可愛い（?）犬のジェラシー
＜1＞
ゴールデンウィークの真っ只中、思いがけぬ訪問者が玄関の呼び鈴を鳴らしたのは、真琴がそろそろ夕飯の仕度を始めようかと腰を上げた時だった。
試合を終えた昴が帰ってきたのかと思ったが、いくらホームでの試合とはいえこんな早く帰れるはずはない。宅急便か怪しげなセールスだろうと予想しつつモニターを確認すると、そこに意外な人物が映っていた。
「一輝（かずき）じゃねえか」
真琴は驚きの声を上げ、ともかく玄関に急いだ。一輝は真琴の姉の息子。つまり真琴の甥っ子である。確か今年で小学五年生になったはず。扉を開けると、果たして一輝は一人で突っ立っていた。母親の姿は見当たらない。
「真琴、久しぶり」
「お、おう」
一体どうしたのかと問う間もなく、一輝は真琴の脇をすり抜けて中に入ってきた。脱いだ靴をきちんと揃え、勝手にスリッパを出して足を通す。そして部屋の中へ。
「お、おい、ちょっと待て！ どうしたんだよいきなり。母ちゃんは？」
慌てて追いかける真琴に、一輝は小さな身体をくるりと反転させて答えた。
「家出」
「家出？！ 母ちゃんがか？」
「違う。おれが家出してきた。真琴、しばらく匿ってくれ」
子供らしくない硬い声が、決意の表れなのか単に緊張しているからなのか分からない。ともかく真琴は慎重に会話を継いだ。
「一体何があったんだ。ちゃんと話してくれないことには、お前の頼みを聞き入れるわけにはいかない」
一輝は渋る様子を見せたが、それは勿体つけるためのポーズだったようだ。真琴がもう一度促すと、今度はあっさり口を開いた。
「母ちゃんが信じられなくなった。いきなり、私立の中学に行くなら今年の夏ぐらいから塾に行った方がいいって言い出したんだ」
「私立に？」
「うん。きっと、自分が離婚して周りからいろいろ言われたんだ。だからそいつらを見返してやるため、おれを偏差値の高い私立の中学に入れるつもりなんだ」
姉が離婚したのは一昨年のことだ。一人息子の一輝を引き取り、デザイン事務所で働きながら育てている。
確かに、自分がこうと思ったら周囲を顧みず突っ走る傾向はあるが、そんな見栄から息子の進路を決めるような人間ではないはず。しかし一輝が嘘をついているとも思えない。
「おれの気持ちとか、おれがどうしたいかなんて少しも考えてない。自分の都合ばっかり押しつけてくる。だから家出したんだ」
重々しい声で言い置くと、一輝はソファにどっかり腰を下ろした。梃子でも動かないと言わんばかりのその姿に、真琴はやれやれと溜め息をついた。そして、
「分かったよ。とにかく今夜は泊めてやる。けど、母ちゃんには連絡するからな」
「嫌だ！ それじゃ家出の意味がない」
一輝は目を剥いて抗議する。真琴は眉をひそめ、
「お前がいきなりいなくなったら、母ちゃんがどれほど心配するか」
「ふん、心配すればいいんだ」
そっぽを向いて吐き捨てる一輝に、真琴は声を一段低めて、
「家出をしたのは母ちゃんを心配させるためなのか？ 心配しておろおろする姿を想像して、ざまあみろと笑うためなのか？ だとしたら、お前は甘ったれのくそガキだ。見損なった」
容赦ない物言いに、一輝の顔があからさまに強張った。真琴はわずかに口調を和らげ、
「お前が家を飛び出したのは、自分の意思に反して勝手に進路を決めようとする母親に、抗議の意思表示をするためじゃないのか。だとしたら余計な心配はかけず、自分がどうしてこんな行動に出たのかきちんと話す、それが筋ってもんだ」
整然と諭す真琴を、一輝は真っ直ぐ見返してきた。その瞳には、さっきまではなかった理智的な輝きがあった。どうやら、真琴の説諭をきちんと理解したようだ。ややあって、
「……分かったよ。連絡してもいい」
