第12話
『前にも言ったけど、夏休みには帰ってくるんでしょ？ ママ楽しみに待ってるからねぇ。昴ちゃんはまた大きくなったかな？ どれだけ大きくなっても、昴ちゃんはママの言うことを聞いてくれるいい子だもんね。また二人で楽しいこといっぱいし───』
メッセージは突然ブツッと切れた。真琴ははっと我に返り、自分の手が電話を切ったことにようやく気づいた。
「真琴……」
昴は驚きを隠さず、かかってきた電話を勝手に切るという暴挙に出た真琴を見つめた。真琴はキッと視線を尖らせて昴を見返し、
「こんなメッセージ、馬鹿正直に最後まで聞かなくていい」
すると昴は切れ長の目を大きく見開いてから、唇を歪めてくくっと笑った。見る者の胸を抉る、痛いほどの自嘲。
「そうか、真琴。あの話を聞いたんだな」
「……ああ、聞いた」
「やっぱり。だからこんな急に優しくなったんだ。おかしいと思った」
昴はそう言って肩をすくめ、くるりと背中を向けた。この態度が精いっぱいの虚勢であることは、背中の震えを見なくても分かる。
「違う。ここに来たのは忠告をするためだとさっき言っただろう」
「どうかな。真琴は厳しいようで案外甘いところがあるから、俺の“可哀想な”話を聞いてたまらず駆け付けたんじゃないか？
でも俺は別に何とも思ってない。ああいう行為に対する子供っぽい憧れとか理想はまあ見事に打ち砕かれたけど、現実なんてそんなものだと今では割り切っている」
「……だったら昴、こっちを向け」
「嫌だ」
真琴の命令を、昴がここまではっきり拒否したのは初めてかもしれない。見上げるほど大きな背中が、ひどく心細げに見える。真琴はそれを凝視しながら、自問を繰り返していた。
自分は間違っていないだろうか。昴は今、弱いところを見せまいと必死に自分を律しているのだ。ならばこれ以上傷を抉るようなことはせず、黙って立ち去るべきではなかろうか。しかし……
「昴、こっちを向いてくれ。このままじゃ帰れない」
真琴の心からの呼びかけを、さすがに無視することはできなかったようだ。昴はゆっくり身体を反転させた。泣いてはいなかったが、消耗しきった顔つきをしていた。
「茜さんに……聞いたんだね？」
真琴が頷くと、昴は「そっか…」と呟いて薄く笑った。そして、
「さっきのは……嘘だ。別に何とも思ってないっていうのは」
「ああ」
「悔しくて哀しくて、でもどうしようもなかった」
「ああ」
「セックスは本当に惚れた相手とするものだって真琴は言ったよな。俺だって、そうしたかった。本当に好きな相手を大事に大事に慈しみながら、幸せな気持ちでひとつになりたかった」
「……ああ」
真琴の相槌は、次第に重くなってゆく。昴の語り口は淡々としていたが、いやだからこそ、ひとつひとつの言葉が真琴の心に哀切な響きをもたらした。
真琴には分かっていた。昴は今、泣いているのだと。すると昴は、そんな真琴の想いを見透かしたかのように、
「男なら泣くなっていう真琴の言い付けは守ってきたけど、でもたぶん俺は……ずっと泣いてた。涙こそ流さなかったけど泣いてたんだと思う。これって、真琴に背いたことになるのかな」
「ばか……やろっ……」
昴がどんな状況でも真琴の言い付けを忘れなかったのは、それが真琴との唯一の繋がりだったからだろう。必死に守ることで、自分はまだ真琴と繋がっているんだと思うことができたのだ。その一途さが、甘い毒のように真琴の心を灼いた。
「なんでお前は……そんなに……」
気が付けば、真琴は柔らかい拳で昴の胸をぼかぼか叩いていた。やり切れない想いが胸の奥から染み出して、それが手を動かしていたのだ。
でも、本当に殴りたいのは自分自身だった。昴の想いに応えてやれない自分自身だった。
昴の硬い胸はいくら叩いてもびくともしない。昴はただ、困ったように眉をひそめ、
「なんでって、真琴のことが好きだからだ。好きで、好きで、大好きで、真琴も俺のことを好きになってくれるためなら何だってするって思ってた。真琴より背が高くなって、真琴の言い付けをちゃんと守ってれば好きになってくれるのかなって。というか、それ以外にどうしていいか分からなかった」
真琴は拳を解いて、手のひらを昴の胸に置いた。そこから伝わる鼓動は、速い律動を刻んでいた。
