真夏の情事

３.

その翌朝。純は鉛のように重い身体を引きずって部屋を出た。救いは、朝食を生徒たちみんなと食べられることだった。

もし教師だけ別室で朝食だったら、気まずくて苦痛で、何も喉を通らなかっただろう。今は生徒たちの屈託ない笑顔だけが、心の拠り所だった。

「純せんせー、こっちの席空いてます」

降り注ぐ朝日のように明るい声で呼びかけられ、思わず笑顔がこぼれる。純は「ありがとう」と応えて、ハムエッグやヨーグルトが乗ったお盆を持って向かった。

呼んでくれた女子生徒は、嬉しそうに手招きする。純は隣に腰を下ろして、

「ゆうべはよく眠れた？」
「はいっ、と言いたいところなんですけど……」

純はくすっと笑って、

「夜更かししたんでしょ。でも仕方ないか。せっかくの機会だもんね」
「わ、お見通しだぁ」

楽しそうにころころ笑う彼女たちを眺めていると、自分も学生だった頃のことが思い出される。

そうだ、確か直と秀と一緒の部屋で、バーベキューの時二人は喧嘩してたんだっけ。そう言えばあの喧嘩の原因は何だったんだっけなあ………

「きゃあっ、今村先生！　おはようございま〜す」

黄色い喚声に迎えられて、今村が食堂に入ってきた。いつも自信に満ち溢れた精悍な顔は、二日酔いのためか蒼褪めていた。

俯き加減でよろよろとこちらに向かってくる。そして純の手前で初めて存在に気付いたのか、はっと息を呑んで立ち止まった。純はにっこりと笑って、

「おはようございます、今村先生」
「あ……お、おはよう………」

小さな声で挨拶を返すと、そそくさと行ってしまった。

「ねえねえ、今村先生なんか具合悪そうだね」

純の向かいの生徒が、隣にそっと耳打ちする。すると皮肉っぽく笑って、

「ばかね、今村先生だけじゃないわ、他の先生もよ。きっと二日酔いよ。ゆうべは宴会だったんでしょ」

純は思わず吹き出してしまう。生徒たちこそ全てお見通しなのだ。

「あー、純先生笑ってる〜」

純はそっと唇に指を当てて、

「僕は二日酔いじゃないからね」

みんなでクスクス笑いを交換した。その時、バタバタと騒々しい足音がして生徒が飛び込んできた。そして切羽詰った声で喚く。

「先生！　桐生がＢ組の及川とか笹本とかと殴り合いを―――」
「何だってぇ？　ったくあいつは………」

教師らは立ち上がったものの、雪仁を押さえる自信がないのかみな一斉に今村へ視線を送る。体格的に太刀打ちできるのは彼だけだと言いたいのだろう。今村はうんざりした表情で肩を竦め、

「ここまで来て迷惑を掛けるのか、あいつは。放っておいたらどうだ」
「で、でも桐生一人に対して、相手は四人なんです」
「自業自得だろう」
「そんな……先に仕掛けてきたのは奴らなんです。すれ違った時に腕が触れたとか触れないとかで―――」

全て聞き終わる前に純が立ち上がった。そして知らせにきた生徒を促して部屋を出る。今村は舌打ちすると、その後を追って出ていった。

Ｂ組の及川や笹本らは、陰湿且つ執拗な暴力を好み、クラスメートからも忌避されている存在だった。

食堂内はざわざわと不安げな呟きで波打ったが、雪仁のことを心配しているのは外部生ばかりだった。内部生は、たかだか四人相手で雪仁が負けるとは思っていなかった。

中等部の時に直に遭遇した数々の武勇伝に比べれば、四人相手なんて大したことはない。もちろん那智もその一人で、平然と食事を続ける。「桐生くんのことが心配じゃないの？」と訊ねる友人にちらと一瞥を送り、

「相手はたったの四人でしょ？　そいつらが全員Ｋ−１ファイターでもない限り、どうってことないわよ」

そう言って早々にデザートへ手を伸ばした。




「先生、こっちです！」

彼が指差した方に、確かに雪仁はいた。しかしそれはもはや“殴り合い”ではなかった。一方的な暴力。

三人はすでに戦闘不能状態で、一人は床にうずくまっており、一人は仰向けに倒れ、一人は四つん這いになって今にも逃げ出そうとしていた。そして残る一人は雪仁に胸倉を掴まれ、無抵抗のまま殴られている。

