第15話
深く暗い水底で、真琴は必死にもがいていた。早くここから浮き上がって逃げ出さないと大変なことになる。周りは真っ暗で何も分からないけれど、凶暴な気が発散場所を求めて渦巻いているのが肌に感じられた。
ちょっとしたきっかけでそれは顕在化し、標的への暴力となって襲いかかるに違いない。
けれど気ばかりが焦り、鉛のように重い四肢を動かすこともままならない。なんだよこれ、俺の身体はどうなってしまったんだ。早く動け、動け、そしてここから逃げるんだ───
「ううっ……」
やっと浮上したと思ったら、そこもまた闇の中だった。真琴は夢とうつつの境界上を彷徨いながらも、何とか意識を鮮明にして周囲の状況を把握しようと努めた。
まず感じるのは鼻と喉の痛み。気を失う寸前に強い刺激臭を感じたから、おそらくそのせいだろう。さらに手足が縛られていることも分かった。
逃げるにはなかなか困難な状況ではあったが、真琴は目を凝らして暗闇の中に道を探した。いや、道じゃなくてもいい。起こすべき行動の糸口でも掴めれば……
「目が覚めたみたいですね、先生」
暗闇の中から唐突に呼びかけられ、真琴はびくりと身じろいだ。すると声の主は、自分の優位を知らしめるようにくくっと笑い、
「大丈夫ですよ、そんな怯えなくても。何もしませんから、先生には」
「大人をなめんなよ。お友だちとつるまないと何にもできないガキ相手に、誰が怯えるかよ」
暗がりに慣れ始めた目は、周囲に複数の人影を捉えていた。堂々たる真琴の返答に面食らったようで、困惑気味の沈黙が辺りを支配した。ややあって、
「さ、さすがですね。でも別に先生を怖がらせるのが目的じゃありませんから」
「……お前、さっき電話してきた奴だな。そうか、ここは駐車場の脇にある倉庫か」
聞き覚えのある声は、駐車場で騒いでいる生徒がいると電話してきた声とよく似ていた。つまりあの苦情は、真琴をおびき寄せるためだったのだろう。みはるが帰ってから電話が来たことからも、真琴を狙っていたことが分かる。
問題は、どうして今日真琴が遅くまで学校に残っていることを知っていたのかだが……。
「お前……河島じゃないか」
彼らの持ち込んだランタンがもたらす儚い明度にようやく目が慣れ、その人相まで見分けることができた。
現れたのは、河島とその仲間。恋人を取られた恨みから昴に喧嘩を仕掛け、一緒に仲良く停学になった連中だ。その瞬間、真琴の頭の中でばらばらに点在していた断片が繋がった。
学習指導の経過をまとめた資料を至急明日まで作成してほしいと頼んできたのは、臣川だった。つまり、真琴が今日、学校に残って作業していることを臣川は知っている。いや、臣川しか知らない。昴と真琴の関係についても。そして、昴に恨みを持っている河島たちが真琴を拉致した。ということは……
「まさか……昴を……」
真琴の呟きに、河島たちは一斉に反応した。
「あ、バレちゃった」
「まあ、いいんじゃね？ どうせすぐバレることだし」
「だよな。もうすぐ来るはず───」
その言葉を証明するかのように、コツンと足音が聞こえた。真琴は息を呑み、倉庫の入り口に目を凝らす。馬鹿、来るんじゃない、頼むから来ないでくれと祈りながら。しかし、
「来たぞ！ 明かりをつけろ」
号令とともに、複数の照明がともされた。薄闇に慣れた目に鈍痛が生じ、視界がハレーションを起こす。しかし、入り口に立つ昴の姿はなぜかはっきり見えた。
真琴は昴の名を叫ぼうとしたが、寸前で口を閉ざした。この手足を縛られた状態で叫んだら、どうしたって助けを求めているようにしか聞こえないだろう。
