２.
「え、ええっ、きょ、今日お見えになるのかっ？」
「ああ。そんなこと言ってた」
「そ、そうか。それは有り難いな……」
岡田は謝意を告げると、慌てて部室へ向かった。まさかこんなに早く、しかもあちらから出向いていただけるとは。早く候補作の整理をして、お迎えする準備をしなくてはっ。
岡田は部室で作品を並べながら、
―――取り越し苦労だったかな。いい方じゃないか。あの尭村の父親とはいえ、画壇に名を馳せる立派なお方なんだからな
自分の独り言にうんうんと頷いて、悦に入った笑みを漏らした。
「ええっと、美術部の部室に行きゃあいいんだよな」
貴仁はきょろきょろしながら、校舎内を歩いていた。中等部へは三者面談で一度行ったことがあったが、高等部は初めてだった。
「おおっ、女子高生がたくさんいるなあ」
それは当たり前。だが、貴仁が思わずそう呟いたのには訳がある。周りに、続々と女子生徒が集まり始めていたのだ。
まさか尭村の父親とは思っていないだろうが、とにかくすっごくかっこいい人が歩いてる、ということで群がってきたようだ。
その時、背後から聞き慣れた可愛い声が。
「あっ、せんせーい」
振り向いて確かめなくても分かる。
「純っ。おおっ、３日ぶりじゃねえか。暫く見ない間にまた綺麗になったなあ」
純はくすぐったそうに笑って、
「どうしたんですか？ こんなところで」
「ちょっとしたお勤めがあってな」
彼が“お勤め”と言うと、何か別の意味に聞こえてしまう。純も不思議そうに首を傾げる。
「絵のなんとかコンクールで、区代表を選考して欲しいんだとさ」
「わあ、すごい。先生が選ぶんだあ。楽しみです」
「ん、そうかそうか」
ちなみにこの会話の最中、貴仁はずっと純の頬とか耳とかお尻とかを触りまくっていた。貴仁のこういった行為にすっかり慣れてしまった純は、触られるがままでにこにこ笑っている。
「純、誰だ、この人は」
険しい声で会話に割り込んできたのは秀だ。その隣では、好奇心丸出しの顔で直が見つめている。純は愉快そうに肩を竦めて、
「顔を見て分からない？ ふふっ、尭村先生だよ。そう、尭村さんのお父さん」
「えっ、ええっ、ええぇーーーっ」
沖兄弟はもちろん、周囲を取り巻いていた女子生徒たちも驚愕の叫びを漏らした。直などは、そう言われれば似てるけどぉ……と言って絶句した。余りに若いということだろう。実年齢も若いのだが、それ以上に若く見えるのだから驚きも当然で。
驚かれるのに慣れている貴仁は気にした様子もなく、沖兄弟を面白そうに眺めると、飄々とした口調で、
「うちのクソガキが迷惑かけてんじゃねえのか？ お前ら、しっかりしてそうだもんなあ。……双子か？」
直も秀も思わず目を瞠った。幼い頃ならともかく、今はなるべく似ないように努力している。その甲斐あってか、彼らを双子だと見抜く人はほとんど皆無だったのだ。純も驚いた様子で、
「すごい、先生。よく分かりましたね」
「んあ？ まあな。これでも人を見る目はあるんだぜぇ」
そう言うと、秀をじっと見つめてにやりと笑い、
「お前、がんばれよ」
謎の激励を残して、ついでに純の額にちゅっとキスをして去っていった。思いっ切り苦々しい秀の表情が、直には面白くてならなかった。
―――その１時間前
蒼星学院高等学校、生徒会長鮫島由希親衛隊分室では、怒りの雄叫びで沸き返っていた。
「本当なのか、それっ。そいつのせいで鮫島会長は……」
「ああ、そうだ。そのせいであの愛くるしい笑顔が憂いに沈んで、わが蒼星学院から輝きが失せてしまったんだ―――」
「くっっそぉ……許せねえっ」
「ともかくそいつをもう一回引きずり出して、会長の前で非を認めさせるんだっ」
