Second Love
　　　―最後の恋―

１７.

ふと正気に返って最初に感じたのは、やっぱり駄目だったという失望感だった。ゆっくり身体を起こして室内を見渡し、冴季がいないことを確認する。

ああ、まただ。また彼を突き放してしまったのだ。

いきなりベッドに投げ出された時は、もちろん驚いた。恐怖も感じたし、怯えもした。でも、彼の顔を見てすぐに分かった。彼が本気でレイプを試みているのではないということが。

それは、相手の人格や尊厳を悦んで踏み躙ろうという人間の顔では決してなかった。そういう行為をしようとする人間がどれほど腐敗した顔付きを晒すか、泰水は嫌というほど知っている。

大丈夫、この人は絶対に大丈夫。だから恐がらなくていい―――頭ではそう理解できていたのだが、心と身体を説得することはできなかった。

意志の制御を離れて暴走し、恐怖の記憶から逃れようともがく。たすけて、こわい、もうやめてぇ………

「冴季…くん……」

彼の温もりが欲しい、ぎゅっと抱き締めて欲しい、心からそう思う。なのに触れられた途端、過去の記憶が嫌らしい触手を伸ばして干渉し、薔薇色の感覚を病み色に染めてしまうのだ。

本来は優しくて甘くて温かな触れ合いが、一方的で直截的な欲望の押し付けとして感覚にインプットされる。そして身体は勝手に拒絶反応を示してしまうのだ。

「どうしたら……いいの………」

もうずいぶん前になるが、那津に心療内科を勧められたことがあった。俺も一緒に付いていくから、と言ってくれたけれど、泰水は即座に拒絶した。

医師とはいえ、見も知らぬ他人に心のデリケートな部分に踏み込んで欲しくなかったし、当時は男性にさわれないことに大した不便を感じてもいなかった。

那津と抱き合うことさえできれば、一生このままで構わないと思っていたのだ。

あの時、きちんと治療していればよかったのかもしれない。でももう遅いだろう。今さらそんなことを悔やんでも仕方がない。もっと別の方法を―――

「も……わかんないよ………」

もしかしたら、一生このままなのかもしれない。好きな人と触れ合うこともできず、男性の影に怯えて生き続ける。

那津だっていずれは自分の道を進んでゆく。いつまでも今のように守ってくれるわけではない。そうなった時、自分は独りで立っていることができるだろうか。

「こわい、こわいよ……」

鉛のような不安感がのしかかり、存在ごと潰されてしまいそうになる。泰水はそうと意識せぬまま、胸の前で祈るように手を組んだ。が、すぐに顔を上げ、「そうだ…」と呟く。

「祈願の…崖………」

神社の裏手にある崖は＜祈願の崖＞と呼ばれ、その途中にある小さな祠に願を掛けると願いが叶うという噂があった。

何人もの人間が願いを抱えてその崖を下りたが、件の祠を見つけた者はまだいないという。泰水も中学時代に一度試みたことがあったが、那津に止められた。

そして忘れもしない去年の夏、那津と春留のキスを見てしまった泰水は、迷わず祠を目指した。那津に捨てられたくない、もう一度自分のもとに帰ってきて欲しい、その一念で。

しかし途中で駆け付けた那津に止められ、その時も結局祠を見つけることはできなかった。だから今度こそ―――

「僕の願いを……」

何の根拠もない、“苦しい時の神頼み”だと分かってはいる。でもやれることは全てやろう。一縷の望みをかけて。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。

泰水はベッドの上から飛び下りて部屋を出ると、そのまま足音を忍ばせて玄関へ向かったのだった。




「……はい、はい……そうですか、分かりました………」

電話を切った那津は、落胆を隠そうともせずゆるゆると首を振った。

「まだ家にも帰ってないそうです」

春留と冴季は不安に曇った顔で重々しく頷いた。冴季のマンションを出てから真直ぐ温室に向かったのだが、期待を裏切って泰水はいなかった。

それから那津の家に電話をしたがやはり来ておらず、自宅にも戻っていなかった。冴季は眉間に皺を刻み、苛立たしげに二人に詰め寄る。

「で、他に泰水が行きそうなところはねえのかよ」

しかしあっさり首を振られ、「くそっ」と毒づいて椅子に座り込む。

「どこにいるんだよ……泰水………」

もう一度僕を抱き締めてくれませんか―――甘く切実な響きを伴った懇願が、冴季の身体を疼かせる。

早く、早く会いたい。そして今度こそ、あの孤独な身体に温もりを与えてやるのだ。すぐに受け入れてもらえなくてもいい。少しずつ前進するための第一歩を、共に踏み出すのだ。

なのに、ようやく自分の気持ちに気付いた冴季の前から、泰水は姿を消してしまった。焦りばかりが募ってどうしようもない。出会った時からすれ違いばかりの自分たちが滑稽で、冴季は思わず自嘲めいた呟きをこぼした。

