Girl Simulation
２.
「何とか花火の打ち上げに間に合ったな」
二人は豪奢なロビーにいた。普段は家族連れや比較的年配の夫婦が多いのだが、今日に限っては浴衣姿の若いカップルで賑わっていた。
「そろそろ打ち上げの時間だ。展望レストランへ行こう」
そしてエレベーターホールへ向かおうとしたが、尭村は急に足を止めて前方を睨み、チッと舌打ちした。
「尭村さん、まさか知ってる人が……」
「ああ、でも安心しろ。学校の奴じゃねえから。純…ちょっとそこの、花の陰に隠れてろ」
「わ、分かりました……」
純は言われた通り、背後にある大きな生け花の陰に身を潜めた。それとほぼ同時に、尭村に気付いたらしい先方が声を掛けてきた。
「お、尭村先生のご子息じゃないっすか」
「ああ」
不愉快そうに答える尭村。が、相手はそんな尭村の態度に慣れているのか、気にした様子もなく、卑屈な笑顔を貼り付かせたまま近づいてくる。
「お父上はお元気ですかね」
男は、このホテルのオーナーの息子とは思えぬ低姿勢で、尭村に伺いをたててきた。
そもそも、今日泊まるホテルのオーナーは貴仁の熱烈なファンで、この人気高級ホテルの、しかも花火大会というイベント時に部屋をリザーブすることができたのはそのお陰だったのだ。
貴仁という人間は、いわゆる金余りの好事家、スノッブと呼ばれる人種と付き合うのが異様に巧かった。彼らの前で貴仁は、適度に傲慢で、適度に辛辣で、適度に嫌味な警句を吐く、適度に付き合いにくい芸術家を自己演出した。
そうすることで彼らに、気難しいアーティストと自分は何とかうまく付き合っていけてるのだ、という満足感を与えてやるのだ。貴仁曰く、
『あいつらは精神的マゾなんだよ。俗物めと蔑まれていると分かっていながら、アーティストと呼ばれる傲慢な連中との付き合いを熱望する』
こういう人種が貴仁の作品の価格を吊り上げていることは、言うまでもない。
「ねえねえ徹さぁん、彼、どういう知り合いなの？」
男の両脇にいる、というか侍らせている美女二人が、尭村に粘ついた視線を絡めつつ訊ねる。
「ああ、彼は著名な画家であらせられる尭村貴仁先生のご子息なんだよ。ま、君たちは知らないだろうけどね」
「知らなぁい。でもすごーい、画家の息子さんなんだぁ」
「そう、芸術家の息子なんだよ」
この遣り取りからも分かるように、“徹さん”と呼ばれた男は尭村にいい感情を持っていない。尭村が“有名画家の息子”とか“芸術家のご子息”と強調されるのを嫌っていると知った上で、連呼しているのだ。
男は、自分の父親が大金をはたいて作品を買っているにもかかわらず、貴仁の前でへこへこと頭を下げているのが、そして自分にも同じ態度を強要するのが我慢ならなかった。
何がアーティストだ、あんな訳の分からないお絵描きをとんでもない値段で売りつけて、ただの詐欺じゃないか。
しかし貴仁がその言葉を聞いたら、「おお、その通り。芸術なんて詐欺みたいなもんだ」と返しただろうが。
「成仁君も花火を見にきたんだね。まさか一人じゃないだろ？ 彼女は？」
「今トイレだ」
「そうか。じゃあ出てきたら紹介してくれないかな」
「彼女を紹介するほど、あんたと俺は仲が良かったか？」
尭村の限りなく無礼で冷淡な反応にも笑顔を崩さず、「冷たいなぁ〜」と言って肩を竦めるだけだったが、その声の奥に沈む鉛色の怒りに気付かないほど、尭村は鈍感ではなかった。
その時、背後でざわめきが起こった。複数の男の声に混じって聞こえてくるのは―――
「ね、一人？ 彼氏とはぐれちゃったの？」
「俺が一緒に探してあげるよ」
「け、けっこうです……」
「ほらほら遠慮しないで、ね……」