「そして笑顔を取り戻すっ」
「よし、行くぞ。蒼薇へっ」
「美術部の部室ですか？ あの…よろしければ私がご案内しますけれど」
「そうか？ 悪いな。頼む」
貴仁に声を掛けられた女子生徒は、目を潤ませてうっとりと見上げた。そして「こちらです」と言って付いて来るよう促した。
部室は、校舎とは別にクラブハウスとして独立しており、文科系と体育系に分かれて中庭を挟むように建っていた。女子生徒は中庭まで来ると、別れるのが名残り惜しいのか立ち止まって、
「あのぅ、卒業生の方ですか？ 美術部のＯＢとか」
「俺か？ いや、違う。父兄だ」
「え……父兄って……うそ……っ」
「嘘ついてどうすんだよ。２年に、尭村成仁っつう阿呆がいねえか？ 俺はそいつの―――」
「あ、尭村くんのっっ？」
「尭村だって？！」
突然、学ラン姿のいかつい男５人が中庭に現れて、貴仁を取り囲んだ。いかにも威嚇するような低い声で、
「てめえ、尭村か？」
「あ？ ああ、そうだ。俺は尭村だが」
いきなり“てめえ”呼ばわりされて、貴仁の鳩尾の辺りに黒点が灯る。が、もちろん面てには一切出さない。
「なんだ、お前ら？ 恥ずかしいくらいレトロなオーラを放出してるな。絶滅寸前体育会系の応援団か？ それとも何かのコスプレか？」
「こぉんのぉ……バカにしやがって………」
今にも飛び掛らんばかりに身体を前傾させて、歯をがちがちと鳴らす。しかし、比較的理知的な顔をした男が前に出て、押さえる。
「待て。まずは伝えるべきことを伝えてからだ。尭村よ、俺たちは蒼星学院の生徒だ。お前が先日、我が生徒会長に吐いた暴言と、傲慢極まる態度への抗議をしに来た。お前が心を入れ替えて、鮫島会長に謝罪をし、あの方の申し出を快く受け入れるというのなら、我々は何もしない。しかし―――」
「うるせえな。訳わかんねえんだよ。誰だよ、生徒会長って」
言いながら貴仁は、あのガキ、また何かしょーもねえことやらかしたな、と腹の底で毒づいた。
「貴様……それが答えか？」
「その通り、それが俺様の答えだ、……って、アホくさ。ほんっとにお前ら古臭えな。どうせ生徒会長の親衛隊とか言うんだろ？ 今どきなあ……恥ずかしくねえか？ マジで」
「……話し合う余地はなさそうだな。では、ちょっと痛い目に遭ってもらおう」
それを合図に、男たちが飛び掛ってきた。
「何だか分かんねえけど、これも親父の勤めか。やれやれ」
溜め息をつきながらも、男たちの力任せのむちゃくちゃな攻撃をさらりと躱して、一人一人の急所に的確に、重い拳を打ち込んでいく。
貴仁にはすぐ分かった。こいつら、ケンカしたことねえな。今のうちに少し痛い目見といた方がいいぜ。
「きゃあっ、ちょ、ちょっとやめてよっ。その人は違うんだってっ」
貴仁を案内してきた女子生徒は、何とか人違いだということを分からせようと声を張り上げるが、もちろん誰も聞く耳を持たない。というよりも、貴仁の強さに翻弄されてそれどころじゃない、と言うべきか。
「ど、どうしよう……そうだっ、日向会長に………」
女子生徒はあたふたとその場を離れて、日向に知らせに行った。
「うわっ、なんだあれっ？」
「ケンカだっ。蒼星の生徒じゃねーの？ あの学ラン……」
「ホントだ……で、あの一人混じってる私服は……？」
クラブハウスにいる生徒たちが、中庭の異変に気付き始めた。窓から眺めたり、おそるおそる中庭に出てくる者もいる。
「ケンカ、っつうか、何か学ランが一方的にやられてる感じ……」
「あれ？ あの私服、どっかで見たことあるようなないような……うちの生徒……だよなあ」
その時、クラブハウスにいた岡田が飛び出してきた。
「こらぁっ、お前ら、何やってんだっ」
