Second Love
　　　―最後の恋―

１６.

門を出たすぐ脇に、見慣れた車が停まっていた。すかさず小野寺が降りて冴季のためにドアを開ける。

「あ、あの、冴季くん………」

泰水の方を見向きもせずさっさと乗り込む冴季に、泰水はおそるおそる声を掛けた。すると不機嫌を隠さぬ尖った声で「さっさと乗れ」と命令が飛ぶ。

泰水は考えるより先に返事をして、そそくさと乗り込んだ。

「……皇様」

微かな困惑をにじませて、小野寺が声を掛けた。しかし冴季は何の説明も与えず、「いつもの部屋に行ってくれ」とだけ言い置いてシートに身体を沈め、目を閉じた。

小野寺はちらと泰水を一瞥したものの、「分かりました」とだけ答えて車を走らせたのだった。




冴季言うところのいつもの部屋、それは公園の近くにひっそりと建つ高層マンションにあった。

エントランスでセキュリティチェックを受け、エレベーターに乗る。ワンフロアを所有しているのか、降りた階に他人の気配は感じられなかった。

冴季は泰水の存在など忘れてしまったかのように背中を向け、自分のペースで真直ぐ部屋に向かった。しかし鍵を開けるとようやく泰水の方を向いて、顎をしゃくって“中に入れ”と無言で命令する。

もちろんここまで来たからには従うより他なく、こくんと頷いて室内に足を踏み入れた。

「う…わ……」

白い大理石が眩しい玄関ホールから真直ぐ進むと、広いリビングに出た。冴季はソファの上に鞄と上着を投げ出し、泰水の顔を冷たく見返した。

「冴季くん、ここは……」

戸惑いと怯えを濃厚に刻んだ声で訊ねる泰水に、冴季は「別宅だ」と素っ気なく答える。

「別宅…？」
「ああ。分かりやすく言えば、女とヤるための部屋だな」
「そ、そう……」

泰水は何と応じてよいか分からず、そっと目を逸らす。そうか、ここで彼は色んな女性と―――

息を吸うたびに、女性の残り香が体内に流れ込んでくるような気がする。耳を澄ませば、冴季に愛され、抱かれた女性たちの呼吸が聞こえてくる。泰水はその全てを追い払うように首を振った。そして強い意志と共に顔を上げ、

「冴季くん、この前はごめんね」
「あ？　何のことだ」
「東京駅から戻ってきた時のことだよ。優しく抱き締めてくれたのに、いきなり突き飛ばしたりして……」

泰水の真摯な謝罪に、冴季は肩を竦めて嗤い、

「そんなことを言うために、俺にしつこく付きまとったのかよ。ヒマな奴だな」
「ううん、それだけじゃない。もうひとつお願いがあるんだ。あの……」

泰水は一瞬ためらったものの、意を決して口を開いた。

「もう一度……僕を抱き締めてくれませんか？」

冴季に自分の気持ちを伝えるためには、どうしても乗り越えねばならない壁。胸奥に刻み込まれた過去の恐怖に振り回されず、冴季の温もりをこの身体でしっかり受け止めるのだ。

しかし、泰水の懇願に込められた切実な事情を冴季が理解できるはずもない。一瞬目を見開いて驚きを露わにしたが、すぐに陰険な嗤いで口許を汚した。

「は、は……。なんだお前、俺に抱いて欲しいのか？」

馬鹿にしたようにそう言ってぬっと手を伸ばし、泰水の腕を掴んだ。そして、

「いいぜ。来いよ」

地を這う声でねっとりと囁くと、そのままリビングから出て隣の部屋へ。さらに奥の続き部屋へ引きずると、窓から射し込む夕陽で赫く燃え上がるベッドの上に乱暴に投げ出した。

「さえきくん………」

制止も抵抗もできず、ただ呆然と名前を呟くだけの泰水を、冴季はいとも簡単に押さえ付けた。そして胸元に手を掛けてシャツを左右に引き裂き、滑らかな素肌を剥き出しにした。

