Loveless ―狂熱の時間―
9話
「───さん、二階堂さん」
名前を呼ばれながら、ゆらゆらと肩を揺すられた。
「ん、ん……」
覚醒時特有のくすぐったいような浮遊感が身体を包み込み、二階堂はようやく目を開けた。途端に、背中から腰にかけて、重い鉄板を押し付けられたような圧迫感を伴う鈍い痛みに襲われた。
「いってぇ……」
思わず腰に手を当てて呟くと、「そんな姿勢のまま寝たからだよ」と呆れたような口調で返ってきた。どうやらゆうべは、黒崎の未発表作品を読み耽るうちに、そのまま机に突っ伏して眠ってしまったようだ。
二階堂は上半身を起こしてゆっくり伸びをしながら、「無理ができない歳になってきたな」とぼやく。すると珠里は笑いながら、
「まだ三十一でしょ？」
「失敬な。誕生日前だからまだ三十だっ」
「はいはい、失礼しました。でも珍しいね。二階堂さんがあんなに熟睡するなんて。いっつも、僕がちょっと動いただけでぱっと目を覚ますのに」
珠里はそう言ってから、自分の発言に恋人同士にしか通じない艶っぽい含蓄があることに気付いたのか、ぽっと頬を赤らめた。二階堂は目を細め、その色づいた頬を撫でながら、
「昔の……夢を見ていた」
「昔の、夢？」
「ああ。変だな。これまで思い出すことなんてなかったのに……」
言いながらも、二階堂はもちろん分かっていた。昨日の黒崎との再会、そして託された作品。これらが引き金となって生じた亀裂から、過去の記憶が少しずつ溢れ始めていることを。
「昔の夢ってもしかして……黒崎先生の？」
ためらいがちに訊ねる珠里に、二階堂は「なんでそう思うんだ？」と優しく反問した。そして、自分がいつになく慎重になっていることに気付いた。
「だって、パーティーで黒崎先生と久しぶりに再会したんでしょ？ なんか、懐かしそうに話し込んでたし。それに、九条先生が……」
珠里は最後まで言わず、言葉を押し留めるように唇をきゅっと噛み締めた。
「九条？ 九条がどうした」
二階堂が続きを促しても、珠里は力なく首を振るばかり。しかしその頑なな態度が、二階堂にある可能性を気付かせた。
───ははあ、九条に何か吹き込まれたな。俺と黒崎のかつての……
「確かに、ゆうべ黒崎先生に会ったせいかもしれないな。新人のころ世話になった人だから。当時やらかしたとんでもねえミスが次々と夢に出てきて、うなされちまった」
二階堂が何も気付いていない振りを装いつつそう言うと、珠里の表情はわずかに緩んだ。
「へえ。二階堂さんもミスしたんだ」
「当たり前だろ。最初から完璧な人間なんていない。まあ俺の場合、学習のスピードが常人とは比較にならないくらい速いせいで、最初から完璧だと思われがちだけどな」
「はいはい、分かりました。それで今日はこれから出社するんでしょ？ 帰りは何時ごろ？」
「そうだな。今夜は早めに帰る。ご褒美に抱いてやるって約束だしな」
予想通り、珠里はぼぉっと音が聞こえそうなほど紅くなって飛び上がり、
「なっ、なんだよご褒美って！ そんな約束した覚えないっ」
「んじゃ、ご褒美はいらないんだな」
すると珠里は「うっ」と詰まって背中を向けた。しかし扉の手前でぴたりと足を止め、
「……待ってるから早く帰ってきて」
背中越しにぽそりと呟くと、そのままだだだっと走り去った。二階堂は額に手を当て、「くくく…」と押し殺した笑いを漏らす。が、笑いの波が去ると、心は昨夜ぶっ通しで読み耽った黒崎の作品へ自然と向かってゆく。
二階堂はパソコンからディスクを取り出して電源を落とし、風呂場へ向かった。熱めのシャワーを浴びながら、さてどうしたものかと考えを巡らす。尤も、すでに答えは出ていたのだが。
黒崎の未発表作『M氏の告白』は、紛れもない傑作だった。二階堂は全ての黒崎作品を、フランスで出版されたものも翻訳ではなく原書で読んでいる。
だからこそ分かるのだが、この『M氏の告白』はこれまでのどの作品にも似ていない、しかし全ての作品に通ずる黒崎司の精髄が凝縮された、彼の集大成とも言うべき作品だった。
文章も素晴らしく、これが久しぶりに書いた日本語の作品とはとても思えないほどの、結晶めいた完成度を見せている。
