第7話
昴が扉を閉めると同時に、狭い室内の温度が上昇したような気がした。いや、上がったのは真琴の体温だ。冷静になろうとする意志に反して、身体が勝手に火照ってしまう。
「な、なんだよ答えって」
真琴が挑むように返すと、昴の眉がわずかに上がった。そんなちょっとした表情の変化にさえ、苦み走った男の魅力がある。真琴はたまらず目を逸らし、深く息をついて胸奥に溜まった熱気の塊を吐き出した。
「真琴、ずっと俺のこと避けてただろ」
まったくもってその通りなのだが、真琴はもちろん否定した。
「なに言ってんだよ。同じ学校に通ってて、どうやって避けるんだ。ていうかお前、こんなところで油売ってていいのか。練習はどうした」
「今日は休み」
しごく真っ当な答えに、真琴は「そうか」としか返すことができない。その隙に、昴が素早く近づいてきた。真琴は反射的に後ずさる。すると昴は昏い自嘲の毒を含んだ笑みを浮かべ、
「ほら、避けてるじゃないか」
「いきなり近づいてきたから驚いただけだっ。ここは学習指導室だ。何も相談することがないなら帰れ」
「真琴、俺の恋人になってくれ」
思わせぶりな計算も、相手の思惑を窺うような媚びの色もない、いっそ清々しいほどの申し出に、真琴は泣きたくなった。これを面と向かって拒絶せねばならない自分の身にもなってくれと、お門違いと分かっていながらつい怨み節が出てしまう。
真琴は両の拳をぎゅっと握り締めて内心の騒擾を抑え、昴を見上げ、
「それはできない」
はっきりと拒絶した。昴は表情を変えず、
「理由は？ 身長については問題ないはずだ。他に何が足りないのか言ってくれ」
「そういう問題じゃない。お前が何をどうしようが、無理なものは無理なんだ」
「今、付き合ってるヤツがいるから？ まさか臣川じゃ───」
真琴は思わず大声を上げた。
「なんで臣川の名前が出てくるんだっ」
「だってあいつ、真琴のこと好きだろ？ いつもぎらついた目で真琴のこと見てる。何度あいつの胸倉掴み上げて、真琴にそんな下衆な視線浴びせるなと脅してやろうと思ったか」
昴はさらりと答えると、額に鉛色の翳を落として真琴に詰め寄り、
「臣川と付き合ってんのか？」
「ち、違う！ もう付き合ってねえよ」
昴の眉がぴくりと神経質に吊り上がった。つい口を滑らせて昔は付き合っていたことを暴露してしまったことに、真琴は気づいていない。
「俺に恋人がいるとかいないとか、そういうことじゃないんだ。いいか、そもそもお前の俺に対する想いは、恋愛のそれじゃない。母親とか母性とか、そういう温かい庇護に対する憧れや愛慕を、恋愛感情と取り違えているだけだ」
ここまではっきり指摘してやれば、聡明な昴のことだから納得するに違いない。そんな真琴の予想を、昴はあっさり裏切った。
「なに言ってるんだ。俺は一度だって真琴を母親代わりだなんて思ったことはない」
呆れたようなその口調こそ、昴の言葉が真実であることの証だった。何も言い返せず口を開けたままの真琴に、昴は過去から今に続く変わらぬ心情を吐き出す。
「子供のころ、初めて川原で真琴に会った時、なんて綺麗なひとなんだろうと思った。比喩じゃなくて、本当に輝いて見えた。背中に羽が生えてないのが不思議なくらいだった。真琴を見ているだけで頭がぼーっとして、周りの景色も何も目に入らない。当時の俺は恋愛なんて未経験だったけど、これが恋に落ちるってことなんだとその時はっきり分かった」
言葉のひとつひとつが異様な熱を帯びて、真琴の皮膚をじりじりと灼く。
「真琴が家に来てくれるようになって、俺の気持ちはますます募った。真琴は綺麗なだけじゃない、強くて厳しくて、でも芯には優しさがある。俺は何度も自分の想いを伝えようとしたけれど、男が男に好きって言うのは普通じゃないってことはさすがに分かっていたから、なかなか踏み出せずにいたんだ。そんな時、あの事件が起きた」
安岡のことだろう。別れ話がもつれて力づくで復縁を迫られ、昴の決死の介入により助けられた。傘を両手で握り締め、『真琴にさわるな』と震えながらも威嚇する少年、昴の姿が脳裏に蘇る。
「あの男には腹が立ったけど、お陰で真琴が同性愛者だって分かった。だからすぐに告白したんだ。他の男になんか取られたくなかった。俺だけの真琴にしたかった」