灼光に侵された肌はぬめるような光沢を見せ付け、冴季の性本能を刺激する。頭が指令を出すより早く首筋に噛み付いて、柔らかくまろみを帯びた甘い肌を一心に味わった。

しかし、我を忘れた至福の時は長続きしなかった。泰水の肌を味わうのに専念しながらも、耳だけは異質な音を捉えた。

何か硬いもの同士がカチカチとぶつかり合う音。それが、歯の鳴る音だと気付くのに時間はかからなかった。

「泰水っ」

冴季は慌てて身体を起こし、泰水を上から見下ろす。予想通り、その顔からは血の気が失せて蒼褪め、焦点の曖昧な瞳を大きく見開いてガチガチと震えていた。

「泰水、泰水っ」
「た……すけ……て…………」

正気に返すため肩を揺すろうとしたが、すぐに思い直してやめた。そういった行為が逆効果であることは、経験から学んでいたから。

「くそっ……」

冴季はシーツをぎりぎりと握り締めて自分への苛立ちを吐き出すと、泰水を刺激しないようにそっとベッドから下りた。

「……悪かった。今、那津を呼んでやるからな………」

ベッドの上でまだ震えている泰水から目を逸らしつつ、冴季は力ない声で謝罪を捧げた。そして早足で部屋から出ていった。が、

「た……すけ…て………」

もし、もう少し冴季が泰水の傍にいたら、何かが変わっていたかもしれない。何故なら―――

「さえき…く……冴季くぅん………」

一途にわななく泰水の唇は、那津ではなく冴季の名を呼び続けていたのだから。




「……これで、君に呼び出されるのは二度目だ」

冴季は肩を落として、「ああ、そうだな」と素直に返した。そして、那津の後ろから現れた春留に視線を送り、

「……あんたも来たのか」

そう言ってやつれた笑いを見せた。妙に親しげな態度に不審を覚えた那津は、「知り合いなんですか？」と春留に問う。すると春留の代わりに冴季が肩を竦めて答えた。

「以前、説教された。それだけだ」
「説教したわけじゃねえ。事実を述べたまでだ」

春留の訂正でますます訳が分からなくなったが、今はそれにこだわっている時ではない。那津は改めて冴季に詰め寄り、

「で、泰水はどうしてる」
「奥の部屋だ」
「今度は何があったんだ」

冴季は一瞬ためらったが、すぐに口を開いた。

「無理やり抱こうとした。それだけだ」

今度こそ胸倉を掴まれると覚悟していた。しかし那津も春留も険しい反応を見せず、「何故そんなことをしたんだ」と冷静に訊ねてきた。

「泰水にもう一度抱き締めてくれと言われた」

冴季の答えを聞いて、那津は痛ましげに眉をひそめた。泰水の悲壮な決意が伝わってくる。冴季の温もりを何とか受け入れようとしたのだろう。しかし―――

「だから抱こうとしたんだよ。二度と俺なんかに関わりたくないと思わせるためにな。どういうつもりだか知らねえが、もうこれ以上あいつに振り回されるのはごめんだ」

冴季は強い口調でまくしたてると、立ち上がって扉の方へ真直ぐ向かい、

「さあ、さっさと連れ帰ってくれ。そしてあいつによく聞かせてやってくれ。もう二度と冴季なんかに関わるんじゃないと」

吐き捨てるようにそう言って、部屋から出て行こうとした。が、

「待ってくれ」

那津に呼び止められ、思わず足を止める。その声には、冴季の歩みを止めるだけの力がこもっていた。

「……何だよ」

不機嫌を隠さず振り向くと、那津と春留が思わせ振りに視線を重ねて頷き合った。そして、

「君に聞いてもらいたいことがあるんだ。他ならぬ、泰水のことだ」

訝る冴季を真直ぐ見つめながら、那津はゆっくりと語り出した。

「あれは、俺たちが中学生になったばかりの頃だった―――」

自分のちょっとした過ちが、泰水に取り返しのつかない傷を背負わせてしまい、それが引き金となって男性への慢性的な恐怖という心の病を発症することになった。そして、同情と罪悪感から泰水に請われるまま歪んだ関係を続け、それがいよいよ行き詰まり出した頃、春留と出会った。

それにより、徐々にだが泰水も変わり始め、ようやく自分も泰水も新しいスタートラインに立つことができたのだ―――

「ずいぶん遠回りをしてしまったけれど、俺と泰水はやっと正常な関係に戻ることができたんだ」

深い感慨を込めて言い置く那津を、冴季は顔を歪めて詰った。

「あんたの優しさは……残酷だ」

那津は弱々しく頷いてその言葉を受け入れる。

「ああ。春留先輩にも幾度となく言われた。それは本当の優しさじゃない、ただ罪悪感から逃れるためだけに愛情を偽装して、期待を持たせた挙句振り回して……」

冴季はぎゅっと拳に力を込め、湧き上がる感情に耐えた。見知らぬ男たちに犯され、それからずっと男性の影に怯えながら生きてきた泰水。たった一人心を許せる那津にすがりたくなるのも無理はない。

