真夏の情事
２.
バーベキュー大会はだらだらと続き、まだしつこく網にかじりついて食べ続けている者もいたが、疾うに食事を終えて風呂へ行く者や辺りを散策する者など、みな思い思いに時間を過ごしていた。
「桐生、風呂に行かね？」
「ん？ ああ、もう少しぶらぶらしてから行く」
友人の誘いを断ってテラスから下りた雪仁は、大きく伸びをしてひんやりした夜気を吸い込んだ。
すると背後からひたひたと足音が近付いて、「桐生くん……」と呼びかけられる。振り向くと、今はクラスが違うが、中等部ではずっと同じクラスだった女子がにっこり笑って立っていた。
確か高岡とかいう名前だったような……と思ったが、雪仁はすぐに思い出すのを放棄した。そして面倒臭そうに「なんだよ」と答える。
「あのさ、これからちょっと散歩しない？ いい場所知ってるんだ」
雪仁は明らさまに眉根を寄せて、「遠慮しとく」とあっさり払う。高岡（仮）は「え〜、行こうよぉ」と身体をくねらせて誘い、
「小高い丘があってね、星がすごくよく見えるの。きっと綺麗よ」
「星なんか興味ねェし。だったら天文クラブの男とか誘えよ」
取り付く島もないとはまさにこのこと。高岡（仮）はぐっと詰まって、唇を噛み締める。すると見かねた友人たちがぱっと集まって、
「ちょっと、桐生君。そんな言い方ないでしょっ。せっかく理利子が誘ってるのに」
口を揃えて雪仁を責める。雪仁は馬鹿にしたように笑って、
「なんだよ、それ。お前ら“せっかく”の使い方間違えてるぜ」
そしてくるりと背を向けた。友だち思いの彼女らが尚も食い下がろうと声を掛けたが、もはや雪仁の耳には届かなかった。雪仁の視線の先には、空をぼぅっと見上げる純がいた。早足で素早く近付いて、
「何してるんですか？」
「あ、雪仁くん……。見て、星が綺麗でしょう？ 東京じゃ見られないね、こんな夜空は」
そう言って、星々の輝きも霞むほどの眩い笑みを見せる。東京だろうが田舎だろうが関係ない。純の瞳に映る夜空が何よりも綺麗だと雪仁は思ったが、照れ臭くて口にすることはできなかった。だからただ「そうですね」と同意して、一緒に空を見上げる。
「蠍座ってどれかなあ。あの紅い星がアンタレスかなあ……」
「え？ 蠍座って本当に存在する星座なんですか？」
雪仁の素朴な問いに純はぷっと吹き出し、
「もちろんだよ。蠍座はね、夏の代表的な星座なんだよ。かなり大きくて明るくて……あ、あの辺かな？」
純が指差した方をじぃっと見て、
「どれです？」
「う〜〜ん、この辺が蠍の尻尾で………」
「全然分かりません。ほんとですかぁ？」
「うぅ……ほんとですっ。これが蠍座なのっ」
「嘘くせぇ〜〜」
ケタケタ笑う雪仁を、むぅぅと膨れた顔で睨む純。そんな二人のじゃれ合いを、周囲の人間は驚きを隠さず眺めていた。
いつも冷たい仏頂面で、浮かれた騒ぎからは一歩も二歩も引いている大人びた印象が強いだけに、そんな雪仁の無邪気な笑顔にはつい目を奪われてしまう。
それは今しがた適当にあしらわれた女子たちも同じだったが、驚きが静まった後には剣呑な翳がじわじわと広がっていった。
星なんか興味ないと言ったすぐ傍から、純の隣に寄り添って楽しそうに夜空を眺める雪仁に鋭い一瞥をくれると、彼女らは荒れた歩みでその場を去っていった。
「あ、そろそろ行かなくちゃ………」
時計を見て、はあと溜め息をつき肩を落とす純。雪仁は心配そうに顔を覗き込んで、
「どうしたんですか？ どこか具合でも……」
「あ、ううん。違うよ、大丈夫。これからね、親睦会に出席しなくちゃいけないんだ」
「親睦会？」
純は皮肉っぽく笑って、
「表向きはね。実情はただの宴会だよ。引率の先生たちが集まってお酒を呑んで騒いで……。そういうのってちょっと苦手だから……」
そして唇に人差し指を当て、「内緒だよ」と囁く。雪仁は眉をひそめて、
「それ、出なくちゃいけないんですか？」
「うん……やっぱり欠席するわけにはいかないから……。最初の乾杯だけ参加して、あとは適当な口実を作って部屋に戻ってくるよ」
純の言葉を聞いて、雪仁は何かに思い当たったのかはたと顔を上げ、
「そうだ、部屋っ。まさか誰かと相部屋だなんて―――」