「雪仁くんっ、やめなさいっ！」

純の叫びを受けて、一瞬雪仁の手が止まる。が、それは文字通り一瞬の停滞に過ぎず、すぐに何事もなかったかのように殴打を再開した。

その表情は暴力への嗜好で沸き立つどころか寧ろ冷たく凍結しており、何の感情もないまま機械的に殴っているだけだった。

呼びに来た生徒は余りの光景に立ち竦む。まさかこんな短時間で呆気なく勝敗が決しているなんて。

そして殴打を続ける雪仁の無表情。そこに冷酷な強者を見た彼は、真の恐怖に震えた。

しかしもっと震えたのは、そこへ純が臆することなく飛び込んでいくのを見た時だった。足は竦んで動けなかったが、声を嗄らして叫んだ。

「先生っ、危ないです！」

しかし純は構わず、凶器と化した雪仁の腕に自分の腕を絡ませて押し留める。

「雪仁くん、やめなさい。もう決着は付いてます」
「うるせえ。離せ」

雪仁は腕を振って払おうとするが、純の強い抵抗に遭って苛立たしげに眉根を寄せ、

「あんたも殴られたいのか」
「殴りたいのならどうぞ」

純の真っ直ぐな眼差しに射抜かれて、雪仁は一瞬苦しそうに顔を歪めた。しかしすぐに冷淡な無表情に戻り、

「はッ、殴る価値もねえよ」

馬鹿にした嗤いを漏らして掴んでいた男を離した。そして空いた手で純の肩を突き飛ばす。そこへちょうど、今村が遅れて到着した。

「桐生！　秋原先生に何をするんだっ」

勇ましい声で怒鳴りつつ、雪仁の胸倉を掴み上げる。すかさず純は雪仁を庇うように間に入り、

「何もしていませんよ、桐生くんは」

僕に何かしたのはあなたの方ではないですか、そんな皮肉を言外に滲ませて冷たく叩き付ける。純の言わんとすることを察した今村はさすがに何も反論できず、ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら手を離した。

純は落ち着いた声で、四人を救護室へ運ぶよう頼む。今村は頷いて、他の教師を呼ぶためいったん食堂へ戻っていった。

「あっ、雪仁くん！」

その隙にくるりと背中を向け、恬淡とした歩みで去ろうとする雪仁に、純は慌ててすがり付いた。

「こめかみに血が滲んでる。手当てしなくちゃ」

しかし雪仁は純の顔を見ようともせず、鉄壁の沈黙で跳ね返してそのまま歩みを進める。純は振り払われる覚悟で腕を掴み、

「約束したでしょ？　自由時間には一緒に湖畔を散策して、ボートに乗って―――」

雪仁はちらと冷たい一瞥をくれ、

「知るか。勝手に行けよ」
「あ………」

掴んでいた手を離して力なく項垂れる純の姿に、自責の念が湧き上がる。詫びの言葉が口から出そうになるが苦しげに顔を背け、雪仁はそのまま去っていった。

純は一瞬追おうとしたが自分の職務を思い出し、怪我をして伸びている四人のもとへとぼとぼと戻っていった。




―――一緒に湖畔を散策して、ボートに乗って………


「俺だって……そうしたかったさ………」

夏休みが始める前から、ずっとずっとこの日を楽しみにしてきたのだ。なのに昨夜の出来事が、全てを台無しにしてしまった。

もちろん、自分が悪いのは分かっている。あの時は頭に血が上ってしまい、純の身体を汚した奴をぶちのめすことしか考えていなかった。

そのせいで退学になろうが警察沙汰になろうが構わない。その程度のことで躊躇するほど、純への想いは軽いものではないのだ。しかし少し冷静になれば、純が止めようとするのも当然なのだと分かる。

頬を張ったのは暴走気味な雪仁の目を覚まさせるためで、「もっと大人になりなさい」という叱責には、限りない愛情が込められていた。

けれど、分かってはいてもショックは隠しきれなかった。純のために何かしたいという情熱を受け入れてもらえなかった、そしてやはり自分は子供だと思われていた、そんな痛い事実を突き付けられて、心が頑なに強張ってゆくのをどうすることもできない。

本当は今すぐにでも純のもとに駆け付けて全ての暴言を詫び、その身体をさらって自由時間の間ずっと独り占めしていたいのに、こんな暗い植え込みの陰に身を潜めるように座り込んだまま、立ち上がることもできないのだ。

