俺がその映像をテレビで見たのは、確か小学校五年生の時だった。
『ペットショップでぇ、豆柴の赤ちゃんてゆわれたから買ったんですぅ。飼うなら絶対豆柴ってずっと前から思ってたんで〜。なのにどんどんおっきくなっちゃって。うちはペット禁止のマンションだし〜』
インタビューに答えているのは、たぶん若い女だったろう。顔にはモザイクがかかり、声も変えられていたから確かではないが。
テレビ局ってやつは、何の罪もないペットを保健所という名の処刑場へ平気で連れてくる鬼畜の人権も守ってくれるらしい。
『買ったとこに連れていったら、うちじゃもう引き取れないから保健所に連れていってくださいって言われたんで〜』
さも自分は悪くないと言わんばかりの弁解をべたべたした口調で続ける女のすぐ傍らには、つやつやした毛並みの立派な柴犬がきちんと正座して、心細げに飼い主を見上げていた。これから自分に待ち受けている苛酷な運命を、すでに察知しているのかもしれない。
「ふざんけんなよ、このクソ女。地獄へ堕ちろ」
俺はブラウン管越しに呪いの言葉を叩き付け、テレビのスイッチを切った。つらくて見てられなかったのだ。
そして俺は誓った。今は親が許してくれないから飼えないけれど、いずれ犬を飼うことになったら何があっても最後まで愛情を注いで、大事に大事に育てるのだと。
それが、どんなに我がままで甘ったれで手のかかるダメ犬でも。
第1話
ディスプレイに映し出されたバスケコート。そこを縦横無尽に駆け抜ける男たちはみな揃いも揃って長身で手足が長いせいか、60インチの大画面が狭く感じられる。
「……ほんとにこの中にいるのか？」
桜庭真琴（さくらば・まこと）はソファの上であぐらをかいて腕を組み、眉間に深い皺を寄せて画面に顔を近づける。オフェンスとディフェンスがめまぐるしく変わるバスケットボールの試合を見慣れていないため、眼球を忙しく動かしながら必死にプレイヤーの動きを追っていた。
するとその隣に、同じ高校に勤務する同僚教師の臣川宗次（おみかわ・そうじ）が座り、「ああ。確かブルーのユニフォームの方だ」と言いながら真琴の肩に腕を回した。
「ブルーの方だな、よし」
真琴はさらに身を乗り出しつつ、肘で臣川の胸を突き飛ばした。臣川は「うぐっ」と呻いて背もたれに倒れ込んだがすぐに起き上がり、今の呻きはちょっとした冗談で本当は痛くも痒くもなかったよと言わんばかりの作為的な笑みを浮かべてみせた。口端はかすかに引きつっていたが。
もちろん真琴は、そんな臣川の小芝居など気にせず観戦を続ける。ブルーのユニフォーム、東京スカイファイターズの選手に焦点を合わせて目で追っていると、一人の選手がパスを受けた。そしてゆっくりとドリブルを開始する。
当然ながら相手チームの選手が間を詰めてくる。と次の瞬間、いきなり急加速してあっという間にゴール付近へ攻め込み、くるりとバックターンして見事なジャンプシュートを決めた。
「な、なんだ今の？ すげえ」
「フェイドアウェイシュート。ジャンプして上体を後ろに反らしながら打つシュートだ」
「ほおおお」
真琴が感嘆の声を上げると、たった今華麗なシュートを決めた選手がアップになった。と同時に、実況アナウンサーが興奮に上ずった声で『十七歳の新星、桐江昴（きりえ・すばる）がまた決めました！』と叫ぶ。
「昴だ、確かに……」
すでに学校で実物を見ていたからすんなり受け入れられたが、実物を見る前にこの映像を見ていたら簡単に信じることはできなかっただろう。
プロバスケットボールのリーグ戦にスタメン出場し、次々と見事なシュートを決め、観客の黄色い声援を浴びているのが“あの”昴だなんて。
「しっかしすごい歓声だな。バスケってプロスポーツとしてそんなにメジャーだったっけ？」
汗に濡れた昴の精悍な横顔がなぜだか見ていられなくて、真琴は隣の臣川にどうでもいい問いを振った。すると臣川は気障な仕草で肩を竦め、
「確かに、野球やサッカーに比べれば認知度は低いな。地上波でもほとんど放送されないし。でも去年くらいから、若い女性ファンが急増してるらしい。理由は言わずもがな、だな」
「十七歳の新星、桐江昴、か」
別に驚くことじゃない。たった一人のアイドルプレイヤーの登場によって、新しいファン層が開拓されるというのは昨今よくある現象だ。男子ゴルフしかり、大学野球しかり。驚くべきは、そのアイドルプレイヤーが真琴の旧知の人間だったということだ。
「そんなにこいつと親しかったのか？」