「桜の花びらに願掛けしたいぐらいだ……」

しかし、何気なく口にしたその言葉に、何故か那津も春留も顕著な反応を示した。がばと立ち上がり、

「願掛けだ！」

二人同時に同じことを叫び、温室から飛び出す。冴季は何がなんだか分からぬまま、慌てて二人の後を追った。

「おいっ、いきなりどうしたんだ、どこに行くんだよっ」

すると先を走っていた二人は速度を緩めて、冴季が追い付くのを待った。

「詳しい説明は後で。泰水が行きそうな場所に思い当たったんだ」

那津の言葉に頷きを返し、

「分かった。すぐにそこへ向かおう。正門の前で車が待機している」
「ああ、頼む」

泰水の行き先に見当が付いたにもかかわらず、那津と春留の顔がさらに不安で曇ってゆくのが気になったが、ともかくそこへ向かうのが先だと自分を宥めて急ぐ冴季だった。




ここを訪れるのは何カ月ぶりだろう。確か去年の晩夏、不安に騒ぐ心を持て余しつつ春留と一緒に石段を上った。そして再び、泰水を追ってここまで来た。

「この上だ。行こう」

那津の号令に二人は頷きを返し、連なる石段を無言で上り続けた。

ようやく上りきると、荒れる呼吸を静める間もなく敷地内を突っ切り、神社の裏手に出た。立ち入り禁止の札が立てられた柵の向こうに、目的の＜祈願の崖＞はあった。

「あそこか？」

冴季の問いに頷き、ゆっくりと歩みを進める。まだ完全に日は落ちていないものの、黄昏の逢魔が時に相応しい曖昧な闇に包まれんとしていた。

「……いないな。まさか、もう………」

柵の周辺に、人の気配はなかった。すでに崖を下り始めているのか、或いはここが目的地ではなかったのか。

後者であることを願いながら近付こうとした時、崖の方から微かな悲鳴のようなものが聞こえた。冴季は弾かれたように走り出し、柵をまたいで崖の端に膝をついた。

「危ないぞ、慎重に―――」

もちろん那津の制止など耳に入らず、崖から身を乗り出して下方を探す。すると崖の途中、大きく張り出した部分にぺたんと座り込む泰水の姿が見えた。

「泰水っ、そこにいるのかっ？」

頭上からの呼びかけに泰水はびくんと身体を震わせ、首を曲げておそるおそる見上げる。そして信じられないとばかりに大きく目を見開き、唇をわななかせた。

「さえきくん………どして………」

冴季は努めて声を和らげ、

「泰水、怪我はないか？」

予想外に優しい言葉に涙腺が刺激されたのか、泰水の瞳はゆっくりと潤み始めた。

「ひざ……すりむいちゃったの。でもだいじょうぶ………」

冴季は「分かった」と返すと、地面に這いつくばって泰水の方へ手を伸ばした。

「掴まれ。引き上げてやるから」

しかし泰水はふるふると首を振って切実な眼差しを向け、

「もっと……下におりなくちゃ。祠が―――」
「馬鹿野郎ッ。そんな危ない真似して、怪我でもしたらどうするんだ！」

冴季はたまらず声を荒らげ、さらに腕を伸ばした。泰水の方からも、近くの岩によじ登って手を伸ばせばぎりぎり届く距離だったが、やはり泰水は頑に拒絶する。

「いいもん、怪我したって！　だいじなだいじなお願いをするんだからっ」
「過去の恐怖を乗り越えて、人との接触を、俺との接触を受け入れることができるようになりたい、か？」

泰水は瞠目したまま口をぽかんと開けた。やがて狼狽と怯えに震える声で、

「ど…してそれを………」
「全部聞いた。お前が背負わされ、これまでずっと引きずってきた苦しみ、痛みの全てを」

驚きの余り絶句する泰水に、冴季は声を嗄らして本心をぶつけた。

「この馬鹿が！　なんで俺に言わねえんだよッ。一人で抱え込んで、挙句の果てにこんな危ない真似して神頼みか？　ふざけんなッ」

もし那津と春留が自分を信じて打ち明けてくれなかったら、泰水とは何も解り合えずすれ違ったまま、よそよそしい他人のままで終わったかもしれないのだ。

そう思っただけで怒りや苛立ち、恐怖が込み上げてくる。胸を圧迫する感情を吐き出すように、冴季はさらに吼えた。

「お前の過去を知った俺が、そのせいでお前のことを嫌ったり馬鹿にしたりするとでも思っていたのか？！　俺をそんな人間だと思っていたのか？！　冗談じゃねえ、俺はっ―――」
「違うッ」

灼け付くような意志のこもった声に鋭く遮られ、冴季は思わず息を呑む。それは、背後でことの成り行きを見守っている二人も同じだった。

「君に話せなかったのは、そんな理由じゃない。僕は………同情されるのが恐かった」
「な…んだと……」
「あの話をして、君に同情されるのが恐かったんだ。だって―――」

