First Sweet Valentine
１.
一年に一回、恋する女性の大イベントといえば、今さら言うまでもない。
２月１４日、バレンタインデー。この日は日本中でチョコレートが飛び交い、女性が愛の告白をする。
そしてある者は成就の喜びに沸き、ある者は叶わなかった恋の残影に涙する。それは、このひまわり幼稚園チューリップ組（ややこしい）でも同じだった。
「あの……ゆきひとくん、ちょっといい？」
幼稚園の園庭でブランコの順番待ちをしていた雪仁は、後ろから声を掛けられて振り向いた。そこには、同じチューリップ組の鈴木ひなちゃんが、両手を背中に回してもじもじしつつ立っていた。
やっとブランコの順番が回ってきそうだったから列を離れるのは心残りだったけれど、母親からの「女の子には優しくしなさい」という言い付けを守って、雪仁は渋々ながら頷いた。
「なぁに？ ひなちゃん」
ひなちゃんは尚ももじもじしていたが、それは本当に恥ずかしいからというより、何だかわざとそうしているように雪仁には見えた。もちろん、そんなことを彼女に言うつもりはなかったが。
「うん、あのね………」
ようやく意を決したように頷いて、後ろ手に隠していたものを雪仁の前にずいと差し出した。それは赤い包装紙に金色のリボンが掛けられた小さな箱。今度は本当に恥ずかしかったのか、ひなちゃんは頬をほんのり染めて、
「これあげるっ」
「え？ ぼくに……？」
「うんっ」
雪仁は目の前に差し出された赤い箱をぽぉっと見つめて、ちょんと首を傾げた。
「なんで？ 今日はぼくのたんじょうびじゃないよ。クリスマスでもないし……」
するとひなちゃんはこれまでのしおらしい態度から一転、急にお姉さん口調になって、
「もおお。ゆきひとくんてばニブいんだから。今日はバレンタインなのよ」
「ばれんたいん？」
ひなちゃんはいかにも“仕方ないわねえ”という風に溜息をついて、
「バレンタインはね、好きな人にチョコレートをあげて、愛のこくはくをする日なの」
ひなちゃんの言葉は、雪仁に深い衝撃をもたらした。
「すきな……ひとに……？」
「そうよ。だから………」
今度はひなちゃんは、“お姉さん”から“女”になった。スモックのすそをつまんで身体をくねらせ、
「だからこれあげるっ。ひなはね、ゆきひとくんが好きなの」
しかし雪仁はもう聞いていなかった。ひなちゃんに背中を向け、慌てて走り去ろうとする。ひなちゃんは驚いて、チョコレートを持ったまま追い掛ける。
「ゆきひとくん、待って、待ってよぉ。どこ行くのっ？」
「すきなひとにこくはくしなくちゃ！」
「ええっ？ ひなは？ ひなのことは？」
すると雪仁はいったん立ち止まってくるりと振り返り、
「ぼく、ひなちゃんよりもっとすきなひとがいるんだ」
そう言って再び一目散に駆け出した。即行でフられたひなちゃんは赤い箱をぎゅっと握り締め、わなわなと震え出し―――
「ぅ……ぅぇぇっ………ぅぁぁぁーーーーん、ゆきひとくんのばかぁッ」
涙を振りまいて号泣した。
これが未来の俺様桐生雪仁の、人生で初めて女を泣かせた瞬間だった。
「たいへんだ、たいへんだ」
雪仁はあたふたと教室に戻ると、自分の荷物をロッカーから取り出した。みんな園庭に出ているため、教室には誰もいなかった。
「んと………」
雪仁は鞄の中から＜だいじなものぶくろ＞を出して、チャックを開けた。そして中を探り、お金がちゃんと入っていることを確認する。
これは万が一、友だちと遊んだりして迷子になった時に家へ帰ってこれるように、母親が持たせてくれたお金だった。千円札が３枚ある。これだけあればきっと、チョコレートを買って学校まで届けに行くことは可能だろう。
学校、即ち大好きな純のいる蒼薇学園へ。
「純たん、待っててねっ」
雪仁はスモックの上から黄色い鞄を掛け、意気揚々と幼稚園を飛び出したのだった。
幼稚園を出た雪仁は、真直ぐ商店街を目指した。ここへは母親とたまに買い物に訪れたこともあり、ケーキ屋がどの辺にあるか知っていたのだ。
「あ、あったぁ」
白い外観がひときわ目立つお店へ一目散に駆け込むと、宝石のようにきらきら輝くケーキのショーケースには目もくれず、バレンタイン用のチョコレートコーナーへ。
「うわあああ、いっぱいあるぅ」
突然現われたこの愛らしいお客様に、売り子たちは作り物でない笑顔で応対した。
「いらっしゃいませ。ママといっしょなの？」
もしここで正直に一人であることを告げたら、連れ戻されてしまうということを雪仁は分かっていた。だから頷いて店の外を指差し、
「うん。ママはおそとで待ってるの。ぼくひとりでもお買いものできるもん」
そう言って、鞄の中から千円札を取り出した。案の定売り子たちは「可愛い〜〜」とはしゃいで、喜んで雪仁の相手をしてくれた。