臣川の問いに「まあ、ちょっとした知り合いだ」と返し、真琴は帰り仕度を始めた。これ以上長居をしたら、昴との関係をしつこく掘り起こされそうだ。いかにも“慌てて帰る”感が出ないようゆったり上着を羽織り、
「ありがとな。うちはBSもCSも加入してないから見れなくてさ」
お礼を言ってソファから立ち上がる。すると臣川もすかさず立ち上がって真琴の腕を掴み、
「もうちょっとゆっくりしていけよ。最高に美味いワインがあるんだ。今開けるから」
真琴は手を振り払いたい衝動を抑えて、「明日も早いから」と穏当な答えを返す。一応職場の同僚だから、あまり乱暴なことはしたくない。そんな配慮ができる俺って大人だなと自画自賛する真琴はもちろん、さっき臣川を肘でどついたことはきれいさっぱり忘れている。
「まだ八時だぜ。今から“御休憩”したって十時だ」
「なんだ、お前んちはラブホなのか。なら利用料金払うぞ。いくらだ」
臣川はくくっと喉の奥で笑って、真琴の腰を抱き寄せた。そして、
「料金は、真琴の可愛い喘ぎ声で十分、お釣りが来るくらいだ」
そう言って尻を撫で回し、顔を近づけてくる。外国製の整髪料のきつい匂いに思わずむせそうになり、真琴は顔を背けた。するとさっきまで見ていたテレビの画面が視界に入り、再びシュートを決めた昴の顔が大きく映し出された。
何かに打ち込んでいる者特有の熱く凪いだ瞳、全身から漲る静かな闘志はただ清々しく、そんな昴の前で俺はいったい何をやってるんだと自分を顧みた真琴は、さっきの“大人な”自分を忘れて臣川を思い切り突き飛ばした。
臣川はどさっと間抜けな音をたててソファに沈み、乱れた前髪を気にしながら、
「な、なにするんだ真琴。そんなに俺のことが嫌いになったのか」
確かに、臣川とはつい先月まで付き合っていた。付き合うと言えば聞こえはいいが、まあセックスフレンドみたいなものだ。
会って軽く食事して、どちらかの家で性交する。校内に同じ性癖を持つ男がいなかったから、類は友を呼ぶとばかりに自然の流れでそうなった。少なくとも真琴はその程度の認識だった。
しかし臣川は違ったらしく、関係が終焉を迎えてもなお、真琴への執着を捨てていなかったようだ。
それも仕方ないのかもしれない。桜庭真琴は紛うかたなき二十四歳の男なのだが、彼を見て誰もが最初に思いつく言葉は『美人』。それも、テレビやファッション雑誌などで愛想と媚びを振りまいているいかにも商品的な美人とは一線を画した、独特の怜悧な美貌の持ち主だった。
喩えて言うなら、森の奥深くでこんこんと湧き出る泉のように神秘的で冷たく澄んでいる。それだけならばただ近寄りがたい存在かもしれないが、真琴にはもうひとつの磁力、色気が備わっていた。
もちろん、流し目をくれたりしなを作ったりするわけではない。ただ、これまでの豊富な男性遍歴、直截的に言えばセックスの経験が、本人が望むと望まざるとにかかわらず、真琴の肌にとろりとして匂い立つような淫靡な艶を与えていることは、確かな事実だった。
外見だけならばむしろ、男には敬遠されるかもしれない。最近の男は美しいものより可愛いもの、愛でたくなるものを好む傾向がある。しかしこの意図せざる媚態により、男たちは蜜花に群がる虫のごとく吸い寄せられるのだった。
臣川は懲りもせずソファから立ち上がり、真琴の行く手を遮った。
「なあ、真琴。このままお前を帰すなんて、とてもじゃないが俺にはできない」
臣川の声には、あからさまな性的含蓄があった。いや、声だけではない。真琴の頬や耳など細部をなぞる指先の動きも、言葉より雄弁な情欲を物語っていた。
「相変わらず綺麗だな。綺麗で冷たくて艶やかで……」
陶酔も度を過ぎれば滑稽だが、本人が気持ちよく酔っているのだからとやかく言う必要もないのだろう。臣川はうっとりと目を細め、真琴の鑑賞に耽った。
光に透かすと琥珀色に華やぐ髪は、性格を反映してかわずかなうねりもなく真っ直ぐ伸び、触れると指先からさらさらとこぼれる。
飴色の瞳は大きく、それだけなら十分愛らしいと言えたが、わずかに吊り上がった目尻のせいで愛らしさは相殺され、角度によってはきつい印象を与えてしまう。また虹彩の色が薄いせいで、表情を読み取りにくいという難点もあった。
もともと表情の変化をあまり見せない上、このガラスの瞳のせいで、まるで人形のようだと揶揄する者もいた。
つんと取り澄ました鼻筋や形のよい薄い唇は、どうしても酷薄な印象を与えてしまう。もちろん男ならば、この端整な唇が快楽に歪み、甘い嬌声に濡れるさまが見たいと願わずにはいられないだろうが。
