Second Love
　　　―最後の恋―

１４.

取り敢えず学校に着いた二人だったが、授業に出るつもりもなかった。しんと静まる敷地内を、どこへ向かうでもなくてくてく歩く。すると突然冴季が立ち止まり、

「お前に、訊きたいことがある」

これまでにない真剣な表情に、泰水は思わず姿勢を正した。冴季は続けて、

「お前が、金や援助目当てで俺に近付いたのではないということは分かった。ならば何故、俺を園芸部へ引き込もうとあそこまで必死になったんだ？　自慢じゃねえが、俺から冴季家の力を取ったら何も残らない」
「そんなことないっ」

半ばムキになって即座に否定する泰水を、冴季は複雑な表情で見つめた。嬉しさと照れと不審がごちゃ混ぜになって、どんな反応を返してよいか分からない。

対して泰水は義憤に駆られた様子で頬を紅潮させ、

「君の優しさ、温かさを僕は知っている。僕は……見たんだ」

何をだ？と問うより先に、泰水がくるりと向きを変えてすたすた歩き始めた。冴季は慌ててその後を追う。

「どこへ行くんだ」
「いいから付いてきて」

歩みを緩めることなく、ぴしゃりと言い置く泰水。訳も分からず振り回されるのは、これで二度目だ。でも、決して嫌な気分ではなかった。

泰水が向かっているのは、入学式の日に初めて冴季の姿を見た場所。木々に囲まれた、狭いけれど美しい宝石のような空間。そしてあの時は、名も知らぬ白い花が一面に咲いていた。

今はもう残っておらず、柔らかそうな草がそよそよと揺れているだけだったが。

泰水はこの空間が湛える静謐を乱さぬよう、そおっと足を踏み入れて、

「入学式の日、僕はここで君を見たんだ」
「ここで、俺を？」
「うん。君はたぶん、ちょっと抜け出して一服するつもりだったんだろう。煙草とライターを取り出したけれど、一面に咲く白い花を見て困ったように笑い、火をつけずに仕舞った」

一面に咲く白い花―――その光景が冴季の頭を鮮やかに埋め尽くした。

「ああ……思い出した。確かにそうだ。白い花が……たくさん咲いていた」
「あの木の根元に座った君は、すぐ傍で大きな石が花を押し潰していることに気付いた。すぐにその石をどけると、花を労るように指先で優しく撫でたんだ。僕はその全てをここから見ていたよ。声を掛けようかと思ったけれど、この静かなひとときを壊したくなかったから、黙って息を潜めて―――」