「お、お前……」
あの告白にそこまで濃厚な想いがこもっていたなんて、今の今まで想像もしていなかった。昴が真剣なのはもちろん伝わっていたが、あの小さな身体の中にそんな生々しい独占欲が渦巻いていたとは。
もし当時気づいていたなら、自分より背が高くなったら付き合ってやるなんてふざけた約束はしなかっただろう。たとえその時は傷つけることになっても、はっきり断っていたはずだ。
「そんなに……俺のことが好きだったのか」
「過去形じゃない。今も変わらず好きだ。もう一度言うけど、俺は真琴に母親を重ねて見たことはない。だいいち、」
その瞬間、昴の口許をかすめた剣呑な嗤笑に、真琴はぞくりとした。
「母親とキスしたいとか、母親を抱きたいなんて思うわけがない」
昴の口から初めて出た直截的な言葉は秘めやかな光沢を帯びて、真琴の鼓膜をざらりと撫でる。と同時に、鼓動が速まるのを感じた。しかし昴は構わず、生の情熱を叩き付けてくる。
「俺は今も昔も、一人の男として真琴が好きだ。抱き締めたいし、キスしたいし、セックスも───」
「もっ、もういい！ やめろっ、桐江。ここをどこだと思ってるんだ！」
真琴は慌てて遮って、机をバン、と叩いた。昴を名字で呼んだのは、そうすることで教師と生徒の関係を取り戻そうとしたからだ。もちろん、そんな姑息なやり方では何の解決にもならないと分かっていたのだが。
「いいか、俺は一人の男である前に教師だ。そしてお前は生徒。この前提はどうしたって崩せないし、崩す気もない」
それでも真琴は、教師の仮面にすがった。今は、それが唯一の防具だった。
「プロ選手として活躍しながら、試験では学年トップを取る。仕事と学業をきちんと両立させているお前は、本当に立派だと思う。だからこそ、道を間違えないでほしい。ひとときの気の迷いに引きずられるな。今は己の為すべきことを為せ。これが、俺の答えだ」
真琴は一方的に言い置いて、昴の顔も見ることなく部屋を後にした。
それから数日が経過したが、その間真琴は一度も昴と顔を合わせることはなかった。真琴は現代国語を教えていたが、昴のクラスの担当ではないため接点はなく、廊下ですれ違うなどの偶然がない限り出会う機会はなかったのだ。
桐江昴の名を耳にすることはよくあった。登下校時間になると、昴に会うため他校の生徒が校門周辺に群がって近隣から苦情が来たとか、体育の授業で昴がバスケをやるのを、授業を抜け出して見に行く生徒が続出しているとか。
困ったものだねえと、のんびりした口調で同僚教師たちが話すのに耳を傾けながら、真琴は一人溜め息をつく。
このまま一年が過ぎ、二年が過ぎて昴が卒業すれば、二人を繋ぐ思い出という細い糸は完全に断たれて、そしておそらく二度と逢うことはないだろう。そう思うと、まだ同じ学校の同じ校舎にいるというのに、急に昴の存在が遠くなったような気がする。
真琴は無意味な感傷と分かっていながら、それを頭から払うことができなかった。
そうして、昴が真琴の視界から消えて一週間が過ぎた。朝の職員室はいつも慌ただしいが、その日は数人の教師が固まって額を突き合わせ、困惑した顔つきで何か話し合っていた。つまりは、いつもと若干異なる様相を呈していたのだ。
真琴は自分の机に鞄を置いてから、隣の仮屋みはるにそっと耳打ちした。
「仮屋先生、何かあったんですか？」
するとみはるは、ちょんと首をすくめ、
「なんかね、桐江君のことらしいの。最近、チームの練習に顔出してないんだって」
「チームって、東京スカイファイターズの……」
「そうそう。もう一週間も無断で休んでるって。それで、学校に連絡が来たみたいよ」
真琴は自然と顔が強張るのを感じた。一週間前からということはつまり、真琴が昴に“答え”を突き付けてからということだ。
「でも、練習に参加するよう学校が指導するわけにもいかないでしょう。クラブ活動ならともかく、学外でのことなのだから」
真琴は騒ぐ内心を抑え込み、冷静な言葉を返した。みはるは頷いたものの、「でもね」と続け、
「チームの人が言うには、これまで一度も無断で休むようなことはなかったって。だから、学校で何かあったんじゃないかって」