「君みたいな綺麗な子、一人でいたら危ないよ」
「大丈夫です、ぼく……」
「うわ、“ぼく”だって。可愛い〜」
「い、いや……やめてくださ―――」
尭村は勢い込んで振り向くと、鬼の形相で近づき、
「お前ら何やってんだっ。ひとのオンナに」
「うわっ」
二人の男に両腕を掴まれ、もう一人に前を塞がれていた純は、青い顔でおろおろとしていた。尭村の顔を見た途端、ふっと緊張が緩んだのか、瞳が潤み始める。
「あきむらさん……」
「純、来い」
尭村の剣呑な視線に射すくめられた男たちは、素直に純の腕を離した。そして何度も頭を下げる。
「ったく、ふざけんなよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
もちろん純に対して怒っているわけではないのだが、自分がちゃんとしていないからだと思い込んだ純は、必死に謝った。
「お前が悪いんじゃ―――」
「成仁君、そ、その人が彼女なのか？」
「……ああ」
こうなったら紹介するより他ない。尭村は思い切り不機嫌そうに声を低めて、ひと言
「秋原純だ」
「あ…の、はじめまして」
純はぺこりと頭を下げたが、そのまま俯いて顔を上げようとはしなかった。いや、上げられなかった。
尭村は不機嫌そうに黙ったままだし、紹介された男性はじろじろと自分を眺めている。男だというのがバレたのかもしれない。どうしよう、どうしよう……。
「純、そろそろ行くぞ。始まっちまう」
「あ、はい…」
尭村の促しに応えて顔を上げた時、男と目が合った。ぎらぎらとぬめった瞳。明らかに欲情している瞳。純は思わず震えた。
最上階に着いた二人は、レストランに行く前に、隣にある展望台へ寄った。ちょうど打ち上げが始まった頃で、展望台の照明は全て落としてあり、轟音と共に咲く大輪の花が、漆黒の闇によく映えた。
展望台には、思ったほど人がいなかった。恐らく、花火大会というものは外で人ごみに塗れて楽しむもの、という認識が強いのだろう。こうして涼しい場所から眺めるのは邪道というわけだ。
二人はよく見える窓辺に寄って、周囲にぐるりと渡してある手摺りに並んで身体を凭せて眺めていた。
「ああ……綺麗………」
純がうっとりと呟く。尭村も頷いて、
「すげえよな。火薬の分量とか全部計算して、しかもぶっつけ本番で」
「うん。あ、見て。あの、柳みたいに尾を引いて消えるの、好きだなあ」
「あれは“菊”っていうんだぜ。尾を引かないのが“牡丹”」
純は尭村の横顔をじっと見つめて、
「ずいぶん詳しいんですね。去年も、誰かと一緒に来たとか」
「純？」
尭村は少し驚いたように隣の純を見つめた。すると純はかくん、と首を折って、
「ごめんなさい。僕、今すごく嫌な言い方を……」
そして俯いたまま小さな声で続けた。
「やっぱり変ですよね、こんな、女の子の真似して……僕……」
「純、何言ってんだ。すごくよく似合って―――」
純はふるふると頭を振って、
「嘘つき。だって、尭村さんてば僕のことちっとも見てくれない。他の女の人ばかり見て……」
尭村は何も言い返さず、黙って純の言葉に耳を傾けた。というより、呆れて言葉も出ないというのが正直なところ。
「……さっきだって、ホントは紹介したくなかったんでしょ？ 僕みたいなのが恋人だなんて。男だってバレたら外聞も悪いし………」
だんだん涙声になる純。終には肩を震わせて、
「も……やだ。こんなの脱ぎたい。恥ずかしいよぉ………」
尭村は黙って純の後ろに回ると、背後から震える肩を抱き締めた。そして、
「お前はほんっとに……ああ、呆れて言葉も出ねえよ」
「あきむらさん……？」