「ああ、くっそ………」

苛立たしげに呟いて、頭をがしがしと掻く。するとかさりと音がして、植え込みの向こうから誰かが近付いてきた。

「桐生くん、こんなとこにいたんだ……」

昨夜、雪仁を夜の散歩に誘って呆気なくフラれた、たぶん高岡という名前の元クラスメート。雪仁は、荒れた内面がそのまま表れた昏い瞳でじろりと見据えた。

高岡はさすがに怯んだものの、それでも意を決して近付き、

「ね、自由時間さあ、一緒に街の方に出てみない？　こんな所にいたって木があるばっかでつまんないでしょ？」
「遠慮する。どこも行きたくねえ」

間髪入れず拒絶する雪仁を、高岡は冷たく目を細めて見つめ、

「ねえ、最近の桐生くんてば何だかヘンだよ。どうしちゃったの？　昔は……何の理由もなく誘いを断るなんてなかったのに」

雪仁はうるさそうに小さく首を振ると、立ち上がって背を向けようとした。しかし高岡はさらに声を低め、

「あの人が……来てからだよね。新しい保健医の先生」

図星だろうと言わんばかりに、確信的な口調で指摘する。そしてたったひと言、「好きなの？」と震える声で訊ねた。

「お前には関係ねえよ」

雪仁の答えは、彼女にとって同意したも同然だった。立ち去ろうとする雪仁の背中に向かって、懸命の叫びを叩き付ける。

「なんでよっ？　何であんな人をっ……。あ、あたし知ってるんだから。あの人昔、うちの学生だったころ、先輩たちに襲われてマワされたんだって。何が伝説の“姫”よ。汚らわし…………キャアッ」
「てめえ……それ以上つまらねえこと言ったらこのまま投げ飛ばすぞ」

彼女の髪を無造作に掴んで引っ張り上げ、憎悪にぬめる双眸で上から見下ろす。

「い、痛いぃ………はなしてよぉ…………」
「さっきの答えだ。俺は確かにあの人が好きだ。てめえみたいな腐った女よりずっとな」

掴んでいた髪を離し、「さっさと消えろ」と地を這う低音で命令する。高岡が顔を覆って走り去るのを見届けると、忌々しげに手を振って指に絡まったままの長い髪を払い落とした。




「見事にやられたものね」

自分たちから仕掛けたにもかかわらず、あっさりと雪仁の返り討ちに遭った及川ら四人は、自由時間だというのに外にも出ず、部屋の中で不貞寝していた。そこへ、彼らのクラスメートである高岡が突然現れたのだ。

「ああ？　うるせえんだよ。さっさと出てけ」
「四人だから勝てるとでも思ったんでしょ？　馬鹿ね。中等部のころ、どれだけ高等部の先輩や近くの蒼星高校の連中を恐がらせたと思ってんのよ。ま、あんた達は外部生だから知らないだろうけど」

そして男四人に臆することなく近付き、僅かに声を低めて、

「正攻法でいっても勝てっこないわ。だからいいこと教えてあげる。彼、桐生くんの弱みはあの保健医よ」
「保健医？」

それまでは煩わしそうに話を聞いていた彼らだったが、ようやく身体を起こして真剣に耳を傾け出した。高岡は満足げに頷いて、

「そう、あの綺麗でみんなに人気の秋原センセ。桐生くんはね、あの人のことが好きなの」
「ホントかよ、それ……」
「ええ、間違いないわ。だから先生を人質にすればきっと、手が出せないはず」
「へえ……面白そうだな、それ………」

室内の空気が、俄かに腥く淀んできた。血と暴力への期待感がじわじわと広がってゆく。いや、それだけではない。

「秋原センセかあ………確かにすげえ綺麗だよなあ。俺、男には興味ねえけど………」

その呟きに応じるかのように、四人共にごくりと喉を鳴らして唾液を嚥下する。高岡は愉快そうに笑って、

「決まりね。あたしも協力するから。その代わりひとつお願いがあるの。あの保健医を、二度と学校へ来れないようにしてやって。言ってる意味分かるわよね？」
「ああ、分かったよ。俺たち四人で、ひと晩かけてたっぷり可愛がってやるさ」

及川は唇を舐めて、にやりと笑った。

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