Amazing Christmas
2.
同じ夜、純は部屋の明かりもつけず、ベッドの上にぽつんと座り込んでいた。気を抜くと、目の縁にわあっと涙が溢れてしまう。それを慌てて拭っては、時折携帯電話を恨めしげに見つめる、その繰り返しだった。
クリスマスの思い出を訊ねた尭村に、他意がなかったのは分かっている。それでも純の心は悲鳴を上げた。普段は努めて頭の隅に追いやって、蓋をしている爛れた記憶。それは外に出て純の心を支配する機会を、今でも虎視眈々と窺っているのだ。
純はあらためて、自分は過去を少しも克服できていないのだと思い知った。今回のように、ちょっとしたことで容易に記憶が溢れ、自己制御が不可能になってしまうのだ。
「尭村さん……こんな僕でいいの？」
窓から射し込む月明かりでできた蒼い影に向かって、そっと訊ねる。いつか、同じ問いをきちんと尭村に向かって差し出さねばならない時が来るだろう。その時、どんな答えが返ってくるのだろうか……
「ああ、お前がいい。お前でなくては駄目だ」
純の生涯で、これほど驚いたことがあるだろうか。答えを期待していなかった問いに背後から返ってきたのは、紛れもなく尭村の声だった。驚きの余りぎくしゃくした動きで振り返った純の目に映ったのは―――
「尭村……さん？」
疑問形になってしまったのには、理由がある。いつの間にか部屋の中に立っていたこと。そしてもう一つ、明らかに“現在の”尭村ではないことだ。
「尭村さん……なの？」
「ああ。ただし、十年後の尭村成仁だけどな」
純はベッドから下りて、ぱたぱたと駆け寄った。そして躊躇せず『尭村』の胸に飛び込む。そのまま暫し顔をうずめていたが、やがてゆるゆると顔を上げ、
「うん、尭村さんだ。おんなじ匂いがする……」
『尭村』は思わず苦笑を浮かべ、
「なんだ、ずいぶんあっさり納得するんだな。普通はもう少し疑ったり訝ったりするだろ」
「尭村さんはこんないたずらしたり、嘘ついたりしないもの。信じます」
「そうか。信じてくれてありがとな、純」
心の傷にすっと染み込む優しい声に、純の涙腺は正直な反応を示した。熱い涙を次から次へと溢れさせる。頬の上をころころと落ちる雫を指先で受け止めた『尭村』は、極上の光沢を誇るテノールで、
「どうした？ 何かあったのか？」
「ぅ、ぅっ………僕、僕っ………」
喉を詰まらせて必死に答えようとする純の背中を労るように撫で、
「ったく、しょうがねえな。相変わらず泣かせてんのか。ほら、ゆっくりでいいから話してみろ」
純は頷いて、鼻をぐしゅっと啜り、
「このまま尭村さんの愛情に浸っていていいのかと……どうしようもなく不安になることがあります……」
哀しい前置きに続いて、今日の出来事を簡単に説明した。黙って耳を傾けていた『尭村』は、純の頬を手のひらで包み込み、
「辛かったな。でもな、お前に出て行かれた時の俺は、きっとお前以上に不安だったと思うぞ」
「不安……？」
「ああ。俺はお前が思っているほど強くもないし、大人でもない。そう、お前の愛情に浸って、お前に守られているのは俺の方なんだ。それを忘れないでほしい」
「ほんと……に？」
「そりゃ、俺が言うんだから間違いない」
頬から伝わる温もりとともに、『尭村』の言葉が身体に染み込んでゆく。純の瞳から新たに溢れた涙は、先刻のものとは少し違っていた。
「分かり……ました。忘れません」
純の答えに、尭村は頷いてふわりと微笑んだ。目尻にできた浅い皺に大人の男性の色気を感じた純は、高まる鼓動を抑えるように胸に手を当てた。
すると『尭村』のひんやりした指先が顎に触れ、そのまま上を向かされた。無防備な綻びを見せる純の唇は口づけを期待するようにわなないたが、『尭村』はまず濡れた目尻に唇を添わせ、涙を吸い取った。そして頬に残る微かな涙跡をなぞり、最後に唇を塞いで軽く吸った。
柔軟性と弾力性を見せつけるように、純の唇はぷるんと揺れる。『尭村』は思わず目を細め、もう一度同じ場所に軽く唇を押し付けてから姿勢を正し、