それよりも、自分は何も危害を加えられていないし恐怖を感じてもいないということを昴に分からせて、無意味な喧嘩はやめるよう諭さねばならないのだ。しかし、
「真琴！！」
縄で拘束された真琴の姿を見た昴は、驚愕に目を見開き悲壮な声で叫んだ。表情の変化に乏しく、他人から賞賛されても悪意を向けられても飄々とやり過ごしてきた昴が見せる哀しみと怒りが混在した形相に、真琴は胸が締め付けられ掛ける言葉を失った。
「ずいぶん早いな。そんなに桜庭先生が大事なのか」
「弱点ていうのはほんとだったんだな」
今の会話で推測が確信に変わった。やはり、臣川が入れ知恵したのだ。昴への恨みを抱え込んだ彼らを暴走させるには、ちょっと唆すだけでいい。そうすれば後先考えず突っ走るだろう。キレやすい“子供”の動かし方を、臣川は知悉していた。
「真琴を傷つけたら許さない」
昴の宣告には、ある種崇高な意志が宿っていた。そう、真琴を救い、真琴を守るためだけに彼は来たのだ。しかしその一途さは、河島たちを有利にするものでしかなかった。
「心配するな。俺たちは桜庭先生に恨みがあるわけじゃないし。ただ、お前の態度次第ではどうなるか分からないけどな」
河島は分かりやすい脅迫の言葉を投げつけると、大仰な音をたてて折り畳みナイフの刃を出し、切っ先を真琴の顔に向けた。
それを見た昴の顔からさっと血の気が引き、唇が震え出す。それだけで、脅迫の効き目を知るには十分だった。
「どう……したらいいんだ。言ってくれ」
青ざめた顔に相応しい声で懇願する昴に、河島は毒々しい陽気さを装った声で、
「別に何もしなくていいさ。俺らの鬱憤晴らしに黙って付き合ってくれれば。な？」
他の三人に同意を求めると、手にしていたナイフをそのうちの一人に渡した。彼が真琴の監視役ということだろう。そして昴に近づき、その頬に一発入れた。
昴はよけることなく正面から受け止めたが、影響を受けたのは上半身だけで腰から下は微動だにしなかった。
河島は舌打ちして、仲間に目配せする。それを合図に、一方的な制裁が始まった。真琴の監視役も早々にナイフを放り投げ、嬉々として加わる。
「昴っ、やり返せ！」
真琴は声を嗄らして叫んだが、彼らの周囲を取り巻く殴打音や荒々しい呼吸、くぐもった罵声に弾き飛ばされてしまう。
それに、必死に叫びながらも、自分がこうして縛られている以上、昴は決して抵抗しない、できないだろうと分かっていた。昴を助けるにはまず、自分の拘束を解かねばならないのだ。
昴は防御のため頭を抱えてはいるが、いっさい抵抗せず殴られている。辛うじて立ってはいるが、このままでは昏倒するのは時間の問題だろう。真琴は何とか縄をほどこうとしたが、緩む気配もない。
その時、嗅覚がこの場には不釣合いな匂いを捉えた。その外国の整髪料のような独特の匂いには、覚えがあった。真琴ははっと息を呑み、次の瞬間怒鳴った。
「おい、臣川ッ、てめえ、ここにいるんだろ！」
もちろん返答はない。しかし、真琴には確信があった。臣川の性格ならきっと、昴がボコボコにやられて地べたを這いずり回るところを物陰から観賞して、溜飲を下げようとするはずだ。真琴は脅迫に相応しい低音で、
「出てきてこの縄をほどけ！ でないとお前の結婚相手に、俺とお前の関係を全部ぶちまけるぞ。婚約が決まった後も俺との関係を続けたいって懇願してきたメール、全部保存してあるからな」
背後の物陰で、何かがかすかに動く音がした。真琴はさらに声を低めて続ける。
「お前、創立者の遠戚の娘をもらって、あわよくばいずれ自分が理事長に、なんて思ってんだろ。その輝かしい未来予想図、俺にぶち壊されたくなかったらさっさと出てきて解放しろ！」
