」
ベッドの脇に立つスーツ姿の男に、厳しい声で問いを投げかける。しかし男は表情を変えず、軽く一礼して、
「久野（くの）と申します。これからは私が皇様をお守りすることになります」
「何だと？ 小野寺はどうした」
「もちろん解雇されました。職責を全うできなかったのですから、当然です。しかしご安心ください。私は命に代えましても皇様をお守りいたしますので」
冴季はゆっくりと身体を起こし、久野と名乗った男を正面から見据えた。そして張り詰めた声で、
「この怪我は俺の不注意だ。小野寺に責任はない」
「怪我というのは、ほとんどが不注意で起きるものです。それを未然に防ぐのが我々の役目です」
「お前の意見など聞いていない。小野寺を戻せ」
「それは、私の職権ではありません」
確かに、久野の言う通りだった。小野寺を解雇し久野を雇ったのは、もっと大きな力。即ち、皇の父親なのだから。
冴季は落ち着け、と自分に言い聞かせた。今、この男と言い合っても仕方がない。それよりも―――
「久野、だったな。俺が眠っている間に、誰か会いに来なかったか？」
「いえ、誰も」
即答を返す久野の顔を、明らさまな疑念をにじませつつ見据える。しかし彼の表情からは何も読み取ることができなかった。
「……そうか。では、俺の携帯を持ってきてくれ」
「ここは病院です。携帯の使用は禁止されています」
「電波が悪影響を及ぼすような医療機器がどこにある」
「規則は規則です。入院中の携帯電話はお控えください。ご友人への連絡などは、全て私にお任せください」
そして久野は紙とペンを持ってきて、
「どなたへご連絡いたしますか？」
冴季はギリ、と唇を噛んで首を振り、
「いや、いい。それより、少し一人にしてくれ」
「かしこまりました」
久野の退室を耳で確認した冴季は、肩を落として項垂れた。鉛のような疲労感がのしかかって、何をどうすればいいのか頭が働かない。
「泰水………くそっ、どうすれば………」
苛立ち紛れに枕へ拳をめり込ませる。すると、その勢いでずれた枕の下から白い封筒のようなものが出てきた。
「なんだ？ これは……」
冴季は封筒を引き抜いて開封した。中には手紙が入っていた。
「まさか……」
手紙を読み進めるにつれて冴季の表情から疲労の翳が消え、瞳を強い意志の煌めきが覆い始めた。
「泰水っ！ 冴季の様子はどうだった？ 怪我の具合は―――」
温室の扉を開けて中に一歩足を入れると、すぐに那津が駆け寄ってきた。花の世話を途中で放り出すなんて、彼には珍しいことだった。
「那津………」
本当は、今すぐ那津に泣きついてこのどうしようもない不安を訴えたい。大丈夫、必ずうまくいくから頑張れと、優しく慰めて欲しい。
しかし泰水はこらえた。そして明晰な声で淡々と、今朝冴季が入院している病院で起きた出来事を那津に説明する。
「泰水に会いたくないだって？ まさか、そんなバカな―――」
「うん、分かってる。冴季くん本人の言葉じゃない。きっと、僕と冴季くんを近付けたくないんだね。もちろん、僕のせいであんな大怪我をさせてしまったのだから、親としてそう思うのも無理ないのかもしれないけど………」
「だからと言って、そんな力づくのやり方はおかしいだろう。それでは、冴季は監禁されてるも同然だ」
泰水は力なく頷いて、俯いてしまう。確かに那津の言う通りだ。冴季は病院の最上階、特別室という名の檻に監禁されているようなものだ。
あの階に上がるには、ナースステーションの向かいにある専用エレベーターを利用しなくてはならない。看護師に気付かれずに乗り込むのは不可能だろう。そして恐らく、自分の顔は看護師たちに覚えられてしまったに違いない。
ナースステーションで名前を名乗った時、応対に出た看護師がはっと息を呑んだのはつまり、予め冴季家の人間から言い含められていたからだろう。工藤泰水という少年が来たら、彼の顔をよく覚えておくように、と。
「携帯は繋がったか？」
「ううん、駄目だった。電源が入ってないみたい」
「そうか……」
那津の声も、自然と沈んでゆく。春満開の温室に、荒涼とした重苦しい空気が充満する。が、泰水はそんな鉛色の空気を払うようにぱっと顔を上げ、
「だいじょうぶっ。僕、負けないから。冴季くんが怪我で動けない今、僕が落ち込んでたら何もかもが停滞してしまう。ともかく冴季家の人たちに誠意を伝えて、冴季くんに会うのを許してもらえるよう頑張るよ」
泰水の言葉にひとつひとつ頷きを返し、那津は眩しそうに目を細めた。
「強くなったな、泰水。このままじゃ俺の方が置いていかれそうだ。俺も負けないように頑張らないと」
「そうだよ、那津。紫堂先輩と同じ大学に入れるよう頑張らないとねっ」
「うう……分かってるって」
がっくり肩を落としつつも作業に戻る那津を、泰水は精一杯の笑顔で見送った。嘘でも笑っていないと、不安に押し潰されて泣き出しそうになってしまう。
冴季家の人たちに誠意を伝えるなんて簡単に言ったけれど、一体どうやればいいのか見当も付かなかった。でも―――
「絶対に……諦めないもん………」
言葉とは裏腹に、弱々しい声で呟く泰水だった。
学校の帰り、駄目もとで冴季の見舞いに行こうと病院に寄ったら、やはりナースステーションで止められた。理由を質したら、家族以外の面会は禁止されているとのことだった。