ぼそっと答える一輝が可愛くて、真琴はふわりと微笑んで頭を撫でた。
「よしよし。いい子だ」
途端に一輝は火がついたように真っ赤になり、真琴の手を乱暴に払った。
「こっ、子供扱いすんなよ！」
「はあ？ 子供が何言ってんだこら」
真琴はからからと笑い飛ばし、「んじゃ、姉ちゃんに電話するか」と言って携帯を捜しに部屋を出た。その背中を、一輝は赤い顔のまま恨めしげに見送ったのだった。
真琴の姉、弓香（ゆみか）は息子の家出にショックを受けたようだったが、ともかくひと晩うちで預かるから話し合いは明日に、という真琴の提案を受け入れた。
あの子にもいろいろ悩み事があるのね、と神妙な声で呟く弓香に、子供を自分の思い通りにしようという親の傲慢は感じられず、真琴はあらためて一輝の言い分に疑念を抱いたのだが、電話ではなく直接顔を合わせて話した方がお互いのためにもいいと思い、では明日にと言って電話を切った。
そして、やれやれ一件落着と溜め息をつくと同時に、ちっとも一件落着でないことに気づいた。
「そうだ！ 昴！」
昴に事情を説明し、今夜はこっちではなく自分の部屋に帰るよう伝えねばならい。真琴はあたふたとメールを打とうとした。その時、
「ただいま〜」
聞き間違えるはずもない、あの声。真琴の手から携帯がぽとりと落ちた。慌ててリビングに駆け込むと、不審げに昴を見上げる一輝と、そして、
「真琴が……俺のいない間に男を連れ込んだ……」
額に鉛色の翳を落とし、谷底を這うような絶望的に暗い声でぶつぶつ呟く昴が視界に飛び込んできた。真琴は思わず声を張り上げ、
「アホかっ！ よく見ろッ。男じゃなくて子供だろがッ」
するとその言葉に、当の一輝が噛み付いた。
「おれは男だっ！ 子供じゃない！」
一輝が堂々と吼えると同時に、どさりと重い落下音が響いた。昴が手にしていたスポーツバッグを落としたのだ。そしてくるりと背中を向け、どたどたと走り去った。
「ちょっ、待て！ 昴！」
リビングを飛び出した昴は、寝室にいた。ベッドの端で膝を抱え、背中を丸めて座っている。その全身からにじみ出す真っ黒なオーラで、周囲がどんより濁って見える。真琴は隣に浅く腰掛け、下から顔を覗き込んだ。
「まさかお前、泣いてんのか？」
「……泣いてない」
「だよな。絶対泣かないって俺と約束したもんな」
子供の頃の約束だったが、昴にとっては時期など関係ない。真琴との約束は普遍的に守るべき大事なものなのだ。
「あのな、あいつは俺の甥っ子だ。名前は一輝」
「甥っ子？」
昴の背中がぴく、と動いた。真琴は「おう」と返して続ける。
「姉ちゃんの息子。母親と喧嘩して家出したらしい。で、他に頼るところがなくて俺んとこに来たってワケだ」
昴がようやく顔を上げた。そして目をごしごしこする。
「なんだ、やっぱ泣いてたんじゃねえか」
「泣いてない」
かぶせ気味に否定して、昴は深く息を吐いた。
「びっくりした……目の前が真っ暗になったよ。真琴が俺以外の男と──」
「あのなあ！ どう見たって相手は子供だろ」
「俺が真琴と初めて会ったのも、あの位の年頃だった。一目で恋に落ちたのも、好きだと告白したのも」
「そ、それはそうだけど……」
おれ、真琴が好きだ。おれの恋人になってほしい──小さな身体から情熱の焔を立ちのぼらせ、ぎらりと輝く黒瞳で真っ直ぐ見据えて告白したあの時の昴は、確かに子供ではなく男だった。
「きっかけさえあれば、子供が男になるのはあっという間だ。俺のきっかけは言うまでもなく、真琴と出会ったことだ」
「ん、そうだな。今なら分かる。当時のお前は、身体こそ小さかったけど心は男だった」
真琴はそう言って、懐かしさから思わず口元を綻ばせた。すると、昴の顔がゆっくり近づいてきた。
「まこ」