言い終わるとほぼ同時に、臣川がのっそりと姿を現した。暗がりでも、その顔が青ざめているのが分かる。この期に及んで優位を保とうとしているのか、頬を引きつらせ笑みらしきものを浮かべているのが滑稽だった。
「俺との関係をぶちまけるって、そ、そんなことしたら真琴だって学校にいられなくなるぞ」
「別に構わねえよ。ここじゃなくたって教師はできる。いいからさっさとこれをほどけ！」
真琴の迫力に圧され、臣川は慌てて命令に従った。ようやく四肢が自由になった真琴は昴の元に駆け寄ろうとしたが、臣川に止められた。
「危ないぞ！ 間違いなく巻き添えを食らうことになる」
確かに臣川の言う通り、暴力の快楽に麻痺した彼らは歯止めのきかない危険物と化していた。しかし、だからこそ早く昴を助けねばならないのだ。
「離せっ、くそ、昴、昴っ！ 俺はもう大丈夫だ、やり返せ！！」
真琴の叫びに、昴は反応を示した。そっと顔を上げ、自由になった真琴の姿を確認すると、安心したのかうっすら目を細めて微笑んだ。そして真琴に向かって唇を動かす。
『まこと、にげろ』
しかし真琴が解放されたというのに、昴本人に殴り返す気配は全くない。まるでサンドバッグのようにひたすら殴打を浴びている。
「すば…る……まさか……」
真琴は思い出した。停学の原因となった河島らとの喧嘩で怪我を負った昴に、自分は確かこう言った。
───今後は一切、暴力を振るうな
そして、それは命令かと訊ねる昴に対し、真琴はためらいつつも命令だと答えたのだ。
「お前っ……」
真琴の言い付けは全部守ってきたよという誇らしげな昴の言葉が脳裡をかすめると同時に、背中を戦慄が駆け抜けた。
そうだ、昴は真琴の言い付けを絶対に破らない。だからリンチに近い暴力を受けても、絶対にやり返さない。
「昴っ……もういい、もういいから……だって俺はっ───」
俺はそこまで一途な愛慕を受ける価値のある人間じゃない。お前に対してえらそうに説教垂れたり時には命令もしたけれど、本当は弱くて愚かで迷ってばかりの人間なんだ。だからそんな俺の言うことに、馬鹿正直に忠実であろうとする必要はないんだよ───
真琴は胸の奥で剥き出しの本音を叫んだ。昴の中にある美しい『真琴像』と実像とのギャップ、それも真琴が昴を遠ざけようとした原因のひとつだったのかもしれない。
自分は綺麗でもないし強くもない。快楽優先でゆきずりの男と寝たこともあるし、余計に昴を苦しめるだけと分かっていながら、中途半端な優しさを捨てきれないでいる。そんなさまざまな矛盾を抱えた、どこにでもいる普通の人間だ。なのに、
「……馬鹿やろっ、なんでだよお前はっ！」
真琴は自分を行かせまいと掴まえている臣川を突き放し、床に落ちている木材を拾った。そして、ついに昏倒した昴の背中を蹴り上げている河島の足を力任せになぎ払った。
「うわッ」
河島はその場に勢いよく倒れ込み、木材に打たれた脛を押さえて痛みに呻いた。残る三人はぎょっとして振り向いたが、すぐに顔を怒りに歪め噛み付いた。
「ふざけんな、てめえッ」
「ふざけんなはこっちの台詞だ。無抵抗の人間を四人で蹴り回して喜んでるようなガキだから、女が寄ってこねえんだよ」
「な…んだとっ」
暴力の快楽に理性が麻痺していた上、真琴の揶揄で一気に頭に血がのぼったようだ。彼らは罵声を口にしながら真琴に飛びかかってきた。
対して真琴は、冷静に相手の動きを読んで攻撃をかわし、手にした木材で反撃した。体格や人数的には不利だが、彼らより豊富な喧嘩の経験が、確実に急所を突くことで勝てると教えてくれたのだ。まず一人、二人、そして───
「あっ」