「いつか俺は、お前の過去と正面から対峙することになる」
口づけの甘さを払拭するような引き締まった声と厳粛な眼差しを浴びた純は、瞬時に悟った。ああ、この『尭村』は何もかも全て知っているのだ、と。
「それでも尭村さんは……僕を愛してくれるの？」
「知りたいか？」
純の迷いは、僅かなものだった。『尭村』の目を見据えたまま首を振り、
「いえ、僕に必要なのは知ることではなく、信じること。尭村さんを信じて、いつか訪れるその時を待ちます」
『尭村』は月も色褪せるほどの美しい微笑みを浮かべて、純の頭をぽんぽんと撫でた。純は暫しぽーっと見愡れていたが、やがてもじもじと身体を揺らして、
「あの……ひとつ訊いていいですか？」
「ん？ なんだ？」
「尭村さんてその……ずっとえっちなんですか？」
純が何を訊こうとしているのかすぐに察した『尭村』だったが、眉間に皺を寄せてとぼけてみせる。
「質問の意味が分からねえな」
「だからその……今の尭村さんがすごくて……。年を重ねればせ、性欲も落ち着いてくるのかなあって」
「ああ、なるほど。安心しろ、大丈夫だ」
『尭村』の答えにほっと安堵の息を吐く純。しかし『尭村』はにやりと笑い、
「十年後には、お前も俺と同じくらいエロくなってるから」
純はぱたぱたと大きな瞬きを繰り返し、一拍おいてぼっと火のついたように赤くなった。
「か、からかわないでください！」
「からかってねえよ。紛うかたなき事実だ」
「ふえ〜〜」
恥ずかしさと驚きに情けない悲鳴を上げ、かくんと首を折る純を、『尭村』は楽しげに見下ろす。が、ふと窓の外に視線を移し、
「ああ、やっぱり。そろそろ来る頃だと思っていた」
その言葉に促され、純も外を見る。月明かりと外灯に蒼く照らされた冬の夜道を、誰かがこちらに向かって真直ぐ駆けてくる。
「まさか……尭村さん？！」
「そのようだな。ほら、行けよ」
純は「はいっ」と返すと、部屋を飛び出そうとした。が、途中で振り返って、
「尭村さん、ありがとう。また、逢えますよね？」
「ああ、十年後にな」
純は笑顔で頷いて、背中を向けたのだった―――
「んっ……ふ………」
鼻にかかる甘い吐息を朝の澄んだ空気に溶け込ませながら、純はゆっくりと目を開けた。全てのものが冷たく引き締まる冬の朝。しかし純の身体は程よい温もりに包まれ、いつ蕩けてしまってもおかしくないほどだった。
「起きたか？」
「ん……まだぁ……」
「起きてるじゃねえか」
苦笑混じりの言葉とともに、優しいキスが下りてくる。純はそれをうっとりと受け止め、唇に残る余韻を味わいながら、
「あのね、成仁。とっても不思議な夢を見たよ。僕が―――」
「まさか、高校生の俺に逢う夢を見た、なんて言わねえよな？」
「えっ……」
純は顔に驚きを張り付けたまま固まり、やがてそっと顔を上げ、
「もしかして……成仁も見た、とか？」
「高校生のお前に逢う夢なら見たぜ。夜、部屋で独りで泣いてた。過去のことで俺と言い合ったらしい。それで不安になってしまったようだ」
「僕も同じ。高校生の成仁が、不安を打ち明けてくれたんだ。過去のことでまだ苦しんでいる僕を、自分は癒してやることができるのか、って」
尭村は思わず天井を仰ぎ、
「またかよ。何でこう、夢が繋がるんだ？ ったく……」
呆れたように呟く。対して純はふふっと微笑って、
「まあまあ。クリスマスなんだからいいでしょ？ サンタクロースの贈り物だと思えば」
「アホくさ」
せっかくのロマンチックな提案をあっさり切り捨てられた純は、仕返しとばかりにぐりぐりと頭突きをして、
「高校生の成仁は今の説明でちゃんと納得してくれたよっ。それに比べて誰かさんはロマンを解さないというか。ほんと可愛くないんだから」
「おお、それはこっちの台詞だ。高校生のお前は淑やかでめちゃくちゃ可愛かったぞ。“尭村さん”て呼び方も、かなり新鮮だったな」
「夢の中の成仁は、現在も過去も未来もいつだって純は可愛いって言ってくれました」