「何が欲しいのかな？」
「えとね、ばれんたいんのチョコレート！」
意外な返答に彼女らは目をぱちぱちさせ、
「バレンタインのチョコレートを、どうするの？」
雪仁は呆れたように目を見開いて、
「きまってるよぉ。すきなひとにあげるんだよ」
するとお節介な一人が、間違いを正してあげようと腰を屈めて話し掛けた。
「あのね、バレンタインっていうのはね―――」
しかし別の売り子に引き留められる。
「まあまあ、いいじゃない。で、きりゅうゆきひとくんは、どんな女の子にあげるの？」
雪仁の胸に付いている名札を見て、笑顔で訊ねる。しかし雪仁は眉間を寄せて、
「純たんは女の子じゃないよぉ。とってもきれいだけどね、男の子なんだよ」
途端に黄色い喚声が沸き上がる。
「いいッ、この子いいッ。将来超有望！」
「ヤバい………妄想がぁ………」
「年の差、幼稚園児攻め………ああ、いいかも………」
勝手に盛り上がる彼女らは放っておいて、雪仁はぴょんぴょん跳ねてチョコレートの棚を必死に覗き込もうとする。するとその内の一人が、よく見えるように雪仁を抱き上げてくれた。
雪仁はきちんとお礼を言ってから、瞳を輝かせてじっと見入る。
「ねえねえ、このくまさんのチョコはどうかなあ。かわいいでしょ？」
「このピンクのハートもいいよね〜」
雪仁の年齢に合わせて、可愛らしいタイプのチョコを勧める。しかし雪仁はくまのチョコには見向きもせず、大きなハート型の板チョコに目を止めた。中央に、何か文字らしきものが書いてある。雪仁はそれを指差し、
「おねえさん、これは何てかいてあるの？」
「え？ ああ、これは英語ね。“Love You Forever”って書いてあるのよ」
「どうゆう意味？」
「永遠にあなたを愛します……かな？」
雪仁はちょっと眉根を寄せ、
「“えいえん”てなに？」
「う〜ん、そうねえ…。これからずっとずっとずーっと、ってこと。つまり、ずっとあなたを愛します、ってことね」
雪仁は興奮した面持ちで頬を火照らせ、
「これっ、ぼくこれにする！ このチョコがいい！」
「えっ？ これ？」
「うん！ ずーーーっとえいえんにしゅきだもん！」
雪仁の情熱にあてられたのか、売り子たちまで頬を赤く染めて注文に応じた。自分たちでさえ言われたことのない濃い愛の言葉が書かれたチョコを丁寧にラッピングし、金の縁取りがされたリボンでふんわり飾る。
「はい、お待たせいたしました」
「うわあああ……」
雪仁は恭しい手付きで受け取り、瞳をきらきらさせて見つめた。やがて箱をぎゅっと胸に抱いて、
「おねえさん、ありがとう！ じゃあね」
「じゃあね、きりゅうくん。気持ちが伝わるといいね」
「うんっ」
小さな後ろ姿が店から出ていった後、店内で黄色い喚声が再び響き渡ったことは言うまでもない。
達成感に胸を躍らせつつ、雪仁は次の目的に向かって走っていた。もちろん、買ったばかりのチョコレートを胸に抱いて。
「えと………あ、あっちだ」
駅前の大きなロータリーには、客待ちのタクシーがずらりと並んでいる。すごい量で、ロータリー内に入りきらず大通りにまで並んでいた。
雪仁はロータリーではなく、大通りに並んでいるタクシーに近付いて腕を伸ばし、窓ガラスをこんこんと叩く。そして不思議そうに首を傾げながら助手席のドアを開けた運転手に、千円札２枚を差し出した。
「おじさん、ぼくをそうびがくえんに連れていって」
「え？ ぼうやを……？」
「うん。おかね、これじゃ足りない？」
不安げにたずねる雪仁に、運転手はかぶりを振って、
「いや、ここからなら１２００円くらいで行けるよ。それより、ぼうやは一人じゃないよね？ ママは？」
途端に雪仁はしゅんと項垂れて、
「ママに会うためにそうびがくえんに行くんだ……」
「ママに会うために？」
「うん……パパとママはりこんして、ぼくはパパといっしょに住んでるの。だからママに会えなくて………」
運転手は身を乗り出して聞き入っている。雪仁は顔を上げて真直ぐ彼の顔を見つめ、
「今日はママのたんじょうびなんだ。だからママに会って、このプレゼント渡したいんだ」
「そうか。ママは蒼薇学園で先生をしているんだね？」
「うん。おじさんお願い。ぼくを連れて行って」
人のいい運転手はぐすんと鼻をすすり上げ、
「よおっし、分かった。おじさんが連れて行ってあげるからな。ほら、後ろに乗れ。今ドアを開けるから」
「ありがとう、おじさん」
嘘八百を並べ立てて大人を騙したとは思えないほど無邪気な天使の笑顔を浮かべ、雪仁はタクシーの後部座席にちゃっかり座り込んだのだった。
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