ここまで淀みなく話していた泰水だったが、急に恥ずかしそうに俯いて続きの言葉をためらう。しかし意を決して顔を上げ、

「あの時から、君のことがずっと引っ掛かっていた。君みたいに小さな命を労ることができる人にこそ、園芸部に入って欲しいと切実に思ったよ。だから僕………」

一途な眼差しを向けられ、冴季はようやく気付いた。泰水は最初から、初めて会った時からずっとこの澄んだ目で自分を見てくれていたのだ。

そう、どうしようもなく曇っていたのは自分の目だった。そのせいで、泰水の純粋な想いが歪んで見えてしまっただけのこと。

「そう……だったのか………」

ずいぶんと遠回りをしてしまった。あの時見た、花びらを追い掛ける一途な眼差し、花びらを掴まえた時の輝く笑顔を信じていれば、彼を傷付けずに済んだのに―――

「……俺も、お前を見た」
「え？」
「こっちだ」

今度は冴季が突然歩き出した。泰水はあわあわしつつも小走りで後を追う。冴季が向かっているのはもちろん―――

「あ、ここ………」

校舎の裏手にある、泰水のもうひとつの秘密の場所。守り神のような大きな桜の樹が枝を広げ、涼しげな木蔭を贈ってくれる。

「入学式の日、ここで偶然お前を見かけた。お前は走り回って、必死に桜の花びらを追い掛けていた」
「み、見てたの……？」

子供みたいな行いを見られていたと分かり、恥ずかしさで頬がみるみるうちに赤らんでゆく。冴季は浮き立つ内心を抑え、からかうように口端を吊り上げ、

「ああ、見てた。花びらを掴まえられないばかりか、足下をとられてすっ転んでたよな。すげえどんくせえ」
「な、なんだよ、もおっ」

恥ずかしさを隠すため、声を張り上げ腕を振り翳し挑みかかる。もちろん冴季は難なく躱し、「その動きもどんくさいんだよ」とさらにからかう。

ひとしきり追いかけっこをしたが、やがて冴季は神妙な顔付きで泰水を見つめ、

「俺も……お前のことがずっと気に掛かっていた。花びらを一心に追う横顔も、手に入れた時の無垢な笑顔も、頭ん中に灼き付いて離れなかった」
「冴季くん……」
「だから、お前が俺を引き込もうと近付いてきた時は正直ショックだった。ああ、こいつもか、こいつも他の奴らと同じく、金目当てで俺に取り入ろうとしているのか、と……」

泰水は唇を噛み締めて、何度も首を振る。冴季は分かっているという風に頷いて、

「お前に非はない。俺の目が、心が曇っていたからそう見えてしまっただけだ。だから……からかい半分であんな契約を提示したんだ。お前を貶めるような契約を」

悔恨の情を握り潰すように拳を震わせ俯く冴季を、泰水は優しい眼差しで包み込んだ。

「もういいよ。違うって分かってもらえたんだもん。それがすごく嬉しいんだ。だから顔を上げて。ねっ？」

温かな促しに誘われてゆっくり顔を上げると、二人の視線は重なり、絡まり、融け合ってゆく。これほど濃厚に、互いの存在を感じたのは初めてだった。

泰水は若干戸惑いつつもはにかむように笑い、胸ポケットから生徒手帳を取り出す。そして挟んであった一枚の花びらをつまんで、空に翳した。

「願いが叶ったから、土に還してあげるんだ」

そっと指を離すと、花びらは風に煽られて舞い上がり、あっという間に見えなくなった。

「………どんな願いを託したんだ？」
「うん、最初は園芸部にたくさん部員が入りますように、って。でも、さっき東京駅で願いを変えたんだ。冴季くんがお母さんと会えますようにって祈ったら、桜の花びらが一枚、どこからか飛んでくるのが見えたんだ。それを目を追ったら、その先にお母さんが―――」

泰水は途中で言葉を切り、上目使いで見上げて「ほんとなんだから…」と弱々しく加える。信じてもらえないだろうと思ったのだ。しかし、

「……それ、俺も見たぞ」
「ほ、ほんと？」
「ああ。桜なんて疾うに散ってるのに、何でこんな所に花びらがと思って目で追ったら―――」

泰水は大きな瞳をくるんと見開いて、「すごぉい…」と呟く。冴季も苦笑しつつ「ああ、すごいな」と同意した。そして小さく溜息をつき、

「俺も、一枚掴まえときゃ良かった」

泰水はちょんと首を傾げて、

「願いごと？」
「ああ。それも、けっこう切実な」
「冴季くんでも、願掛けとかするんだあ」

そう言って無邪気に笑う泰水の眼前に、冴季は立った。その瞬間、二人の間に通う空気の質感が変わった。泰水はそれを敏感に察し、本能的に身構える。何だろう、この感じ。まさか―――

