１.

尭村は、初めて衝動買いという経験をした。

学校帰りに寄った中古レコード屋の隣に、知らぬ間にできていた小さなアクセサリーショップ。そのショーウインドウに楚々と飾られていたかんざし。それに目を奪われたのだ。

理由は明々白々。そのかんざしの色、深く神秘的な紫色が、彼の最愛の人の瞳を連想させたから。

尭村は誘われるように店の中に入り、その繊細な髪飾りを手に取って眺めた。紫陽花をモチーフにした細やかな作りで、細い鎖の先に付いた水色の小さな石がちらちらと揺れて、店内の照明を跳ね返している。

「それは、雨の雫なんです」

突然声を掛けられたにもかかわらず不快感を覚えなかったのは、彼女のしっとりと落ち着いた声調のせいだろう。この小さな店の唯一の店員である女性は、嫌味でない程度の自然な微笑みを浮かべて尭村に近寄ってきた。

「ああ、紫陽花に雨か。なるほど」

尭村も思わず、素直に応じてしまう。改めて、手の中の小さな紫陽花を眺める。紫色の花弁が幾つも寄り添って、上品な輝きを湛えていた。

「その紫陽花は、ガラスビーズではなくて紫水晶なんですよ。天然のものだから、色が少し不揃いなんです。でも、」

女性は淡く笑い、

「紫陽花だって自然のものなのだから、それでいいんです」
「そうだな」

尭村は、これは髪に飾るものだということは分かるものの、細かい使い方は知らなかった。しかし、純の柔らかくうねる髪によく似合うだろうということは、容易に想像がつく。

「じゃあ、これを」

結局、純がかんざしをするというシチュエーションが思い浮かばないまま、それを買うことにした。

「贈り物用にお包みしますか？」
「いや…適当でいい」

女性は軽く頷いたが、薄紫の染絣の小さな巾着袋に入れてくれた。そして、

「あなたのような素敵な男性にプレゼントしてもらえるなんて、幸せな彼女ね」
「彼女じゃない、男だ」
「え……」
「それじゃ」

始終大人びた微笑を崩さなかった彼女が、ぽかんと口を開けて見送る様子が、堪らなく可笑しかった。




それから２週間が経った。その間かんざしは巾着に入ったまま、尭村のデスクの引き出しに眠っていた。もちろん存在を忘れてしまったわけではないが、渡すきっかけも口実も見い出せなかったから、仕舞ったままにしておいたのだ。

しかし、思いがけずそれが日の目を見る機会がやってきた。そろそろ梅雨明け宣言が出されるかな、という頃、桐生朱音が再び尭村家を訪れたのだ。

「あらぁ、また貴仁は留守なの。ま、今日はいなくてもいいんだけどね」
「何しに来たんだよ」
「えーえー、今日は用事を済ませたらさっさと帰りますからご安心を。これをね、どうかなと思って」

朱音は大きな風呂敷包みを取り出した。これほど風呂敷が似合わない女性も珍しい。結び目を解くと、中から現れたのは……

「なんだ、これ……」
「見りゃ分かるでしょ。浴衣よ浴衣。知り合いの染物作家から頂いたんだけど、色といい柄といい、大人の色香にじみ出る私には似合わないというか、役不足というか」
「確かにこの柄じゃ、着てる人間の老化ぶりを目立たせるだけだな。賢明な判断だ。さすが年の功」

朱音は黙って、解いた風呂敷を包み直そうとした。

「悪かった、悪かった。ちゃんと見せてくれ」

こっくりとした紫に淡い藤色の花をあしらった浴衣。ただの小花模様かと思ったら、それは紫陽花だった。

「どう？　綺麗でしょ。まあ私が着こなせないこともないんだけど、ちょっと可愛い過ぎるかなあと思って」
「確かに、般若とか昇り龍の方が似合うだろうな」
「そうそう、白地に黒の昇り龍で、お命いただきます、って……こら」

朱音のノリ突っ込みは無視して、尭村はその浴衣に見入った。でも、何故彼女がこれを持ってきたのか分からない。

「で、これを男所帯の我が家に持ってきてどうするつもりなんだよ」
「ま、着たかったらあんたが着てもいいんだけどね。私としては、純くんにどうかなあって思って」

言われてすぐ、純がこれを着た姿を想像してみた。きっと、真っ白な肌に深い紫が映えるだろう。女物の浴衣を着せられて、恥ずかしさの余り耳たぶとか頬を紅く染めて、上目遣いでちらとこちらの反応を窺う―――

「成仁、そのいやらしい顔直さないとこれあげない」
「う、うるせ。生まれつきだっ」

朱音は溜め息をついて、

「はー、いやらしい顔は認めるのね。ある意味潔いわ。でね、調子に乗って帯とか下駄とか買ってきたから、これもまとめて純くんにあげるわ」
「わざわざ買ったのか」
「そうよぅ、めっちゃ楽しかったわ。ほら、うちは男の子しかいないから、こういう機会はなかなかないし。自分のものを買うのとはまた違った楽しみがあって」