昔、昴がまだ小さかった頃、真琴と一緒にいると心臓がどきどきするんだと言って照れ臭そうに笑ったことがあった。その時は可愛いヤツだと思っただけだったが、今は───
「そんなに……俺のことが好きなのか」
「うん。好きだ」
「俺、男だぞ。おまけにうんと年上だし。可愛げもねえし」
「でも、好きなんだ。全部好きなんだ」
一切の迷いも揺らぎもない肯定の言葉は、磁石のように真琴の心を惹き付けた。胸に手を置いたままのろのろと顔を上げると、端整な顔に穿たれた双つの黒い宝石は熱情に沸いて、妖しく輝いていた。
かすかに揺らめく欲情の翳すら美しく魅力的で、真琴は自分が自ら危険な檻の中に飛び込んでしまったことを痛感せざるを得なかった。
「全部、好きなんだ」
衒いも装飾もない愛の言葉をもう一度捧げた昴が、ゆっくり顔を近づけてきた。真琴は意識の彼方で警報がかすかに鳴るのを感じながら、甘美な諦念に沈み込もうとしていた。
ああ、だめだもう。自分はきっとこのままずるずると───
『十七歳の新星、桐江昴がまた決めました！』
『JBリーグ東京スカイファイターズの超人気プレーヤー、桐江昴よ』
『やっぱりお前たちはそういう関係だったのか。教師と生徒、しかも男同士。大問題だな』
『チームの利益が損なわれることより、桐江昴という選手があんなことで潰れてしまうことの方が私には耐え難かった』
「や、やめろ昴っ！」
真琴は両手で昴の胸を突き飛ばし、息を荒げて一歩、二歩と後退した。頭の中でさまざまな『声』が渦巻いてくらくらするが、その『声』たちのお陰で踏みとどまることができたのだ。しかし、
「分かってるよな？ 真琴。自分が今どんな残酷なことしてるか」
背筋がひやりとするほど冷たい声で、昴が痛い指摘をする。真琴は思わず項垂れ、
「あ、ああ……悪かった」
「中途半端な優しさとか慰めはいらない。俺はただ、真琴を愛したいし真琴に愛してほしい」
「それは……無理だ」
答えると同時に、昴に腕を掴まれた。そしてそのまま部屋の外へ引きずられてゆく。
「昴、痛い。離せ」
真琴の弱々しい抗議も無視して、昴は玄関まで引っ張ってきた。そこで乱暴に手を離し、
「帰ってください、桜庭先生」
「昴……」
「それで、もう二度と来ないでください」
真琴には、頷くしかできなかった。
「すごい力だったな。いってぇ……」
真琴は、さっき昴に掴まれた腕を手のひらでさすりながら、暗い帰り道を歩いていた。
「手加減なしで思いっ切り掴みやがって」
口では文句を言いつつも、本気で怒っているわけではなかった。あの時、昴の方がずっと“痛い”思いをしていたことはもちろん分かっている。真琴の中途半端な態度が、昴を決定的に傷つけ怒らせてしまったことも。そう、真琴のことを『桜庭先生』と呼ぶほどに。
「桜庭先生、か……」
あの瞬間、目の前で何かが閉ざされたような気がした。いや、二人の間を隔てる大きな扉が実際に閉ざされたのだ。こちらから呼びかけても、応えが返ってくることはもうないだろう。
これは、真琴が望んだ結末のはずだった。昴に告白された時、自分は一人の男である前に教師だ、と堂々啖呵を切ったのだ。
教師と生徒という健全な関係を維持することが、今後の自分たちにとって最も望ましい。特に、将来を嘱望されるスター選手である昴にとっては。なのに、
「なんで……こんなに苦しいんだ。なんで……」
ふと気を抜くと涙腺が疼いて、あの媚薬のように甘くて苦くて成人男性には不似合いな液体が目から溢れそうになってしまう。
加えて、ずいぶん前から胸がむかむかしてたまらない。喉に手を突っ込んで、不愉快な塊を引っ張り出したい衝動に駆られる。もちろんそんなことは不可能なので、ぎゅっと唇を噛み締めて歩き続けた。
帰路を半分ほどいったところで、ポケットの中の携帯がメールを受信した。一瞬昴かもと期待を抱き、そんな自分が恥ずかしいやら情けないやらで、真琴は本気でこのまま消えてしまいたいと思った。
だいいち、メールアドレスなんて昴には教えていない。真琴は二度深呼吸をして自分を落ち着かせてから、携帯を開いた。
「あ、不人（ふひと）さんか……」
差出人は、真琴がたまに顔を出している会員制バー『セラフィタ』のオーナー。不人というのはもちろん、本名ではない。本名は真琴も、そしておそらく誰も知らない。性別すら分からない。