低い声と舌足らずな呼び方のギャップに、真琴の胸は妖しく騒ぐ。それを隠すため、わざとぶっきらぼうに応える。
「な、なんだよ」
「お帰りのキスまだしてもらってない」
「……ばか」
悪態をつきながらも、唇はキスを誘うようにふわりと膨らむ。そこに昴の唇が吸い寄せられようとした時、
「真琴ぉ、どこ行っちゃったんだよ！」
ぱたぱたと軽快な足音とともに、一輝が現れた。真琴は弾かれたように昴を突き飛ばし、何とか体裁を取り繕った。
「お、おう。ここだ、一輝」
軽く手を挙げ応えると、部屋に入ってきた一輝はあからさまに不審な視線を昴に向け、
「なあ、こいつ何なんだ？」
「うん？ と、友だちだ。家が近いから、たまに遊びに来──」
「違う！ 俺は真琴のっ……」
悲愴な声で訂正しようとする昴の脇腹をぎゅっとつねり、笑顔でごまかす。隣では昴が痛さに悶絶しているが取り敢えず無視。一輝はまだ不審を残しつつも、「ふぅん」と一応納得したようだった。
「それより真琴、夕飯まだ？ おれ、腹減った」
「あ、ああ。そうだったな。すぐ仕度するから」
「おれ、スパゲッティが食べたい！」
一輝のリクエストに、真琴は笑顔で応じた。
「よし。ナスのミートソーススパゲティでどうだ？」
「やったぁ！」
両手を挙げて喜ぶ一輝とは対照的に、昴は再び暗黒オーラを放射する。
「今日の献立は、俺の好きなナスのグラタンのはずだったのに……」
「それはまた今度作ってやるから。今日は我慢しろ」
真琴はきっぱり言って立ち上がり、一輝を促していったん寝室を出た。しかしすぐに戻り、まだベッドに座って悄然とうなだれる昴に近づき、
「お帰り、昴。今日もよく頑張ったな」
優しい言葉と甘い口づけを贈った。
夕食のテーブルについた一輝は、両手を合わせて「いただきます」とお辞儀してからフォークを手にした。さすがは姉ちゃん、ちゃんと躾けてるなあと感心しつつ「いい挨拶だ。えらいぞ」と褒める。すると、
「いただきます！」
昴がその倍の大きさで声を張り上げた。一輝は敵対心剥き出しで昴を睨み、さらに大きな声で、
「いただきます！！」
「いただきます！！！」
「いただきますっ！！！！」
真琴はテーブルにバンッと手を付き、
「うるせえっ、お前らさっさと食え！」
「………」
二人ともしゅんとしおれ、真琴の怒りから逃れるように肩をすぼめて食べ始めた。
「ったく……」
一体何を張り合ってるんだか、と真琴は声に出さずぼやく。しかし、はふはふ言いながらパスタをすする一輝を見ていると、口元が自然と綻んだ。
「一輝、旨いか？」
「うん！ 母ちゃんが作ったのよりおいしい」
「はは、そうか。でも母ちゃんにはそういうこと言うんじゃないぞ」
一輝はこくこく頷いて、パスタを次々と口に運ぶ。いただきますの挨拶は完璧だったが、フォーク使いはまだ下手なようで、口の周りにミートソースが付いてべとべとになっていた。
「あーあ、ソースが付いてるぞ」
真琴は紙ナプキンを取って席を立ち、「しょうがねえな」と言いながら丁寧に拭ってやった。一輝は子供扱いにムッとしたようだったが、頬を膨らませつつもちゃんとお礼を言った。それが可愛くて、真琴は思わず目を細めよしよしと頭を撫でる。すると、
「真琴〜」
昴に呼ばれそちらに顔を向けた真琴は、ぎょっとして固まった。
「おまっ……何やってんだ！」
昴は口の周りにミートソースをべったり付け、期待に沸く瞳を真っ直ぐ向けていた。
「俺もソースが付いちゃった」
そして、早く拭いてと言わんばかりに指差す。真琴は額に険しい翳を落としてわなわなと震え、挙げ句、
「ふざけんなッ、自分で拭けっ！」
爆発したことは言うまでもない。
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