と同時に、日向も駆け付ける。
「何ですか、これはっ」
で、ついでに尭村も。
「何やってんだっ、親父っ」
―――えっ………？
たった一人を除いて、その場にいた全員が硬直する。貴仁はにやりと笑って、
「よお、成仁。何だか分かんねえけど、取り敢えず売られたもんは買っといたぜ」
その足許には、腹を押さえて呻いたり、鼻血を垂らしてぜいぜい言ってる学ランの男たち。岡田はおそるおそる近寄り、
「ま、まさかあなたが……」
「あっ、尭村せんせーい！」
「おお、純っ」
騒ぎを聞きつけたらしく、純が駆け寄ってきた。真っ青な顔で、
「尭村せんせいっ、だ、大丈夫ですか？ 手は、大事な手、怪我したらたいへん―――」
貴仁は思わず純を抱き締め、
「ああ、お前はやっぱり可愛い。そういう心配してくれるのはお前だけだ。愛しているよ、純―――」
「触んじゃねえっ、このクソエロ親父っ。何が愛してるだ、ふざけんなっ」
「うう、痛え。ここ怪我しちまったみたいだ。血が滲んでる。純、舐めて消毒してくれるか？」
「あ、はい……んと……」
「やめろっっ。俺が舐めるっ」
「気持ち悪いんだよっ。何で息子に舐められなきゃならねえんだっ」
「うるせえっ、いっくらでも舐めまくってやるっ」
「お前はいっつも舐めてもらってんだろうがっ。たまには親に花を持たせろっ」
「純を舐めるのも純が舐めるのも俺だけだっ」
「誰が決めたんだよそん―――――」
「お止めなさいっ！！」
親子の阿呆な争いを断ち切ったのは、髪を逆立てた日向の鋭い叱責。その剣幕に、野次馬たちは凍りつく。
―――う、うわ、日向会長が怒ってる……初めて見た………
「あなたたちは……舐めるとか舐めないとか、そんな下品なことをよくもまあ大声で……。可哀想に、純が羞恥の余り縮こまっているじゃありませんか」
見れば純は、日向の背中にぎゅっとしがみついて、耳たぶまで真っ赤にして怨めしそうにこちらを窺っている。
「うるせえ、日向。変態のくせにえらそうなこと言うな」
「そうだ、ヘタレ生徒会長。てめえだって舐めてもらいたいくせに」
日向は、怒りの表現の限界を超えてしまったのか、口を歪めてふ、ふ、ふ……と笑い出した。
―――う、うわ、日向会長が壊れた……初めて見た………
その時、足許でのびていた一人の男が起き上がり、
「く、くそ……お前ら、どっちが尭村なんだよ………」
「だからどっちも尭村なんだって」
「そうか、きょ、兄弟か……」
「いんや、親子だ」
「う……なんてクレイジーな親父だ」
「おお、よく言われる。ところでな、お前らさっき言ってたよな。こいつが生徒会長に暴言吐いたとかなんとか。その抗議に来たんだろ？ ちゃんと本人に言ったらどうだ」
今さら、という気がしなくもないが、貴仁としては筋を通してやろうと考えたのだろう。しかし、
「その必要はないよ」
鮫島本人が、人の輪を掻き分けて現れた。
「日向くん、どうも。うちのバカ連中がごめんねー。言っとくけど僕が頼んだわけじゃないからね」
「分かってますよ。それよりこちらも謝らなければ。先日、うちの某生徒が大変失礼なことをしてしまったようで」
日向はにっこり笑って答えると、もの凄い眼で尭村を睨みつけた。どれだけ苦労して二校間の平和を保っているか、あなたに分かりますかっ―――しかし尭村はしらんふり。
「うん、そのことなんだけど……もしかして、日向くんの後ろにいる子が………」
「そうですよ。うちの姫です」
「うちの、じゃない。俺のだ」
尭村の訂正は思いっ切り無視して、日向は優しく純を促す。
「ほら純、前に出て。こちらは蒼星学院の生徒会長です」
「あ……はじめまして。あの、秋原純と申します」