フランスの文豪バルザックの神秘主義的小説『セラフィタ』の主人公のように、ある時は美しい女性、ある時は凛々しい美青年として客の前に現れる。店の名前からも分かるように、本人も意識的に性別変換を楽しんでいた。
真琴は少し考えた末、これから伺いますと返信した。最近は全く顔を出していなかったし、久しぶりにゆるりと酩酊するのもいいだろう。
『セラフィタ』は同性愛者向けの店で、会員になるにはオーナーの審査を受ける必要があった。その代わり個人情報は徹底的に保護されるため、性癖を公けにできない教育関係者や政治家、弁護士などの顧客が多かったのだ。
彼らは本名や職業を決して明かさず、一人の男として夜を楽しむ。時にはバーに併設された個室で、一夜限りの交戯に耽ることもできた。
繁華街の外れで、紫黒の闇に沈むアールデコ調のビル。その地下で『セラフィタ』はひっそりと営業していた。
店に入り、真っ直ぐカウンター席へ向かう。すると、肩が露わになった柘榴色のドレスをゆったりと着こなした不人が、艶やかに微笑んで「いらっしゃい」と迎えてくれた。どうやら、今日は“女性バージョン”らしい。
「こんばんは、不人さん。そのドレス似合いますね」
「んふ、ありがと。マコトちゃんも相変わらず美人ね。店内が一気に華やいだわ。で、何飲む？」
「そうだな……明日は休みだし、なんか酔いたい気分だから、度数高めのショートカクテルを」
真琴が曖昧な笑みとともに答えると、不人はちらと詮索するような視線を送った。が、特に何も言わず、真琴の背後を指差して、
「アルコールなんかに頼らなくても、酔わしてくれる男はたーくさんいるわよ。ほら」
つられて真琴が振り返ると、テーブル席でグラスを傾けている男たちが一斉に濃厚な視線を送ってきた。真琴はそれを振り払うように素早く前に向き直り、
「今夜はそういう気分じゃないんで」
「やだ、どうしちゃったのよ。前の男とは別れて今はフリーなんでしょ？ あ、もしかしてまだしつこく言い寄ってきてんの？」
そういうつもりではないのに、この店に来て不人を前にするとなぜか色々と身の上話をしてしまう。酒のせいで舌が緩むというより、不人に対する圧倒的な信頼が真琴の口を軽くするのだ。
「それは別に大したことじゃない。無視し続ければいいだけだし。それより……」
絶妙のタイミングで、真琴の前にグラスが置かれた。エメラルドグリーンの遠浅を想わせる美しいカクテル。
しかしリクエスト通りアルコール度数は高く、見かけの繊細さとは裏腹に舌を刺すような刺激があった。喉を通すと同時に、鳩尾の辺りがかあっと燃え上がった。
「なんだかもう……いろんなことがありすぎて……」
もともとアルコールに強くない体質で、ビールでも程よく酔える真琴だったから、強めのカクテルはあっという間に酩酊を呼んだ。
空っぽの胃にいきなり酒を入れたせいもあるだろう。酔って愚痴るのはみっともないという自覚はあったが、吐き出してしまいたいという欲求の方が勝った。エメラルドグリーンの甘い毒を流し込みながら、真琴は昴のことをぽつりぽつりと不人に話した。
「そっかあ。ちっちゃくて可愛かった男のコが、いきなり精悍な美青年になって現れたら、そりゃあ戸惑うわよね。しかも相手は生徒でプロのスポーツ選手とくれば、そう簡単には受け入れられないし」
不人は感慨込めて同意しつつ、真琴の前に新しいカクテルを置いた。真琴はそれを手に取って豪快に呷り、
「そうなんだ。なのにあいつ、俺の気持ちも考えず好きだ好きだって言うばかりで。そのくせ、俺が拒絶したらキレてもう二度と来るな、って。いきなり先生、とか呼びやがって。ほんと、しょーもないガキだ」
「でも、そんなガキをマコトちゃんは好きなんでしょ？」
真琴は思わず咳き込んだ。そしてキッと眦を決して不人を睨み、
「だれがッ。あんな図体だけデカい甘ったれの大型犬みたいな男を、なんで俺が───」
「でもさっき、義理の母親とのことを知った時胸がむかむかしたって言ったじゃない。それってつまり、嫉妬したってことよね？」
「嫉…妬……」
考えてもいなかった単語をいきなり投げつけられ、真琴の思考回路は停止状態に陥った。
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