第13話
「嫉妬……」
不人によって投げ込まれた言葉は、真琴の中で奇怪な不協和音を響かせた。しかし不人は構わず続ける。
「そ。小さい時からマコトちゃんのことだけを一途に想い続けてきた……と思ってたのに、実は大人の女性と経験済みだった。母親といったって義理なんだから、他人よね。結局は、男と女の関係だわ。そうでしょ？」
「…………」
「だから、マコトちゃんは腹が立ったのよ、ムカついたのよ。自分とだってまだ一度もしてないのに、って。それを嫉妬っていうんじゃないの？」
真琴は口を開けたが、そこから反論が出てくることはなかった。だからといって、不人の指摘を肯定したわけではない。断じてない。けれど、でも───
「正直分かんね……だって俺、嫉妬とかしたことねーし。ていうかそもそも……」
真琴はカウンターの上に突っ伏して、弱々しく本音を吐き出した。まるで世の中に疲れた酔っ払いオヤジみたいだと自虐に耽りつつ、さらに深い本音を呟く。
「そもそも俺は、人を本気で好きになったことがないんだ」
「あらま。それじゃこれが初恋ってわけね」
「だから違うって。俺は別にあいつのことなんか……」
もごもごと反論しようとすると、不人は「はいはい」と軽くいなし、
「だいぶアルコールが回ってきたみたいね。そんな強くないくせにがばがば飲むからよ。ほら、あの隅のソファ席で休んでなさい。あたしだって、マコトちゃんの相手ばかりしてるわけにはいかないのよ」
「……すいません」
ちゃんと謝ったはずなのに、不貞腐れた声になってしまった。「ガキはどっちだか」という不人の揶揄を背中で聞きながら、真琴はゆったりとした一人掛けのソファに身を沈めた。
───俺が昴を好き？ 昴の義母に嫉妬？ そんなことあるわけが……
ひたすらアルコールを注入しつつ、不人の指摘を否定する根拠を探したのだが、酔いのせいで思考力が半減しているのと、次から次へと声を掛けてくる男に対応せざるを得ないため、なかなか結論に到達しない。
挙げ句、真琴は考えるのを放棄して身も心も酔いに委ねた。すると、
「あの……マコトさん、ですよね？」
遠慮ぽく声を掛けてきたその男はまだ若く、学生のようにも見えた。店の顧客には数こそ少ないが学生もいる。いずれも、政治家や企業トップの子息だった。
まだこういった社交場に慣れていないのか、堂々とした大人の振る舞いを見せる他の客からは明らかに浮いていた。しかしそのいかにも場慣れしていない感じが、真琴の目に好ましく映った。だから、これまでのように素っ気なく追い払うことはしなかったのだ。
「ああ。マコトだけど」
すると男は瞳をぱっと輝かせ、
「やった！ 俺、ユウキっていいます。ずっとマコトさんに会いたいなあって思ってました。噂はよく耳にするけど、本物を見かける機会になかなか恵まれなくて」
衒いない口調でそう言って、真琴が座っているソファの傍らに跪いた。そしてじっと見上げてくる。正面から視線を合わせた真琴は、自分がなぜユウキを好ましく思ったのか気づいた。どことなく昴に似ているからだ。
しかし、すぐに酔った頭で否定する。いや、大して似てねえよ。昴の方がずっと精悍で、美しく整った顔立ちをしてるだろ、と。
確かにその通りだったが、喜びにきらきら輝く目とか率直な物言いが、真琴の心に昴の面影を宿したのだ。
「ユウキ、か。年はいくつだ？」
「あ、二十一です」
「ふぅん、そっか……」
真琴は手を伸ばし、ユウキの頭をふわふわと撫でた。そういや昔、よく昴の頭を撫でてやったなあ。あいつの髪、さらさらで気持ちよかった。
「マコトさん、あの……」
嬉しそうにもじもじしてさ、真琴に撫でられるの気持ちいいとか言って。ほんと、可愛かったなあ。
「ここじゃなんだから……」
なのに、いつの間にかあんなにデカくなりやがって。あれじゃ頭も撫でられないじゃねえか。