ギャップというのは、いつの世もオスを狂わせる媚薬となる。物言わぬ人形に対する陵辱の欲望を抱えている男は、案外多いのだ。
全体的に色素の薄い真琴だったが、その特徴は肌にもよく表れていた。透明感のある白い肌は女性にとっては垂涎の的だろうが、真琴は健康的な褐色の肌に憧れていた。
子供の頃はよく日光に当たって焼いたが、赤くなるばかりで時間が経てば元通り。そして今でも白磁の肌は健在で、身体を重ねた男たちはみなこの珠肌に紅の徒花を散らそうと、執拗に吸い付き歯を立てるのだ。
「なあ、真琴、いいだろ？ 今付き合ってる奴はいないって言ってたじゃないか」
もはや鑑賞だけでは我慢できないとばかりに、臣川は顔を近づけて真琴の唇を奪おうとした。
黙って澄ましていれば、紳士服のカタログに載っているような、多少の胡散臭さはあるけれど爽やかな美形であることは間違いないのに、切羽詰まった欲望に支配された臣川の顔は下品に脂ぎっていた。
しかし、真琴が臣川を拒絶するのはそれが原因ではない。真琴は片手で押し戻してからちらと一瞥を送り、
「お前、婚約しただろ」
すると臣川は驚いたように目を見開いたが、すぐに相好を崩し、
「まだそんなことを気にしているのか。これはこれ、それはそれ。いいじゃないか、俺たちなら面倒事が起きるおそれもない。これまで通り、気持ちいい付き合いをしよう」
どれだけセックスしても妊娠する可能性はないのだから安心だと言いたいのだろう。快楽至上主義の臣川らしい言い分だ。
真琴も、他人の主義を否定するつもりはなかった。浮気はバレなきゃいいというのも、ひとつの真理なのかもしれない。しかし、
「あんたがよくても俺が嫌なんだよ。人様のものに手ぇ出すヤツは外道だと、小さい頃から親父に耳タコなほど言われ続けてきたんでね。俺は別に、不倫は罪だとも文化だとも思わない。だからあんたがどうしようがあんたの勝手だが、俺を巻き込まないでくれ」
真琴が妻子ある男性と関係を持たない本当の理由は、実は別にあるのだが、そこまで深い胸の裡を臣川に開陳するつもりは毛頭なかった。
反論や抗議を許さない口調で言い置いて、臣川にくるりと背を向ける。すると背後から拘束され、上半身の自由を奪われた。両腕ごと拘束したのはきっと、肘鉄を警戒したからだろう。
「そんな意地張ることないだろう？ 本当はしたくてたまらないくせに。最近ごぶさたみたいじゃないか。真琴がどれほど淫乱でセックス好きかは俺がよく知ってる。そろそろ我慢の限界じゃないのか？」
お前、どれほど自分のテクニックに自信があるんだよと真琴は声に出さず悪態をつき、溜め息をついた。その溜め息に色っぽい含みがあると誤解した臣川は、はしたなく膨張した股間をぐいぐい押し付けてくる。
真琴はいかにも観念しましたと言わんばかりに身体の力を抜いてみせた。すると臣川はいそいそと拘束を解く。その瞬間を狙い、真琴は臣川の脛を思い切り蹴り飛ばした。狙いを股間に定めなかったのは、同僚に対するせめてもの情けだ。
「どぅわっ」
臣川は意味不明な叫びとともに飛び上がり、ぴょんぴょん跳ねながらソファに倒れ込んだ。
真琴は学生の時分からよく喧嘩に巻き込まれたが（目つきが悪い、愛想がないというだけで十分標的になり得るのだ）、記憶にある中で負けたことは一度もなかった。
身長こそ175センチと人並み程度だが、身体の作りが華奢な真琴の必勝法はとにかく相手の隙と油断を衝くこと。そういう意味では、真琴は最初からアドバンテージを持っているも同然だった。
相手は必ずと言っていいほど、真琴の外見に油断する。ちょっと脅せばガタガタ震え、地面に額をこすり付けて謝ってくると思い込んでいる。
まさか舶来ものの人形のように可憐な美少年が、いきなり金蹴りかましてくるとは思ってもいないだろう。
そんなわけで真琴は学生の頃、『顔は綺麗だがえげつない』というなかなか味わい深い評価を得るに到ったのだ。
それはさておき、過去に修得した必勝法により臣川を撃退した真琴は、「フィアンセによろしく」と冷ややかに言い置いて部屋を後にした。
玄関で靴を履いていると、つけっぱなしになっているテレビの音声が耳に届いた。実況アナウンサーは、東京スカイファイターズの勝利と、十七歳の新星、桐江昴の活躍を大袈裟に称えていた。
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