純はおずおずと前に出ると、ぺこりと頭を下げた。鮫島は、そんな蒼薇一の姫の淑やかな態度に軽い驚きを覚えつつ、値踏みするような眼でじっと見つめた。やがて深い溜め息をつき、
「分かった。僕が何とかするよ。ごめんね。これまでうちの生徒がうるさく付きまとったりして。ただ、その代わり……」
鮫島はくるっと振り返ると、貴仁に近づいて胸にそっと手を置き、
「ねぇねぇ…僕と、付き合ってくれませんか？ あなた…すごくかっこいい……」
日向は思わず額を押さえた。この人は、これさえなければ完璧な生徒会長なのに―――
鳶色の大きな瞳を潤ませてうっとりと自分を見上げる美少年に、貴仁が返した言葉は、
「悪い。俺、男には興味ねえんだ」
そして胸の手をさりげなく払うと、まだ足許にのびている男たちをまたいで純に近寄り、その腕を掴んでぎゅっと抱き締めた。
「なあなあ純、俺、成仁の代わりに襲われたんだぜ。労わって欲しいなあ。一緒に帰ろうぜ。それで改めて、じっくりねっとり傷の手当てを―――」
「手当てならうちの保健医に頼めっ。純から離れろっ」
「ああ痛い、痛い。僕、もう絵が描けないかもしれなぁい」
「誰が僕、だよ、って、ああぁ〜っ、ケツさわんなっ」
「あ、あのぅ〜、尭村せんせい、絵の選考はもう終わったんですか？」
「あっ」
何をしに来たのか、ようやく思い出した貴仁。
「尭村先生〜、まさかお忘れでは……」
見れば、岡田はほとんど泣き出さんばかりの表情で立ち尽くし、縋るような目で貴仁を見上げている。
「わ、悪い悪い。忘れたわけじゃねえんだ。だからそんな死にそうな顔すんなよ。じゃあな、純。手当てはまた今度ゆっくりと」
さすがに少し慌てた様子でそう言うと、純の頬に音をたててキスをして、半泣きの岡田を引きずりながら大股で去っていった。
後に残されたのは、呆然自失の野次馬たちと、こめかみに物騒な青筋をたててわなわなと震える鮫島生徒会長。尭村をぎっと睨みつけ、
「し、信じらんない……一度ならず二度までも……ねえ、ちょっとっ、君に兄弟とかいないのっ？」
「あ？ 兄がいるぜ。ずっとドイツ暮らしだが」
「じゃあ、日本に帰ってきたらすぐ僕に知らせて。ぜぇっったいに落としてやるっっ」
ヒステリックに叫ぶと、親衛隊を足で蹴り起こして「帰るよっ」と一喝し、憤然とした歩みでどかどかと帰っていった。
―――尭村さんってお兄さんがいるの？ ひえ〜
初めて知ったこの事実が、純には何よりも驚きだった。ということは、尭村先生が幾つの時の子供なんだろう………。
「皆さん、どうやら騒ぎは収まったようです。さあさあ、部活のある人は戻って。純も、もう遅いですから帰った方がいいですよ。ただ……」
表情は変えずとも、声だけは地を這うがごとく。
「尭村だけは残ってください。あなたにはお話ししたいことがたーくさんあるので。いいですねっ」
「なっ、なんだよ、俺は―――」
日向の迫力に気圧されて、珍しくうろたえる尭村。純も「それじゃあ、ごゆっくり」と冷たい言葉を残して帰ってしまった。
その後どんな話し合いが持たれたのか、知る者はいない。
ちなみにその翌日、尭村は女子生徒から手紙＆プレゼント攻めに遭った。全て「お父さんに渡してね」という注文付きで。
「成仁の母親になって、もう一度教育し直すっていうのもアリかも」という澤崎の言葉にも、地を這う低音で「ふざけんな」と返すのが精一杯。告白の仲介を頼まれるなんて初めての尭村は、取り敢えず受け取ったパステルカラーの品々を前に、一人途方に暮れるばかりだった。（Fin）
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