「上の部屋に行きませんか？」
ちっこくて淋しがりやで、俺の言うことを何でも聞く可愛い昴じゃなかったのかよ。勝手に男になっちまって。
「二人きりで、ね……？」
俺……もう分かんねえよ。どうしたらいいのか、俺…………
ユウキは立ち上がって真琴の腰に腕を回し、そっと抱えて店を出た。
「んっ……」
シーツのひんやりとした感触が心地よい。肌の火照りがするすると吸い取られてゆく。それとは対照的に、胸をまさぐる手のひらは熱く湿って、素肌のなめらかさに狂喜するように、胸から腹までを激しく行きつ戻りつしていた。
「マコトさん、マコトさんっ……」
熱っぽくざらついた声で囁きつつ、唇や首筋、胸の突起に繰り返し吸い付いてくる男を、真琴はぼんやり見つめていた。
全身に行き渡る倦怠感のせいか単に酔っているからなのか、四肢が思うように動かせない。そのため、身体が自分のものでないような奇妙な非現実感があった。
「あ、ん……んっ、ぅん……」
喉の奥まで犯すような深い口づけを受けながら、今まさに自分を抱こうとしているこの男は誰だっけ、と暢気な自問が浮かぶ。
そうだ、確か下の店で声を掛けられて、それで……
「ユウ…キ……」
ようやく思い出した名前を呟いてみると、真琴の乳首に歯を立てていた男は顔を上げて嬉しそうに笑った。もちろん、昴とは全く似ていない。
ただ、石けんと汗の混じり合った若い男の匂いが鼻孔をかすめ、昴もこんな匂いがするのかなとふと思った。そして、そんな自分に哀しくなった。
───俺、何やってんだろ……
本名すら知らない男と一夜限りの戯れに興じるのは、もちろん初めてではない。でもこんな、感覚すら冷たく麻痺しそうなほどの虚しさに囚われるのは初めてだった。
それは感傷が生んだ比喩ではなく、実際に真琴の身体は何も感じなくなっていた。時折、ちりっとした刺激が火花のように弾けるだけで、快感も疼きも震えも何も生じない。
恐るべき無感覚の中で真琴は、今まさに犯されんとしている自分の身体をまるで他人のもののように眺めていた。その時、
『どうして真琴はもっと自分を大事にしないんだ』
脳裡をよぎる昴の声は、ひどく哀しげだった。真琴の胸が、しくりと痛む。
『俺だって、本当に好きな人としたかった。幸せな気持ちでひとつになりたかった』
そうだ。自分が今しているのは、そんな昴の叶えられなかった想いを踏みにじるような行為ではないのか。
「すば…る……っ……」
真琴は緩慢ながらも四肢を動かして、拒絶の意思表示をした。しかし、ここまで来てちょっと抵抗されたぐらいで、大人しく引き下がる男がいるはずもない。ユウキは構わず真琴の下穿きに手を掛け、脱がそうとする。
「やめっ…ろ……」
真琴は起き上がってベッドから下りようとしたが、素早く押さえ付けられ身体の自由を奪われた。
「どうしたんですか？ いきなり羞恥プレイ？」
ユウキは無邪気に笑っていたが、目だけは笑みをはね付けて、眼球全体が煮え立つようにぬらぬら輝いていた。真琴はそれを真っ直ぐ見返し、
「今夜はしたくない。ここまでにしてくれ」
「はあ？ なに言ってんすか。誘いに乗ったのはあなたでしょ」
「ああ、確かにそうだ。けどやっぱりこんなのは嫌だ。お前がどうこうっていうんじゃない。今日会ったばかりの人間とセックスするなんて……哀しすぎる」
真琴の訴えを、ユウキは鼻先で笑った。今さらお高くとまりやがって、と言わんばかりに。しかし怒りは湧かなかった。ユウキがそう思うのも尤もだからだ。
これまで散々遊んでおいて、行為のために設えられた個室にまで来ておいて、今さら綺麗ごとに逃げるのかと自分でも思う。けれど、
「こういうことは、本当に好きな人とするべきなんだ」
そうだよな？ 昴───真琴は脳裡の昴に呼びかけて、渾身の力でユウキを突き飛ばした。そして四肢を翻しベッドから飛び下りる。しかしすぐに再び押し倒され、シャツで両手を縛られた。