「何かって、いじめとか？」
「そこまで具体的には言ってないと思うけど、まあその疑いは持ってるかもしれないわね」
「それで、学校に連絡が来たのか……」
真琴は誰にともなく呟いて黙り込む。すると、固まって話し合っていた集団の中から臣川が真琴を見つけ、呼びかけてきた。
「そうだ。確か桜庭先生は、桐江とは個人的な知り合いなんですよね」
途端に、周囲の教師たちから驚きの声が上がる。みはるも「えっ」と言って、真琴を恨めしげに見上げた。どうして教えてくれなかったの、ということだろう。真琴は内心舌打ちしつつ、よそゆきの柔和な笑みを顔に張り付けて、
「いえ、学生の頃に彼の家庭教師をしていたことがあるというだけです。プロ選手になったことも知りませんでした」
「おお、そうでしたか。では長崎へ行く前の彼を知っているということですな。それでは桜庭先生、お手数ですが桐江君にそれとなく訊いてみてくれませんかね。最近彼は、チームの練習に出ていないそうで。何かその、理由があるのかと」
揉み手しながら真琴に頼み込むのは、学年主任のベテラン教師五十嵐だった。厄介事を押し付けるためなら、若造相手に頭を下げるのも厭わないということだろう。もちろん、新米教師の真琴が断ることなどできない。学校内でも年功序列は健在なのだ。
いや、もし頼まれなくても、真琴は昴を捕まえて質しただろう。自分には関係ないと突き放せるほど、冷淡にはなれなかった。
「分かりました。訊いてみましょう」
真琴は答えながら、別にバスケは好きじゃない、続ければ背が伸びると思ったから、という昴の言葉を思い出していた。
その日のうちに、真琴は行動を起こした。と言っても、下校する昴を昇降口で待ち伏せしただけだが。
───あ、来た……って、なんだよ、あれ
下駄箱に上履きを放り込み、靴に履き替えている昴に、どこからか女子生徒が駆け寄ってきた。そして甘えた仕草で腕にじゃれつく。
ほとんど栗色に近い茶髪が目立つ彼女は確か三年生で、校内で男子の人気が高い生徒だった。昔風に言えばマドンナ、ということだろうが、その派手に作り込まれた容貌は清楚なマドンナには程遠い。
真琴が眉をひそめて眺めている間に、二人は昇降口を出て連れ立って校門へ向かった。真琴はすぐさま追いかけ、声を掛けた。
「桐江、ちょっといいか」
しかし昴は肩越しにちらと一瞥しただけで、立ち止まる気配もない。真琴はもう一度同じ言葉を掛けたが、今度はこちらを見もしない。真琴はふっと息を吐いてから、教師の声ではなく素の声で命じた。
「止まれ、昴」
すると昴の足は即座に止まった。意志以外の何か、本能とか脊髄反射による反応を想わせる静止だった。真琴はゆっくり近づき、二人の前へ回った。そして昴を真っ直ぐ見上げ、
「練習はどうした。最近ずっと無断で休んでるそうじゃないか。まだシーズン中だろ」
「今のチームの成績じゃ、今シーズンのプレーオフ進出はどうせ無理だ」
「だから練習サボってチームに迷惑かけても構わないって？ お前、それでもプロ選手か」
「あんたには関係ない」
初めて昴に“あんた”呼ばわりされた真琴が感じたのは、怒りより淋しさだった。だがもちろんそんな感情は面てに出さず、冷ややかに尖った声で、
「ああ、確かに。お前が練習サボろうが女としけ込もうが、俺には何の関係もない。だったら、無関係の俺に口出しさせるような真似するんじゃねえ。甘ったれんな、昴」
厳しい叱責に、昴はかすかに身じろいだ。そして額に掛かる前髪の隙間から、真琴を一心に見つめる。その訴えかけるような眼差しが何を言わんとしているか、真琴はすぐに分かった。
別にバスケが好きなわけじゃない、プロになりたかったわけでもない。ただ俺は、真琴の恋人になりたかった。そのためだけに今まで頑張ってきたんだ───
「……今度、お前の出る試合見に行くから。ちゃんと頑張れ、昴。分かったな？」
一見励ますような台詞が、昴にとってはむしろ残酷なものであることを分かっていながら、真琴はそう言わずにはいられなかった。そして、そんな自分の中途半端な優しさを呪った。
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