今朝はすんなり通してくれたのに、と反論しようとしたが、何を言っても無駄だろうと思い直して大人しく引き下がった。彼女らを問い詰めても仕方ない。冴季家の指図通りに動いているだけなのだろうから。
とぼとぼと家路を辿り、肩を落として自宅の門をくぐった。すると、玄関の三和土に見慣れぬ革靴が揃えてあった。男物の、大きな靴。
お客さんかなと思い、やや小さめの声で「ただいま」と言ってすぐ自室へ上がろうとした。が、
「泰水ちゃん、帰ってきたのね。ちょっとこっちへいらっしゃい」
いつもより微かに強張った母の声。泰水は嫌な胸騒ぎを抑えつつリビングへ。そこにいたのは―――
「あ、あなたは冴季くんの……」
「今朝お会いしましたね？ 久野と申します」
冴季の新しい監視役である久野が、今朝と同じ一分の隙もない無表情で泰水を迎えた。彼の向かいに座った母親は、困惑気味に泰水を隣に呼んだ。
「こちらの方が、あなたに大事なお話があるって」
泰水はこくんと喉を鳴らして、目を逸らすことなく真直ぐ久野を見返した。そして努めて平静な声で「お話とは何でしょうか」と促した。
久野はにこりともせず、鞄から一枚の紙を取り出して泰水の目の前に差し出した。
「これは……何ですか？」
「誓約書です」
即答を返した久野は、続けて説明を継いだ。
「工藤様の過失により、冴季家は後継者である皇様の大怪我という多大な損害を蒙りました。不幸中の幸いにより怪我で済んだからよかったものの、ひとつ間違えれば取り返しのつかない事態になった恐れもあります。
当然ながら賠償請求を起こして然るべきなのですが、同じ学校のご学友であることを配慮致しまして、今後一切皇様に接触しないとの誓約を頂けましたら、今回だけは不問に処するということに―――」
「嫌ですっ」
久野の淀みない言葉を、泰水は渾身の拒絶で遮った。どうしようもなく身体が震えてくる。しかし必死に押さえ込んで、目の前の大きな力に対峙した。
「冴季くんは僕の大事な友人ですっ。怪我をさせてしまったのは申し訳ないと思います。だからこそこれからも傍にいて、支えていきたいんです。そんな……取引みたいなことは絶対にしたくありません！」
泰水の誠心こめた訴えも、久野の眉を僅かに動かすだけの力しかなかった。それでも泰水は怯まず絶望せず、自分に言い聞かせる。
仕方がない、今自分が対峙しているのは人間ではなく大きな壁。情で訴えても跳ね返されてしまうのがオチだ。でも、ここで引くわけにはいかない。
「償いをしろと仰るのなら、何でもします。ですからどうか―――」
泰水の懇願を遮るように、久野はぬっと手を突き出して誓約書を掴み、泰水の母の前に置き直した。そしてこれまで以上に事務的な口調で、
「ご子息はこう仰っておりますが、もちろんそんな理屈が通用しないことはお分かりですね？ もしこの誓約書にサインを頂けないのでしたら、我々はすぐに弁護士を通して―――」
泰水の母は黙って誓約書を手に取った。泰水は思わず身構える。
嫌だ、そんな穢れたものに同意するなんて絶対に嫌だ。これまで母には唯々諾々と従ってきたけれど、今度ばかりは何と言われようと受け入れるわけにはいかない。
「お母さん、僕は………」
揺るぎない意志を伝えようとした泰水は、口を開いたまま絶句した。母が、手にした誓約書を引き裂いたのだ。
さすがに久野も驚いた様子で、破られた紙切れを呆然と見つめた。その中で最も冷静なのは、他ならぬ母当人だった。
「泰水がお宅の息子さんに何か害を及ぼしたということでしたら、その償いはきちんとさせて頂きます。でも、それと二人の友人関係は別問題です。それは当人たちが決めることで、私たちが干渉すべきことではありませんわ」
「……あなたは、ご子息が怪我を負わせた相手が誰だかご存知なのですか？ 我々が請求することになる賠償額がどれほどのものか―――」
「そういったお話は、弁護士を通してされた方がよろしいのでは？」
彼女特有の少女のような笑みを浮かべてそう言うと、すぐに表情を引き締めて「お引き取りください」ときっぱり言い置いた。
久野は一瞬、額に剣呑な翳を落として睨み付けてきたが、破られた誓約書を鞄に仕舞うと無言のまま帰っていった。
「ああいやだいやだ。気持ち悪い。あの人、まるで蛇みたいだったわ。表面は冷たいけれど、妙にぎらぎらしてて」
母は無邪気な口調でそう言うと、ぴょんと立ち上がった。泰水は何と言ってよいか分からず、じっと見上げてただ「お母さん…」と呼びかけた。彼女はにっこり笑って、
「冴季くんて、この前お見舞いに来てくれたカッコいい子よね？ また家に連れてきてね」
泰水は溢れる涙を拭いながら、何度も何度も頷いた。彼女は、母親になりきれない永遠の少女なのだとずっと思い込んでいた。わが子が窮地に陥っても、為す術もなくただおろおろするだけに違いないと。だからレイプ事件の時も、母に打ち明けようとは思わなかった。
でも、それは勝手な思い込みだった。彼女は間違いなく、母親だった。大きな愛で子供を包み、守ろうとする。
「お母さん……ありがとう………」
母という存在の大きさを、初めて思い知った。
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