「ユウキ、やめろ！」
真琴が大声で制止するのと、部屋の扉が凄い勢いで弾け飛ぶのが同時に起きた。ビリビリと振動する空気の中から憤然と現れたのは、美しきオーナー。
「おふざけもその辺にしとけよ、ガキ。調子ん乗ってると、タマ引っこ抜いて一生奴隷働きさせるぞ」
柘榴色のドレスが、まるで地獄の業火に見える。閻魔大王も怯えるのではと思うほどの迫力に、ユウキは「ひっ」と悲鳴を上げて青ざめた。
酒を提供する店の宿命として客同士の諍いもたまに起きたが、たいていは不人の一喝で収まってしまう。それを店名のセラフィタ＝熾天使に引っ掛けて天使の審判と呼ぶ者もいたが、ともかくその迫力に抗える者はいなかった。
「不人さん、待ってください。彼だけに非があるわけじゃない」
真琴は慌ててユウキを庇った。ここまでのこのこと付いてきた自分にも非があるのは明白だ。
不人は真琴とユウキを交互に見つめてからすとんと肩を落とし、ユウキに向かって顎をしゃくった。ユウキは飛び上がって「すみませんでしたっ」と謝り、部屋から飛び出していった。それを見送った不人は溜め息をつき、
「ほんとにもう。ちょっと接客してたらいつの間にかいなくなってるから、心配したわ。客に聞いたら、足元が覚束ないマコトちゃんを若い男が連れ出したって言うじゃない」
いつもの女バージョンに戻った不人は咎めるようにそう言って、最後に「めっ」と叱った。さらに、
「今の精神状態で他の男とできるわけないでしょ。心を殺して無理やりやったとしても、自分が傷つくだけよ」
何もかも不人の言う通りで、真琴は悄然と項垂れて謝るしかできなかった。
「すみません……」
不人は口調を和らげ、
「しょうがないわね。取り敢えず今夜はここに泊まって、ゆっくり頭を冷やしなさい。部屋の鍵は、中からしっかり掛けておくこと。いいわね？」
真琴はこくんと頷いて、柘榴色のドレスを颯爽と翻す不人に「ありがとうございます」とお礼を言った。不人は背中を向けたまま軽く片手を上げると、地下の世界へ戻っていった。
浅い眠りの狭間で、真琴は夢を見る。遠い昔の懐かしい光景。光の射し込むダイニングで、小さい昴が必死に牛乳を飲んでいる。
あーあ、牛乳苦手なくせに無理しやがって。こら、昴。いくら背が高くなりたいからって、そんな一気に飲んだら腹壊すぞ。
すると昴は口の周りに白いひげを作ってこちらを見つめ、『真琴より大きくなるためがんばるんだ』と真剣な顔つきで言う。その眼はさらに雄弁だった。早く大きくなって真琴の恋人になる、他の男になんか渡さない、と。
そうだ、昴は本気だった。俺がこれまで付き合った男の誰よりも強い想いを抱いていた。だからこそ俺は昴の長崎行きが決まった時、心のどこかで……ほっとしていたのだ。
可愛い弟のように思っていたから、離れ離れになるのは淋しかったし、長崎になんか行きたくないと泣く姿を見て心が痛んだ。それは事実だ。でも心の奥深くでは、これで昴も諦めるだろうと安堵していたんだ。なのに、
『真琴、逢いたかった。これでやっと恋人になれる』
『好きだ、真琴の全部が好きなんだ』
ああ、俺が教師じゃなかったら。お前が将来有望なプロ選手じゃなかったら……いや、そんな仮定は無意味だ。どうしたって現実は曲げられない。だから俺ははっきり答える。昴、お前の想いは受け入れられない。
『さようなら、桜庭先生』
さよなら、昴。さよなら─────
「……すばるっ」
夢の中ではちゃんとさよならを言えたのに、目を覚ますと同時に真琴は昴の名を呼んだ。まるで、去りゆく愛しい者に追いすがるように。そして濡れた目尻を拭い、
「男なら泣くな、か……ははっ」
有言実行の難しさを思った。
BACK TOP 可愛い犬INDEX NEXT