さらに、後半に行くほど“語り”の密度が濃くなっており、腹の底を掻き分けて言葉をひとつひとつ引きずり出しているさまが見えるようだ。
これをもし自分の手で校正し、『幻想小説』に掲載することができたらと考えただけで、胸が詰まるような歓喜が湧き上がる。
これを一刻も早く世に出したい。それは、透麻や珠里の作品に出会った時と同じくらい、いやそれ以上に激しく狂おしい衝動だった。編集者歴の長いベテランでも、そう何度も味わえるものではない。
だとしても。
二階堂はぶるっと頭を振るった。そう、すぐに食いつくわけにはいかない。作品を渡す代わりに抱かせろだなんて、正気の沙汰とは思えない。
いや、過去にはそういう恥知らずな“取り引き”をちらつかせてきた作家もいたが、それは人間としても創作者としても三流な輩の話だ。黒崎がそういう連中と同じレベルでものを考えているとは、どうしても思えないのだ。
「なに考えてんだよ、あんたは……」
いずれにせよ、もう一度きちんと真意を質す必要がある。そしてもし、真意が言葉通りであるのなら……。
「ま、しょうがねえな。他にも優秀な編集者はいるし。俺ほどじゃねえけど」
二階堂は口に出して呟くと、くくっと自虐的な笑いを漏らした。潔いのは言葉だけで、内心はそこまで思い切れていないと分かっていたから。
黒崎から作品を預かった三日後。二階堂は都内の水上レストランにいた。そこは黒崎が指定してきた店で、デッキごと借り切ったのか他の客の姿はなかった。黒崎はすでに着席して、水面を眺めながらグラスを傾けていた。
「お待たせしました」
二階堂が声を掛けると、黒崎はちらと一瞥して淡く微笑んだ。目尻の浅い皺は過ぎ去った歳月の証なのかもしれないが、それはむしろ黒崎の人間的な魅力を増幅させる個性のひとつとなっていた。内面の充実がにじんだ微笑、とでも言おうか。
そして何より、年を重ねたとはいってもその身体に衰えの兆候は見られず、七年前と変わらず精悍で雄々しい。彼が脚本を書いた作品に出演した女優たちの多くが、この知性と膂力を兼ね備えた紳士にのぼせ上がったというのも頷けよう。
二階堂が席に着いて食前酒を注文すると、穏やかなしじまが訪れた。時折はらりはらりと、散り残った桜の花びらが川辺から飛来する。
「パリでもよくセーヌ川沿いのレストランを利用している」
黒崎が唐突に口を開いた。二階堂はくすりと笑い、
「観光客だらけでは？」
「いや。場所を選べば落ち着いて食事できる店もある」
「水辺がお好きなのですか？」
「ああ。失恋したらすぐに飛び込むことができるからな」
「またロマンチックなことを」
二階堂が揶揄すると、黒崎は「私は天性のロマンチストなんだよ」と言って笑った。そんな一見無意味な、しかし仄かな含みも感じられる会話を投げ合いつつ、運ばれる料理をゆっくり味わううちに、七年間の空白は溶けて川に流れ、代わりに親密な空気が満ちていった。
しかしだからといって二階堂が雰囲気に呑まれるはずもなく、食事が終わって例の話を切り出した時には、再び作家と編集者の関係に戻っていた。
「先日お預かりした作品ですが、読ませていただきました」
「ん、ああ」
「まずは、あれを一番最初に読ませてくれたことに感謝します」
二階堂の言葉に、黒崎はそっと眉根を寄せ、
「ずいぶん謙虚だな。気味が悪い」
「俺も、四年に一度くらいは謙虚になることがあるんです」
「なるほど。では次は四年後か」
黒崎はそう言って、なぜか切なげに笑った。二階堂はわずかに身を乗り出し、
「今ここで感想や論評を口にする気はありません。その必要もないでしょう。俺がお聞きしたいのはただひとつ。あれを『幻想小説』誌上に掲載させてもらえるのか」
「それは、この前話したはずだが」
「原稿料以外の見返りが条件、というヤツですね」
「そうだ。ボールを投げ返すべきなのは君の方だ」
そう言う黒崎の顔には、冗談やからかい、悪ふざけなどの“不純物”は見当たらなかった。二階堂は改めて真意を質すつもりだったのだが、黒崎の態度からその必要はないことを悟った。
彼は真面目に、作品を託す見返りとして二階堂との関係を求めているのだ。
「……そうですね。分かりました」