言いながら朱音は、淡い桜色の帯や、紫の鼻緒が美しい下駄や巾着などを嬉々として取り出してきた。

―――純も男なんだけどな

半ば呆れたように呟いたものの、尭村には朱音の気持ちがよく解った。何せ自分も、かんざしなどというものを買ってしまったのだから。

「ねえねえ、これ着た純くんの写真、絶対送ってよ」
「分かった分かった」

尭村はほとんど上の空で答えた。その時彼が考えていたのは、浴衣ってどうやって脱がせればいいんだろう、ということだった。




浴衣、花火大会、高級ホテル――この３つが揃って、浮かれない人間がいるだろうか。尭村は一人そわそわと、純が部屋から出てくるのを待っていた。

「額賀ぁ、まだか？」
「成仁様、急かさないでください。もうすぐですから」

早く見たいと苛つきながらも、こうして待たされる時間も悪くないなと思ってしまう。幕が上がる前の、心地よい緊張感、期待感。

「さあできましたよ、秋原様、どうぞ」
「はい……」

想像通り、恥ずかしそうに俯いて出てきた純。その瞬間、無機質で色彩に乏しい尭村家のリビングに、艶やかな花が咲いた。

「……れいだ」

喜びと感動で声が震える。尭村はからからに乾いた喉の奥で、綺麗だ、と繰り返した。

果実のように深い紫色は、思った通り白皙の肌によく映えた。地の色はシックで大人びているものの、楚々と流れるように散らされた薄紫の紫陽花と、モーヴピンクの半幅帯に控え目に描かれた撫子の花が、愛らしさを添えている。

「純…ゆっくり回ってみてくれ」

純は言われた通り、足を小幅に動かしながら一周してみせた。そして再び尭村の方を向いて、「おかしくないですか？」とおそるおそる訊いてきた。尭村はふっと口許を緩めて近づき、仄かに上気した頬を掌で撫でると、

「綺麗だ」

簡潔にして深長な言葉を返した。そして無言のまま、艶やかな紫陽花姫を矯めつ眇めつ眺める。

襟を少し抜いたからだろうか、鎖骨の窪みや白い項が匂いたつような艶かしさを漂わせて、尭村の目を釘付けにする。髪をアップにしているせいで、柔らかな耳たぶや襟足の産毛など、普段は余り見えない部分が晒されている。そして帯の下、ヒップのラインも緩やかに美しく、思わず指でなぞりたい欲望に駆られた。

「尭村さん、これ……」

純は自分の頭を指すと、はにかむように微笑んだ。

「ああ、よく似合う」

紫陽花のかんざし。無造作に結い上げて留めたそれは、純の柔らかな髪の漣（さざなみ）に埋もれて、時折ちかちかと瞬いた。

「薄化粧を施して差し上げようかと思ったのですが、逆に秋原様のお美しさを損なうのではと思いまして」

尭村の静かな感動を乱さないよう、額賀は低い声で告げた。

「ああ、それは賢明な判断だったな。花に口紅を塗りたくる馬鹿はいない」

それから暫くの間、尭村は純の可憐にして妖艶な立ち姿を堪能していたが、

「そろそろ行かねえと、花火大会に間に合わない」
「お車の用意はできておりますよ。さあ」
「分かった。純、行こう」

尭村は純の腰にそっと手を添えて、優しく促した。いつもとは少し違う、紳士的なエスコートぶりに、純は嬉しいようなくすぐったいような疼きを覚えた。




尭村が「花火大会へ行こう」と言い出したのは、一昨日のことだった。「せっかくだから一泊してこようぜ」と言われた時、そういえば外でお泊りするの初めてだなあと気付いた純は、そんなことで浮き立ってしまう自分が恥ずかしくて、頬を赤らめて小さく頷いた。

「なぁに想像してんだぁ？」

尭村はそんな純を、にやにや笑いながら小突く。いつもなら、「何も想像なんかしてませんっ」と膨れて言い返すのだが、今回に限っては素直に打ち明けた。

「外でお泊りするの初めてだなぁ、って。ちょっとかんどーしたんです」

そう言ってもじもじしながら笑う純の、傍若無人とも言いたくなるほどの可愛さに一発ノックアウトを食らった尭村は、花火大会計画の詳細を話すのも忘れて目の前のほんのり色めいた獲物に飛びつき、そのまま純が帰る時間まで貪り続けたのだった。