「ううん。ほら、あそこに見える別棟。あの２階の部屋を割り当ててもらったんだ。シャワーも完備なんだよ。１階は管理人室だし。だから心配しないで」
雪仁は思わず安堵の息を吐く。きっと日向理事長の指示だろう。危険なのは生徒ばかりではないのだ。
特に引率はみな若い教師ばかりだったから、純に対して邪な想いを抱かないとも限らない。
「じゃあ、僕はもう行くね。雪仁くん、また明日ね。おやすみなさい」
薄闇の中で輝く笑顔の残像を噛み締めながら、雪仁は自分の部屋へ戻っていった。
「さあさあ、秋原先生、どうぞ。遠慮なさらず」
「あ、いえ……僕はもうお酒は……」
「そんなこと仰らずに。さあ」
何とかがんばってコップの半分を空けたと思ったら、瞬く間に注がれてしまった。純は相手にバレないよう小さく嘆息すると、取り敢えずコップに口だけ付けてビールの苦味を味わった。
最初の乾杯からまだ１時間も経っていないというのに、ほとんどの教師がすでに酩酊状態。次から次へと純の隣に座っては、呑め呑めとしつこく迫った。
「いやァ、こんな美女と一緒に酒が呑めるなんて、夢のようだなあ」
「本当に、見れば見るほどお美しい。あなたが酔って乱れるところをぜひ見てみたいですねえ」
「ああ、そんなこと言ったら恋人に怒られますよ。ねえ、秋原センセ？」
いくら美貌の持ち主とはいえ男だからセクハラにはならないと思っているのか、或いは何も考えていないだけなのか、ともかく彼らは酒臭い言葉を浴びせては、純の身体に触れようとする。
純は一刻も早くこの場を立ち去りたかったが、ここまで囲まれてしまっては抜け出すこともできない。
―――やっぱり出席しなければよかった………
お酒の席とはいえ、出席者はみな教師。まさかここまで羽目を外すとは思っていなかったのだ。しかし今さら後悔してももう遅い。
何とか俯いて耐えていたが、横からぬっと突き出てきた手に股間を撫でられた瞬間、心の中の何かがプツンと切れた。無言のまま席を立とうとしたが、僅かに先んじて別の声が降ってきた。
「秋原先生、もう部屋に戻りましょう。送っていきますよ」
「あ、今村先生……」
声の主は、英語教師でサッカー部の顧問、爽やかな笑顔と逞しい長身で、特に女子からの人気が絶大な今村だった。
運動部の顧問には似つかわしくない長髪をさらりと掻き上げ、にっこり屈託のない笑みを浮かべて手を差し伸べてきた。
「今村先生、まだ始まったばかりですよ」
他の教師たちは明らさまに敵意を見せはしないものの、不愉快そうに声を低めて異議を唱える。しかし今村は笑顔で払って、
「お見受けしたところ、秋原先生はお疲れのようです。早めに休まれた方がよろしいのでは？」
純は慌てて頷き、
「は、はい。実は少し寝不足で……。すみません、今夜は下がらせてもらっていいですか？」
ここまで言われてしまっては、誰も何も言いようがない。純はそそくさと立ち上がると、ぺこりと頭を下げて宴会場を後にした。そして黙って付いてきた今村と肩を並べて歩いたが、建物から出たところで頭を下げて、
「ありがとうございました。お酒が呑めないものですから、ああいった席は苦手で」
「いやいや。呑めない人に無理やり勧める方が悪いのです」
純はもう一度「ありがとうございました」と礼を言うと、
「あの、僕はこのまま部屋に戻りますので、今村先生はどうぞ戻ってください」
しかし今村は笑って首を振り、純の腕を掴んで歩き出した。
「秋原先生のお部屋がある別棟までは、真っ暗な道ですからね。危ないですよ」
腕を掴んでいる今村の手は、驚くほど熱かった。平気なふりをしているけれど、実はかなり酔っているのかもしれない。
純の脳裡を警報が掠めた。なるべく自然な感じでやんわり腕を払い、
「もうすぐそこですからこの辺で結構です。皆さんきっとお待ちですよ。先生は人気者ですからね」
「人気者、ですか？ それは秋原先生でしょう？」
声は笑いを含んでいたが、目は笑っていなかった。ぬめぬめと異様な輝きを放って、純の身体を舐めるように凝視している。
「こんな暗いところを一人で歩いて、生徒に襲われたらどうするのですか？ あなたに腥い欲望を抱いている生徒はたくさんいるのですよ。例えば、Ａ組の桐生とか」