「俺が、他の女ばかり見てるって？ お前が恋人で恥ずかしいって？」
「だって……」
尭村は、帯を崩さないようにそっと身体を寄せると、股間を純のヒップ、そのなだらかなラインに押し付けた。
「あ……」
「どうだ？ 純………」
「あ、熱い……熱くて………」
「熱くて？」
耳許でねっとりと聞き返す尭村。純は思わず震える。
「おっきくて固い……」
「だろ？ ずっとこの状態なんだぜ。家を出た時から。お前が煽りまくるから」
「あ、煽ってなんか……」
「煽ってるじゃねえか。艶っぽい浴衣姿。裾から覗く足とか、下着つけてない尻のラインとか、白くて細い項とか―――」
尭村は唇で、項をそっとついばんだ。
「ぁ……ん」
「すげえいい匂いするし」
純はほんの少しむくれて、
「じゃあどうして僕を見てくれないの？ 他の人ばっかり見て」
「通りとかロビーでお前を襲っていいなら、いくらでも見るぜ」
「じゃあじゃあ、さっき後ろに隠れてろってゆったのはっ？」
尭村は、ああ、と幾分低い声で返すと、
「あの男、かなりタチ悪いんだよ。両脇にいた下品な女見ても分かるだろ。お前のこと、嫌な目で見てたしな。だから紹介したくなかった。大事なお前に何かされたら―――」
耳に掛かるふわふわの後れ毛に息を吹きかけて散らすと、耳たぶに優しく歯を立てる。純は腰をぴくん、と震わせて、熱い息を漏らした。
「ぁ……あきむら、さん………んっ」
「純……俺はお前しか見ていない。いいか、たとえ視線を外していても、一緒にいなくても、いつも俺はお前を“見て”いる」
「ん……ぼく、も………」
純は振り向いて尭村の顔を見上げた。その濡れたような漆黒の瞳には、窓の外に咲く色とりどりの花火が映り込んで、ちかちかと輝いている。
―――本物の花火より、綺麗……
この眼は自分だけを見てくれているんだ、そう思うと、嬉しくて切なくて、目頭がつんと熱くなるのを抑えずにはいられなかった。
「わーい、お祭りっ」
暫し展望台でいちゃいちゃした後、その隣のレストランで軽く食事をしてから、二人は再び外に出た。
花火の打ち上げはすでに終わっていたが、会場から続々と引き上げてきた見物客で露店はますます賑わい、お祭りはまだまだ終わりそうにもなかった。
「ほら純、迷子になるぞ」
すっかり元気を取り戻した純は、きょろきょろと露店を見回してはしゃいでいる。尭村は少し乱暴に純の手を取ると、有無を言わせずといった感じでぎゅっと握った。純も、離さないという強い意志を込めて握り返す。
「ほぅら、お兄さんが何でも欲しいもの買ってやるぞ。綿あめかな、お面かな？」
「綿あめーっ」
尭村はからかうつもりで言ったのに、純は気付くどころか嬉しそうに答える。お前は４歳児か……と溜め息混じりに呆れてみせたものの、さっきのように沈んだ表情で俯かれているよりはずっといい。
尭村はよしよし、と頭を撫でると、手を引いてゆっくり歩き始めた。
「あっ、見て、あの綿あめ。すごい色。もしかしていちご味かな」
「うわ、どピンクかよ。身体に悪そうだな」
「こういう所に来て、そんなこと言っちゃだめですって」
「分かった分かった。じゃああの胃までピンクに染まりそうな綿あめを買ってやるよ」
そしてふわふわとした、誰かの妄想のようなピンク色の固まりを純に渡した。純は嬉しそうに受け取ると、舌を小さく突き出してちろ、と舐めた。
「うう、甘い」
「当たり前だろ。砂糖の固まりなんだから」
純はもう一度舐める。舌の上でふわっと融ける香ばしい甘さをうっとりと味わうと、
「いちご味じゃないですけど、でもおいしい。はい、尭村さんも」
指先でちょん、とちぎって尭村の口許へ。
「うう…甘え」