「泰水、俺は………」

こわい、こわい、その先は聞きたくな―――

「俺はお前のことが……」

冴季はそっと両手を広げ、泰水の身体を抱き締めた。想像よりずっと華奢な造形が胸を締め付ける。

腕の中で小刻みに震える身体が愛しくてきつく拘束したくなるが、怯えさせてはいけないと自制して穏やかな抱擁に徹した。そう、冴季は飽くまで紳士的に振る舞った。が―――

「ぃ、ぃゃ………」

濃密な触れ合いに刺激され、記憶の奥に閉じ込めた魔物がゆるりと頭をもたげる。それは徐々に動き出し、泰水の心の正常な部分を侵蝕し始めた。

「……泰水？」

泰水の異変に気付いた冴季は、訝るようにその名を呼んだ。腕の中の身体は、異常な震えを見せ始めていた。

それだけではない。肩は時折ぴくぴくと上下に痙攣し、呼吸は喉の奥から搾り出すようにひゅうひゅうと掠れた音をたてる。

「泰水、どうしたんだ。泰水っ」

冴季の呼びかけに、泰水は必死で応えようとした。ううん、何でもないよ、大丈夫―――しかし唇からは、苦しげな呼気がこぼれるばかり。

それでも泰水は、何とか自分を保ち続けた。大丈夫、何も恐いことなんかない。この人を信頼して、この温かな胸に自分を預けてみるんだ、と。しかし、

「泰水っ、俺を見ろ！」

冴季に両肩を強く掴まれた瞬間、過去の記憶という名の魔物に心の領域全てが占有された。

泰水は痛ましい悲鳴を上げて冴季の胸を押し返す。突然の拒絶に冴季は戸惑いながらも、泰水を落ち着かせようと背中に腕を回した。が、その行為が余計に泰水を追い詰めてしまった。「ひっ」と喉の奥で声を上げ、次の瞬間、

「いやああ……那津、那津ぅ………」

救いを求める切実な響きを伴った声で、那津の名を繰り返す。それは泰水にとって半ば呪文のようなものだった。実際に那津を求めているというより、自分を落ち着かせるために口にするという意味合いが強かった。

しかし当然ながら、冴季はそこまで汲み取ることなどできない。彼にとっては、自分の腕の中で他の男の名前を呼ばれた、それ以上でもそれ以下でもなかった。

冴季は額に鉛色の翳を落とし、泰水の身体を突き放した。そして昏い自嘲を浮かべ、

「悪かったな、那津じゃなくて」
「あ………違…………」
「早く温室に戻れよ。愛しい那津が待ってるぜ」

精一杯の皮肉を込めて言い置くと、冴季はくるりと背中を向けた。自分がしてはいけないことをしてしまった、言ってはいけないことを言ってしまったと今さらながら思い知った泰水は、弱々しく震える声で引き止める。

「ま、待って……冴季く………」
「じゃあな。黙って言う通りにしてやったんだ。契約は遂行された。これであんたと俺はもう……無関係だ」
「やだ……やだよぉ………」

冴季は湧き上がる感情に耐えるようにぎゅっと拳を握り締めたが、やがて泰水の方を振り向くことなく去っていった。

「行っちゃ……やだぁ…………」

もう僕を一人にしないで―――泰水の声なき懇願が、冴季の背中に届くことはなかった。




それからどこをどう歩いた分からない。気が付けば雑木林を抜け、温室の前に立っていた。すると気配を察した那津が、すぐに中から扉を開けてくれた。

「泰水っ？　どうしたんだ一体。心配してたんだぞ」

その証拠に、いつも柔和で優しい那津の顔は僅かに尖っていた。

「お前の様子も尋常じゃなかったし。冴季と出ていったきり帰ってこないし。まったく―――」
「もういいじゃねえか。そんなにがみがみ怒るなよ。泰水にだって色んな事情があるんだ。なあ？」

那津の背後で、春留が笑いながらフォローしてくれた。大学の帰りに寄ったのだろう。もしかしたら、泰水のことを心配した那津が呼んだのかもしれない。

「んっ、ふぇ、ぇっ、ぇぇっ………」

げんこつを目に当てて、迷い子のように泣きじゃくり出した泰水を、那津は慌てて宥めた。

「あ、いや、そんな怒ってるわけじゃないぞ、うん。ただその、帰りが遅いから何かあったのかと―――」
「ほ〜〜ら、お前が理由も訊かねえで怒るから、泰水が泣いちまったじゃねえか。度量の小せえ男だな。泰水、泣くな。お兄さんが旨いもの奢ってやるから」
「いや、今回は俺が奢りますっ。度量の小さい男と言われて、黙ってるわけにはいきませんからね。泰水、何か食いたいものあるか？」

押し付けがましくならないよう、冗談混じりで慰めてくれようとする二人の優しさがじんわり沁み込んでゆく。なのに―――

「ぇっ、ぇぇっ………」

心を占めるのは、ただ冴季のことばかりだった。

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