悲壮なほど澄み切った瞳から、涙がぽろぽろこぼれ落ちる。しかし泰水は拭うことも忘れ、苦しくも切ない本心を打ち明けた。

「同情が……愛情に変わることは絶対にないって知ってたからっ………」
「泰水……」

泰水は冴季の顔を一心に見上げ、溢れる涙と共に訴えた。

「僕と…那津のことも知ったんでしょ？　そうだよ、僕はあの事件で那津の同情を引き、僕の傍に縛り付けておくことに成功した。那津は優しかった。僕のどんな我がままも、諦めたような微笑みを浮かべて全て聞き入れてくれた。でも………」

泰水はこくんと喉を鳴らして涙と嗚咽を呑み込み、

「でも、那津が愛してくれたことは……一度もなかったよ………」

泰水の言葉に、最も激しい反応を示したのは那津だった。握り締めた拳が、痛みに耐えるかのようにぶるぶると震えている。その拳を、那津のより小さくて華奢な手ががっしりと掴んだ。

お前一人が背負うな、その手は無言のうちにそう言って、自責の念に頽れそうな那津を支えた。

「だから僕………君には知られたくなかった、同情されたくなかった。僕は君に……あ、愛されたかった………から………」

全てを吐き出した泰水は、力尽きたようにぐったりと項垂れた。冴季に知られてしまった以上、願掛けしても無意味だ。もう彼のことは忘れよう。那津の時と同じ過ちを犯すことは―――

その時、頭上からがさがさと物音が聞こえてきた。泰水がのろのろと顔を上げると、冴季が崖を伝って下りてくるのが見えた。

「さ、冴季くんっ、あぶな―――」

泰水はおろおろしつつ慌てて立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らずその場にぺたんと座り込んでしまう。そうするうちに、冴季は見事な四肢さばきで崖を下り、泰水の眼前にふわりと着地した。

泰水はどうしてよいか分からず、ぱくぱくと口を開いて冴季の名を呼ぼうとする。しかしそれに先んじて、冴季が苛立たしげに吐き捨てた。

「誰が同情なんかするか」
「冴季く―――」
「辛かっただろう、可哀想に、って？　そんなの他人事じゃねえか。俺は、お前の痛みも苦しみも、そして過ちも全て、この身に引き受けたいんだよ」

冴季はそう言い切って、泰水の前に膝をつく。そして腕を広げ、

「今すぐここに飛び込んで来いとは言わない。どれだけ時間がかかっても構わねえ。けれどよく覚えておけ。ここはお前のためにある。お前の身体を温めるためにある。分かったな？」

冴季の言葉が、想いが泰水の中にするすると染み込んでゆく。しかし嬉しさよりも寧ろ、戸惑いの方が大きかった。

泰水は怯えた様子で小さく首を振る。対して冴季は苛立ちも見せず、たったひと言、想いを込めて「お前が好きだ」と告げた。泰水はひゅっと息を吸って震え、

「わ、わかんない……わかんないの………ぼく、愛されたことないから、ずっと追いかけるばかりだったから……愛されるのがどういうことなのか……分からない………」

切実な訴えに、冴季の胸は音をたてて軋んだ。しかし敢えてそれを抑え込んで鷹揚に笑い、

「なら、これから俺が嫌というほど教え込んでやる。愛されるってのがどういうことなのか。一生かけてな」
「さえき…く………ぅっ、ふぇ、ぇ、ぇぇっ…………」

喜びとか驚きとか戸惑いとか、色んな感情が一気に湧き上がって心の容量を超えてしまった。泰水は何がなんだか分からないまま、見えない力に背中を押されるようにして冴季の胸に飛び込んだ。

「泰水っ………」

冴季は驚いたが、すぐにその身体を抱き締めた。怯えさせないよう力の加減をしなければと思うのだが、腕が言うことを聞いてくれない。ぎゅうっとしがみ付いてくるこの小さな身体が愛しくて、ありったけの力で抱き返してしまう。

「泰水、もう大丈夫だ……」

心を込めて囁くと、泰水は小さく頷いた。男に襲われかけた泰水を助けた時、冴季が何度繰り返しても決して受け入れようとしなかった言葉。ようやくそれを、泰水の心に届けることができた。

込み上げる喜びが、冴季の身体を駆け巡る。

「泰水、泰水っ………」

冴季は泰水の名を呟きながら、切実な自問を繰り返した。自分の温もりはきちんと伝わっているだろうか。ずっと孤独を耐えてきた身体に、僅かでも癒しを与えられているだろうか………

やがて、泰水は胸にしがみ付いたままゆるゆると顔を上げた。そして涙でぐしゃぐしゃの笑顔を向けて、

「とってもあったかいよ、冴季くん」

二つの孤独な魂が、ひとつに融け合った瞬間だった。

BACK　　　　　　TOP　　　　　　NEXT