だから純は、浴衣を着ることも、どこの花火大会に行くのかも知らぬまま、今日尭村家を訪れたのだった。


「あの…尭村さん、このカッコ誰かに見られたら、ちょっと恥ずかしい……」

今さらという気がしなくもないが、純は車の中で本心をそうっと伝えた。

「ああ、大丈夫だ。知ってる奴には会わねえよ。Ｙ海浜公園っつって、ここから車で１時間半くらいかかる所の花火大会だからな。心配するな」
「そうなんですか……」

それでも純は不安だった。女物の、華やかな紫陽花柄の浴衣というのが気になっていた。お化粧をして特に女装しているわけでもないし、おかしな目で見られるかもしれない。そしたら、一緒にいる尭村さんまでも……

「純、どうした？」
「あ、いえ…。なんか慣れなくて、この帯とか。それに……」

そう言いながら、腰をもぞもぞとくねらせる純。ほんの一瞬だったが、裾が乱れて白い脚が垣間見えた。尭村は思わず目を逸らす。いつも好きなように弄び、舌を這わせ、紅い花を咲かせて眺め入ってるというのに、何故か見てはいけない部分を覗いてしまったような甘美な罪悪感に囚われたのだ。

―――やばいな…花火終わるまでもつかな……

不穏な熱を帯びた血液がある一点に凝集するのを自覚しつつ、尭村は外を流れる景色に意識を集中しようとした。その隣で、愛しい恋人が全く見当外れの不安を募らせているのにも気付かずに。




「成仁様、ここから車は通行止めのようですので」
「ああ、分かった。荷物を頼む。純、ここから会場まで歩いて行こう」

車を降りた二人は、様々な露店が軒を連ねる中をぶらぶらと歩いて目的の会場に向かった。

「うわぁ、お店がいっぱい。お祭りみたいですね」

純は瞳をきらめかせて、きょろきょろとしている。

「後でゆっくり見よう。まずはホテルだ」

別に疚しい目的があってホテルに向かっているわけではない。展望レストランで、食事をしながら花火を見ようというわけだ。

「純、どうしたんだ？」

慣れない下駄のせいだろうか、何だか純の歩き方がおかしい。しかも頬をほんのり染めている。

「いえ、あの……なんかすーすーして変な感じで。下着をつけてないと―――」
「なにっ」

尭村の大袈裟な反応に、さらに頬を紅潮させて、

「額賀さんが、浴衣の時にはティ、ティーバックか下着をつけないか、どちらかでないとラインが乱れるから、って……」

尭村は思わず喉を鳴らした。ということは、このヒップの緩やかなラインは生のまんまの形というわけで……。

―――額賀、お前やってくれたな。いや、いい仕事してくれたとは思うが……

尭村は思わず額を拭った。そして花火が終わるまではなるべく純の方を見ないようにしようと思った。花火を見た後ホテルの部屋で存分に眺められるわけだし、そのあとならナニがどうなっても構わないのだから。


ホテルまでの道はすでにけっこうな人出で、尭村は自分の歩調に合わせてくれてはいるものの、人ごみを掻き分けて歩くのが苦手な純は何度も人にぶつかりそうになったりよろけそうになった。

そのたびに尭村が腕を差し出して助けてはくれるのだが、すぐにぱっと手を離してしまう。純は、繋いだ手が離れるたびに、言い知れぬ淋しさに襲われて、そんな自分の女々しさを叱咤した。

尭村と二人で出かけるといつも感じるのは、彼に集まる視線の多さ、熱さ。当人は気付いているのかいないのか、それとも麻痺してしまっているのか、ともかく平然と流しているのだが、純はずっとハラハラし通しだった。

純が店を覗いたりちょっとよそ見をしている間に、尭村が女性に声を掛けられるということも度々あり、その時はいつも物陰に隠れて、断られた女性が去っていくまで待っていた。そして何も見ていない、知らない風を装って笑顔で戻るのだ。「ごめんね、ちょっとお店覗いてた」と弁解しながら。

今ももちろんそうだった。色とりどりの華やかな浴衣で装った女性が、傍に恋人がいるのも構わず尭村に意味深な視線を送りつけている。

見ないで見ないで、この人は僕のなんだから！―――胸の奥では勇ましく叫びながらも、実際は俯いたままとぼとぼと歩くだけ。
着慣れない浴衣、履き慣れない下駄。こんなもので女の子の真似をしている自分が、何だか惨めに思えてきた。

―――尭村さん、ホントに変じゃない？

純は不安の余り、すがるように尭村を見上げた。が、目が合った途端尭村はすっと視線を逸らして、純の頭越しに遠くを見つめた。

「あ……」

他の女の人を見てるんだ、と分かった。さっき綺麗だと言ってくれたのは、不安げな自分を安心させるためだったのだろう。ちょっとでも浮かれた自分が馬鹿みたいだった。

―――早く、帰りたい……

もう、花火なんてどうでもよくなっていた。

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