「当たり前です。砂糖の固まりなんだから……って、やぁ………も」
調子に乗って指までぺろぺろ舐める尭村。周囲からは「いちゃいちゃしやがって」という低い呟きや、派手な舌打ちが聞こえてくる。
尭村は満足そうに笑った。さっきからずっと、複数の男らが純の後に付いてきているのだ。そいつらにちゃんと見せつけてやらねばならない。この紫陽花姫は一分の隙もなく、自分のものなのだと。
「純もほら、食えよ」
尭村も同じようにちぎって純の口へ。一瞬恥ずかしそうに躊躇したものの、素直に従って、尭村の指には似合わないピンクのふわふわに唇をつけた。そして指先にちゅっと吸い付く。尭村は、この甘さを染み込ませるように純の唇を指でなぞる。
「尭村さぁん……甘い………」
「そうか、そんなに甘いか。どれ」
顔を近づけると、綿菓子のようにピンク色で、綿菓子よりふわふわの唇に吸い付いた。周囲で息を呑むのが伝わってくる。純も驚いたが、すぐに目を閉じてうっとりと受け入れた。その表情の艶やかなこと。思わず舌を深く挿し込みそうになったが、さすがにそれはやめておいた。
名残りを惜しむようにゆっくりと唇を離すと、
「お姫さまの唇の方がずっと甘いな」
お前の台詞が一番甘いんだよっ、という突っ込みは、残念ながらどこからも聞こえてこなかった。
「ちっ、見せつけやがって」
「ああ。あの野郎、俺らが見てんの分かっててわざとやってんだぜ。ムカつく」
「にしてもさぁ、ホントに綺麗だよな、あの子」
「何とかなんねえかなあ」
綿菓子よりピンクなオーラを振りまいていちゃついている二人を、遠巻きに眺めている４人の男たちがいた。
彼らはナンパ目的で来たものの、着いてみれば周りはカップルばっかり。諦めて帰ろうかと言っていたところ、ふとすれ違った純の美貌に目を奪われて、その後をふらふらと付いてきたというわけだ。
そして声を掛けることもできず、潔く振り切って帰ることもできず、うだうだと傍にいる彼氏らしき男の悪口などを言い合っていた。その時、
「ねえねえ、君たち、ちょっと」
背後から声を掛けられ、４人は同時に振り向いた。そこには、卑屈な笑顔を浮かべた一人の男が。先刻、尭村に軽くあしらわれたホテルオーナーの息子だ。
もちろん男たちはそんなこと知るはずもない。ただ、今のみっともない会話を聞かれたのではと、狼狽も露わに睨み返した。
「な、なんだよ」
「君たちにちょっと頼みがあるんだ。悪い話じゃないよ」
そして男は勝手に話を始めた。
「君たちが見てたの、あの二人だろ？ 俺さ、あの男の方にムカついてるんだよね。だから君たちで、ちょっと懲らしめてやってもらいたいんだ。もちろんタダでとは言わないよ」
男はポケットから無造作に数枚の紙幣を取り出すと、４人のうち最も凶暴そうな男に渡した。
「これ前金ね。で、このカメラを貸すから、あの男がボコボコにされた姿を撮ってきてよ。そしたら成功報酬で、これと同じ額だけあげるからさ」
４人は顔を見合わせて「どうする？」と互いの思惑を探り合った。そのうちの一人が、
「おい、女の方はどうすりゃいいわけ？」
「ああ、ヤれるならヤっちゃって。で、ソノ時のいい写真が撮れたら、報酬はさらにアップ。どう？」
「いいねぇ。やろうぜ。なあ？」
女をヤっていいと言われたことが、彼らの心を動かした。４人はニヤリと笑うと、カメラを受け取った。
「ああ、もうこんな時間か。ちょっと公園の方をぶらぶらして、ホテルに戻ろうぜ」
「はぁい」
指を絡めて歩く二人の後を、複数の影が追っていった。
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