純は冷ややかな眼差しを向けて、
「彼は昔からよく知っています。そんな子ではありません」
「ほう。そうでしょうか。彼があなたを見る目は、尋常でないような気もしますが」
ここで今村は早くも本性を現した。純の手首を掴んで背後の巨木に押し付け、
「なあ……ヤッたんだろ？ 桐生と」
「は、離してくださいッ」
「あんなガキより、俺の方が何倍もイイぜ。ほら……」
ねばつく声で囁くと、盛り上がった股間を純の腹に押し付けてきた。純は大声を出そうと息を吸ったが、大きな手に素早く口を塞がれて苦しげに呻くことしかできない。
今村はそのまま両脚で純の腰を挟み込み、片手でシャツを引き裂いた。そして露わになった白い首筋に、我を忘れて吸い付く。純はいったん抵抗をやめ、彼の好きにさせることにした。
純の無抵抗に気をよくした今村は、滑らかな肌の感触と甘い香りに酔い惑いつつ執拗に歯を立てる。やがて背中に腕を回して純の胸を持ち上げ、ふるふると揺れる肉の実を唇で挟み込んだ。
その瞬間を狙い、純はすでに自由になっていた膝で今村の股間を蹴り上げた。
「ぅぐぁっ………ぅ、ぅぅ…ぁ………」
彼を崇拝する女子生徒が見たら、百年の恋も冷めるであろう惨姿。脚をＸ字に交差させ、腰を屈めて股間を押さえる。
純は破られたシャツの前を合わせると、「おやすみなさい、いい夢を」と優しく叩き付けてさっさと去っていった。
部屋に戻ってしっかり鍵を掛けた純は、すぐに風呂場に飛び込んだ。そして今村の唾液の痕はもちろん、宴席で染み付いた煙草の臭いや酒気などを洗い落とす。
しつこいほど身体をごしごし擦り、ぬるめの湯で流してようやく人心地ついた純は、ほぅっと息を吐いて風呂場から出た。
パジャマ代わりに持ってきたシルクのシャツをまとい、ベッドの上にぽすんと腰を下ろすと、何故だか自分が惨めに思えてきて無性に淋しくなってきた。
ああいった宴会の席で、他の先生たちと同じように楽しく過ごせない自分には、何かが欠けているのかもしれない。でもどうしようもなくて―――
その時、窓に何かが当たったのかコツンと音がした。純ははっと顔を上げ、窓辺に歩み寄る。しかし窓の外には何も見えない。
純は戸惑いつつも窓を開け、広々としたテラスに踏み出した。
「純さん……純さん………」
「雪仁くんっ？」
声のする方を慌てて探すと、テラスにかぶさるように大きく張り出している木の枝がバサリと鳴った。すると太い枝の上で腰を屈めて、悪戯っぽく笑っている雪仁の姿が視界に飛び込んできた。
「雪仁くん、何してっ―――」
「純さん、ちょっと離れててください。そこに飛び降りますから」
「だ、だめだよ、危ないからっ」
「平気です。行きますよ。せーのっ」
バサバサッと枝が鳴り、雪仁はテラスの中央に着地した。そして、名前を呼びながら駆け寄る純の身体を少し乱暴に抱き寄せ、
「どうしても会いたくて……来てしまいました」
「バカ……知らせてくれれば下まで迎えに行ったのに。こんな危ないことしなくたって………」
微かに汗ばんだ逞しい胸に顔をうずめ、掠れ声で咎める純。対して雪仁は得意気に笑って、
「こっちの方がカッコいいでしょう？ なんつーか、ロミオとジュリエットみたいで」
「ロミオはこんな空き巣みたいなことしません」
「うわ、ひでー」
雪仁の朗らかな笑い声が耳から身体中に浸透し、先刻の出来事で萎縮していた純の心身を温かく解きほぐしてくれた。
純は顔を上げて微かに潤んだ眼差しで見つめ、
「でも……来てくれて嬉しい。ありがと………」
はにかむように微笑んで、雪仁の腕を引き部屋へ導いた。暗い場所からいきなり明るい部屋に移った雪仁は、眩しくて思わず目を細めてしまう。そして徐々に目を開けると、シルクの妖艶な光沢をまとった純が心配そうにこちらを見つめていた。
みっともないとかはしたないとか自省する余裕もなく、雪仁はごくりと喉を鳴らす。象牙色の大きなシルクシャツのみを羽織った純は、あらゆる感覚を痺れさせるほどの濃厚な色香を放っていた。
風呂から上がったばかりなのか、髪は微かに湿って柔らかくうねり、頬はほんのり上気して薔薇色の潤みを見せる。シャツの裾からは剥き出しの白い脚が真っ直ぐ伸びて、特に太もも辺りの艶めかしさは、見ているだけで舌が蕩けそうだった。