しかし泰水は分かっていたはずだ。那津が自分のことを心から愛してくれることは決してないと。同情から愛情が生まれることはないと。どれほど……苦しく切なかっただろうか。

「泰水は……それを乗り越えたんだな。あんたとの歪んだ関係を、自ら清算しようと自分から―――」
「その通りだ。泰水は自分から身を引くことで、俺を罪悪感の檻から解放しようとした。そうして俺たちは、徐々にだが新しい関係を築き上げてゆくことができたんだ。
でも、過去に受けた傷はそう簡単には癒えず、今も心の暗部で疼き続けている。そのせいで男性に触れられると、自分の意志とは関係なく当時の記憶が蘇り、恐慌状態に陥ってしまうんだ」
「そう…だったのか……」

ついさっき目にした、泰水の恐慌を思い出す。四肢を硬直させ、焦点の曖昧な瞳を宙に彷徨わせて震える。あの時彼は、頭の中で暴れ回る恐怖の記憶と必死に闘っていたのだ。

いや、今回だけではない。彼女の振りをさせたせいで襲われかけた時もそうだ。身の置きどころもないと言わんばかりに頭を抱えて怯え、たすけて、たすけてと悲愴な声で繰り返していた。

「泰水………」

もう駄目だ。許してはもらえないだろう。知らなかったこととはいえ、傷口を抉るような仕打ちを何度も浴びせてしまった自分が、今さらどんなに謝ったところで―――

「しかし泰水は今、自らそれを乗り越えようとしているんだ」

那津の確信的な言葉に、冴季は思わず顔を上げた。那津の目を真直ぐ見返して、

「乗り越えようとしている、と？」
「ああ、そうだ。過去の経験を乗り越えようとしている。何故なら、君に出会ったからだよ。君の存在が泰水を大きく前進させたんだ。君と触れ合いたい、温もりを受け入れたいという強い願いが泰水を駆り立てた。だから、もう一度抱き締めてくれと懇願したんだ」
「俺、が…？　そんな馬鹿な………」

困惑も露わにゆるゆると首を振る冴季に、那津は諭すように語り掛ける。

「嘘じゃない。泰水は俺の腕の中で、君の名前を呼びながら泣いた。これでさよならなんて嫌だ、絶対に嫌だと子供みたいに駄々を捏ねてね。過去のことを全て彼に打ち明けてみたらどうだと言ったら、即座に首を振って拒んだ。君に嫌われてしまうと思ったのだろう」
「馬鹿野郎………嫌うはずねえだろ」

苦しげに呟く冴季の声は、溢れんばかりの愛情で震えていた。那津は満足そうに頷き、

「俺も春留先輩も、君を信じることにした。だから泰水の許可を得ず打ち明けることにしたんだよ」

そしてゆっくりと冴季に近付くと、その眼前で頭を下げた。

「泰水が君との接触を受け入れられない原因を作ったのは俺だ。済まない。少し時間はかかるかもしれないが、泰水が過去を克服するまで傍にいて、見守ってやってくれないか？」

冴季は不愉快そうに鼻を鳴らし、

「頭を上げろ。今の言葉は聞かなかったことにする。俺は俺自身の意志で泰水を守るんだ。あんたに頼まれたからじゃない」
「青臭えヤツだな」

この場面で初めて春留が口を開いた。じろりと睨み付けてくる冴季に屈託ない笑いを向け、

「褒めてるんだぜ、お坊っちゃん」

冴季は苦々しい表情を浮かべながら、このやたら綺麗で口の悪い男にはもしかして一生敵わないかもしれないと思った。くるりと背中を向け、

「泰水のところに行ってくる。あんた達はどうする」
「俺らはここで待ってるよ。もう、君たち二人の問題だ」

冴季は無言のまま頷きを返し、早足で部屋を出ていった。那津は深い息を吐き、

「これで……良かったんですよね………」

春留に訊ねるでもなく、ぽつりと呟く。那津の不安、迷いを察した春留は殊更力強く「ああ」と答え、

「あとは信じるだけだ。自身の意志で泰水を守ると言ったあいつの言葉をな」
「そうですね」

微笑みを交わしながら、ソファに腰を下ろそうとした時だった。ばたばたと荒々しい足音が近付いたと思ったら、扉が凄い勢いで開いた。そして、

「泰水がいない！　部屋にも、どこにもっ―――」
「なん……だって？！」

不安に曇る顔を見合わせた三人だったが、すぐに頷きを交わして部屋を飛び出した。

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