あと一人というところで、倒れていた河島に足首を掴まれた。真琴はその場に倒され、武器も奪われた。
「くっそ……」
悔しさをぎりぎり噛み締めていると、上から男たちに押さえつけられた。彼らはニタニタ笑いながら、
「先生、見かけによらずやるね。でも残念」
「さあて、どうしようかなあ。少し怖がってもらおうかな」
真琴は鼻先で嗤って睨み返し、
「喧嘩をママに言い付けるようなケツの青いガキを、誰が怖がるかよ」
言い終わると同時に、真琴はぐっと歯を食いしばった。河島の右手が大きく振り上がるのを見たからだ。
次の瞬間、左の頬と耳が熱く重い衝撃を食らった。拳ではなく平手だったが、怒りに任せた張り手はかなりの威力で、真琴の口端からは赤い鮮血が滴った。
それはとろりとろりと肌を伝い、首筋を舐める。すると、それを見た河島たちの目が、これまでにない異様な輝きを帯び始めた。
「なあ、おい。こいつ、脱がせてみようか」
言葉にしたのは河島だったが、それは全員の総意だった。血というのは、人間のさまざまな欲望を刺激するのかもしれない。嗜虐欲、食欲、性欲。特に、真琴の白い肌を伝う血は赤い触手めいて、淫らな妄想を掻き立てた。
「お、おい、やめろ、お前たちっ」
臣川が慌てて止めに入るが、「うるせえよ」と一蹴された。暴走させるのは容易いが、あっという間にコントロールが効かなくなるのがこの年代の特徴だ。お前の統率力なんざその程度のものなんだよと、真琴は腹の底で悪態をついた。
「真琴先生ってさ、男にも人気あるんだぜ。裸にしてヒワイな写真とか撮ったら、欲しがるやついるんじゃねえの？」
河島の提案に、残る三人は喜び勇んで飛び付いた。二人は真琴の身体を押さえ、一人は携帯を開き、一人は手を伸ばしてシャツのボタンを外そうとする。真琴は静かに深呼吸をし、反撃の隙を窺った。その時、
「えっ…？」
携帯を構えていた河島の身体が宙に浮いた。昴が襟首を掴んで持ち上げているのだと気づくと同時に、壁に向かって投げ飛ばされた。
「てっ、てめえ！」
三人は慌てて立ち上がったが、昴の拳の方が早かった。怒りで攻撃力の増した一発が、各々の急所に確実に打ち込まれてゆく。あっという間に床にうずくまり戦闘不能になった三人を悠々とまたぎ、昴は再び河島の襟元を掴み上げた。
ついさっきまでリンチに近い暴力を受けていたとは思えぬほどの戦いぶりに、河島は目を見開いて驚きを露わにする。対して昴は、全身から獰猛な気を発し、抑揚に乏しい低音で冷ややかに宣告した。
「真琴を傷つけたら許さないと言ったはずだ」
何の酌量も受け付けないと言わんばかりの通告に、河島の顔からさあっと血の気が引いてゆく。
おそらく彼は、人生で初めて本物の怒りというものを目の当たりにしたのだろう。唇をぱくぱくと動かして何か言おうとしたが、喉元を絞められているせいで声も出せないようだった。
「昴、もういいよ。そいつを離してやれ」
真琴の穏やかな呼びかけに、昴は小さく身じろいだ。しかしまだ河島を解放しようとはしない。
「俺は大丈夫だから。それより、これ以上お前が暴力振るうところを見たくない」
その言葉は決定的だった。昴は河島から手を離し、まるで叱責を待つ子供のように項垂れる。真琴はほっと安堵の息をつき、傍でおろおろするだけだった臣川を睨んだ。
「おい、どうせお前が唆したんだろ？ 何もなかったことにしてやるから、さっさとこいつら連れて帰ってうまく収拾つけろ。いいな？」
「わ、わかった」
臣川はせかせかと頷いて四人を促し、倉庫から逃げるように出ていった。
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