突如として燃え上がった情欲の焔、その熱波で頭が朦朧としてくる。しかしそんな雪仁の情態にも構わず、純は心配そうに眉をたわめて近付き、
「ほら、やっぱり血がにじんでる。枝でこすったんだね。今消毒し―――」
最後まで言い終わらぬうちに、唇を塞がれた。そして抵抗する間もなく舌を絡め取られ、ぬぷぬぷ音をたてて激しく吸われる。呼吸すら許さないほどの激しい吸い上げに意識が霞み始めたころ、ようやく解放された。
「んっ………きひと…く…ん…………」
雪仁は肩を上下させて息を荒げつつ、半ば朦朧とした純を抱き上げてベッドに放り出す。そして間髪入れず上から覆いかぶさって、シャツの裾を捲り上げた。
下着を着用していない生の股間が露わになり、桜色の柔らかい半身が誘うようにふるんと揺れた。太ももを掴んで広げ、その部分に顔を近付けると、甘いフルーツ系の香りが漂って雪仁の食欲をさらに高めた。
薄く滑らかな皮膚に迷わず歯を立てて優しく咀嚼すると、みずみずしい弾力が口全体に伝わって得も言われぬ恍惚を刻み込んだ。
「ふぁ…ぁぁ……ん、んっ…………」
敏感な部分へのもどかしい愛撫に、純は腰をくねらせて悶える。するとそれに連動してシルクのシャツが波打ち、複雑な襞を描いた。
顔を上げた雪仁は、指を巧みに滑らせて股間に刺激を与えながら、
「純さん……そのシャツ、すげえよく似合う……。肌の白さや線の細さが際立つし、身体にまとわり付く感じが色っぽくてたまんねえ………」
「んっ……なにゆって……もぅ、バカぁ…………」
甘えた抗議に口許を緩め、雪仁はさらなる陵辱を与えるためシャツのボタンをひとつ、ふたつと外した。が、何故かぴたりと手を止めて固まってしまった。
「ゆきひと……くん……？」
「………んだよ、これは…………」
純は思わず息を呑んだ。雪仁の視線の先には、首筋に散った紅い咬み痕が。純は慌てて弁解の言葉を探したが、間に合わなかった。雪仁は怒りに顔を歪め、純の肩を力任せに掴み、
「誰だッ、誰がこんなふざけたことしやがったんだ！」
「ち、違うの、雪仁くん、これはっ―――」
「さっき、夕食の時にはこんな痕なかった。ここで付けられたんだな。誰だっ、教えろ！」
掴まれた肩が痛かったけれど、純は何とか起き上がって宥めようとする。しかし雪仁はうるさそうに払い、
「生徒か？ 何組のどいつだ」
「違う！」
「なら教師か？ そうか……例の懇親会とかで………」
「そ、それは………」
雪仁は凶暴な笑みを浮かべ、
「さっきみたいに違うって言わねえんだな。やっぱり教師か。どいつだ、言え！」
「もういいから！ 雪仁くん落ち着いて」
「あんたがよくても俺が我慢できねえんだよ。教えないっつうならいいぜ。一人一人締め上げて吐かせてやる」
物騒なほど静かな声で言い置くと、ベッドから飛び下りた。そして背中を向けて部屋を出ようとする。純も続いてベッドから下り、雪仁にすがり付いた。
「やめなさい！ 雪仁くん」
「うるせえ！ 奴らはまだ宴会場だな。今から―――」
その時、パン、と軽い破裂音が響いた。純が雪仁の頬を張ったのだ。そして厳しい声で、
「もう少し大人になりなさい！」
雪仁は一瞬呆然として純を見つめたが、すぐに我に返った。そして純の肩を突き飛ばし、
「ああそうかい、悪かったな子供で。どうせ俺は、あんたの恋人とは比べ物にならないほど馬鹿なガキだよ」
「違う。僕はそういうことが言いたいんじゃ―――」
「うるせえよ。俺みたいなガキはうんざりなんだろ？ もうあんたに付きまとって煩わせたりしねえから、俺のことも放っておいてくれっ」
語気は荒いが、その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。雪仁はそのままテラスに駆け込み、勢い付けて手摺りを飛び越えた。
純は悲鳴を上げ、手摺りから身を乗り出して下を見た。
「雪仁く―――」
見事に着地した雪仁は、そのまま走ってあっという間に闇に融けていった。
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