二階堂は心を決めた。預かったCD-Rをテーブルの上に置いて、「これはお返しします」と告げる。
黒崎は「ふむ」と落胆とも驚きともつかぬ声を漏らし、キャンドルの明かりに照らされたディスクを白々と眺めた。やがて喉の奥で低い笑いを転がし、
「恋人に操を立てる、か。君らしくもないな」
「またずいぶん古風な言い回しですね。そんなんじゃありませんよ」
「では、何か裏の思惑があると怯えているのか。それも君らしくない」
二階堂は少し考えて、慎重に言葉を繋いだ。
「そう、ですね。何か裏があるとは思っています。でもそれ以前に、私的なものでこの作品を汚したくないという思いがある。ですからどんな思惑があるにせよ、先生が作家と編集者以上のものを俺に求めるのなら身を引きましょう。『幻想小説』以外にも質の高い文芸誌はありますし、他社にも優秀な編集者はいます」
「自分ほどではないが、だろう？」
「とんでもない、と言いたいところですが、四年に一度の謙遜はさっきしてしまったので、その通りですと正直に答えます」
黒崎はグラスに唇を付けたまま薄く笑うと、テーブルの上に置かれたディスクを手に取った。そしてじっと見つめてから「分かった」と呟き、いきなり立ち上がった。
「先生？」
予想外の行動に二階堂も驚きを隠せず、思わず腰を浮かせた。それとは対照的に黒崎は悠然とデッキの端まで行き、柵の向こうに手を伸ばした。
その手は、たった今二階堂が返したディスクを持っている。指を離せば、あっという間に川底に沈む。二階堂は椅子を蹴って立ち上がり、
「何をする気だ」
すると黒崎は肩越しに振り向き、たったひと言「捨てる」と答えた。二階堂は眉をひそめ、
「捨てるとは、一体どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。『M氏の告白』が保存されているのは、このディスク一枚だけ。パソコン上のデータは全て削除したし、他のメディアにもバックアップは取っていない」
二階堂の背中を、冷たい戦慄が駆け上がった。それは紛れもない恐怖だった。傑作が、永遠に失われるかもしれない恐怖。それを抑え込んで駆け寄り、「ふざけるな」と怒りを露わにしたが、黒崎は全く動じることなく、穏やかな川面よりも凪いだ目で見返してきた。
「ふざけてなどいない。最初から、この作品を君以外の人間に託すつもりはなかった。君に断られたのだから、捨てる」
「ま、待ってください！ 誠実で優秀な編集者なら、いくらでも紹介できる。俺が関わらない方が、この作品にとっては───」
「いや。君が関わらないのなら意味がない。さっきも言っただろう？ 失恋したらすぐ飛び込むと」
「なっ……」
二階堂は言葉を失って立ち尽くした。しかし停滞は長く続かなかった。手を伸ばして黒崎からディスクを奪い取り、怒りを隠さず睨めつける。
「勝手すぎるだろ、こんな───」
「作家は自分勝手で我がままで自己中心的な生き物だと、君はよく分かっているはずだが」
「ええ、そうです。よ〜く、分かってます。けれど……」
続く言葉は、深い溜め息に埋もれた。二階堂は力なく首を振り、
「正気の沙汰とは思えない。これを捨てるだなんて」
「たかが、言葉の塊だ」
「あなたの口から、そんな台詞が出るとは思いませんでした」
二階堂は自嘲気味に答えながらも、黒崎の表情をじっと見つめた。黒崎も目を逸らさず真っ直ぐ見返してくる。しかし、その顔から“裏の思惑”を読み取ることはできなかった。
ついに二階堂は、白旗を揚げた。
「……で、俺はどうしたらいいんですか」
すると黒崎は人差し指をすっと上へ向けた。つられて見上げた二階堂は、その時ようやく、自分たちのいるレストランの上階がホテルになっていることに気付いた。二階堂は視線を戻して、
「当然、ロイヤルスイートですよね」
「残念だが、空きがなかった」
「嘘だ」
「ああ、嘘だ。生憎、ロイヤルスイートに連泊できるほどのセレブリティではない。ただのスイートで我慢してくれ、Mon amour」
黒崎はそう言って二階堂の手を取り、その指先に恭しく口づけた。
BACK TOP 裏部屋INDEX NEXT