「何だよそのゲロ甘な台詞は。聞いてるこっちが恥ずかしくなる」
裸の四肢をしっかり絡めたまま、痴話喧嘩を続ける二人。が、どちらからともなくぷっと吹き出して、楽しげに視線を重ねた。純は口元を綻ばせ、
「そういえば、“成仁”って呼んだら驚いて固まってたよ」
「はっ、情けねぇな。でもまあ、高校生の時は想像もできなかったからな。こんな風に名前を呼ばれるなんて」
「うん、そうだね。僕も想像できなかった。何度かがんばって呼んでみようとしたけど、心臓がばくばくして舌がもつれて……」
当時のことを思い出したのか、純の表情に甘い懐古の陰翳が広がった。そしてほぅっと息を吐き、
「あの頃の僕は不安と迷いばかりだった。でも……」
尭村の迷わぬ愛があったから、今の幸せに到達することができた。今さら言葉にするのも面映い想いを眼差しに乗せて、抱擁をねだるように両手を伸ばす。もちろん尭村はすぐに応え、背中に両腕を回してすくい上げるように抱き締めてくれた。
隙間なくぴったり重なった素肌の心地よさに、純は思わず溜め息をこぼす。そして自らも尭村の背中に腕を回し、背骨や肩甲骨の隆起を慈しむように指先でなぞった。すると、左手の手首が朝日を受けてきらりと光るのが視界に入った。
昨夜、クリスマスプレゼントにもらったプラチナのブレスレット。去年は指輪、その前はチェーンネックレスだった。
『お前の身体に一つずつ枷を嵌めて、完全に俺のものにしてやる』―――ゆうべ、情交の最中に尭村が叩き付けた宣告が、耳の奥に蘇る。それは媚毒のごとくあっという間に身体を巡り、鳩尾の奥に不穏な疼きを灯した。
「ああ……成仁……」
思わずこぼれた喘ぎ混じりの呼びかけを、尭村が聞き逃すはずもなかった。もちろん、その中に息づく官能の艶も。
「どうした、これだけで感じたのか？ ん？」
ねっとりと囁きながら、背中に回した手を焦らすようにゆっくりと下方に滑らせ、ゆうべ何度も乱暴に割り開いた谷間をなぞる。すると腕の中の身体は悶えるようにぶるっと震えた。尭村は低く笑って、
「そういや、夢の中でお前に訊かれたな。尭村さんは十年後もエッチですか？って」
「それで、ちゃんと正直に答えたの？ 三十路を間近に控えても枯れるどころかますます盛んだって」
「ああ、正直に答えた。その頃にはお前も俺と同じくらいエロくなってるから安心しろってな」
唇を尖らせて「嘘つき」と返す純を、尭村は冷ややかに見返して、
「嘘つきはどっちだよ、ほら」
そう言うと同時に、昨夜の爛熟の痕跡を残した純の秘部にずぶっと指をうずめた。
「すげえ熱い。おまけに奥までヒクヒク波打ってる。ゆうべあんだけやりまくったのに、もっと欲しいって言ってるぞ」
「や………ん……も、バカ………」
純はいやいやと首を振りながらも、誘うように自ら足を開く。尭村は腰の芯にじわじわと熱が溜まってゆくのを感じつつ、指を増やして純の中を巧みに広げていった。
「挿れるぞ」
「ん……きて……」
朝の冷気が入り込まないよう布団を肩まで引き上げると、尭村は大きく張り出した亀頭を手探りで純の蜜壺に沈めていった。
「あ……ふ……ぅ…ン………」
途轍もなく大きな異物が、己の形を刻み込むように筒肉を広げてゆく。その全てが収まり、異なる二つの鼓動が重なった瞬間、それは純にとって異物ではなく身体の一部となった。
「僕も……夢の中で成仁に訊かれたよ。十年後の純は幸せなのか、って……」
「そうか。で、何と答えたんだ？」
「教えてあげない、って。幸せだと知ったら努力を怠るかもしれないでしょ。でもきっと、僕に逢って分かったと思うよ」
「ああ、そうだな」
尭村は緩やかな笑みの形を描いた唇を純の耳元に押し付け、クリスマスの祝福を囁いた。純も同じ言葉を返すと、それから二人は高まる性感の波に身を任せ、ゆったりとしかし確実に絶頂へと昇り詰めていったのだった。
―――世にも不思議な、クリスマスの物語。
（Fin）
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